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ミサ/レクイエムの式次第 続唱 (Sequentia)


A-2-d. 続唱 (Sequentia)  (固)(歌)
      「レクイエム第2曲:Dies irae」
      「レクイエム第3曲:Tuba mirum」
      「レクイエム第4曲:Rex tremendae」
      「レクイエム第5曲:Recordare」
      「レクイエム第6曲:Confutatis」
      「レクイエム第7曲:Lacrimosa」

 前述の繋ぎの聖歌の第2のものから派生したものです。
 グレゴリオ聖歌の旋律によるアレルヤ唱はキリエと同じように、1音節にきわめて多くの音符を配し、高度にメリスマ的で装飾性が高いのが常でした。そのアレルヤという言葉の長い母音の部分に、「詩篇」の詩句がシラビック(1音節が一つの音に対応するのに近い)に付随して全く新しい聖歌が作られました。これがセクェンツィア (Seqentia) と呼ばれるものでアレルヤ唱に「続く」祈りということからこの名前が付いています。
 セクェンツィアは特に13世紀頃に大流行し、アレルヤ唱から独立してミサの随所に挿入されるようになりましたが、セクェンツィアは典礼の本質ではなく、いわば解説文のようなものだったために、トレントの公会議で大幅に制限され、「死者のためのミサ」のセクェンツィア、即ち、「Dies irae」を含め五つだけが生き残りました。
なお、聖母マリアの七つの苦しみの祝日のためのセクェンツィアがこれまた名曲の多い「Stabat Mater(悲しみの聖母)」です。
 さて、「Dies irae」ですが、「その日は憤りの日」(ゼファニヤ1:15)に始まるこの長大な詩を書いたのは、フランシスコ会士チュラノのトマス(1200年頃の人)だといわれています。彼は始祖フランチェスコに親しく仕え、その死後、師の伝記を書いた人です。戦乱と疫病、悲惨の世にあって驚くほど明るい透明さを持った詩を書いた師フランチェスコとは対照的に、トマスはこの世相を神が怒りをもって罪ある人を裁く最後の審判の前兆とみました。典礼文として他に類を見ないほど主観的なこの詩は死を恐れる人間の心理に深くしみとおり、感動を与えずにはおきません。
 音楽的には、グレゴリオ聖歌のメロディーも有名で、色々な作曲家がモチーフとして引用したりしています。モーツァルト以降、このセクェンツィアは特に劇的な表現をもって作曲されるようになりましたが、逆にこれを作曲せず控えめな表現をめざしたフォーレやデュリュフレの例もあります。


「レクイエム第2曲:Dies irae」

ダヴィドとシビラとの預言のとおり、この世が灰に帰すべきその日こそ、怒りの日である。
審判者が、すべてをおごそかにするために来たもうとき、人々の恐れはいかばかりであろうか。


「レクイエム第3曲:Tuba mirum」

この世の墓のうえに、不思議な響きを伝えるラッパが、全人類を玉座のまえに集めるであろう。
人間が、審判者に答えるためによみがえるとき、死と自然界は驚くであろう。
そのときこの世を裁く、すべてのことが書き記されている書物が、持ち出されるであろう。
審判者が裁きの座につくとき、隠されたことはことごとくしられ、あらゆることが裁かれるであろう。
そのとき、あわれな私は何を言おうか。どんな弁護者にたのもうか。義人さえも不安を持つであろうに。


「レクイエム第4曲:Rex tremendae」

恐るべきみいつの大王よ、救われるものを御恵みでもって救い給うあわれみの泉よ、私をも救い給え。


「レクイエム第5曲:Recordare」

慈悲深きイエズス、地上に御身がくだりたもうたのは、私のためでもあった。その日、私を滅ぼしたもうな。
私を捜し求め、十字架の刑でもって私をあがないたもうた御者よ、その労苦をむなしくしたもうな。
正義によって罰し給う審判者よ、報告すべき日より先に、私に許しの恩寵を下し給え。
私は、とがあるものとして嘆く。罪を恥じて顔を赤らめる。神よ、こいねがう。私をゆるし給え。
マグダラのマリアを許し、よい盗賊の願いを聞きたもうた御者は、私にも希望を与えたもうた。
私の祈りは聞き入れられる価値のないものであるが、ご慈悲なる御者よ、あわれみを持って、私を永遠の火に追いやりたもうな。
羊の中に私をおき、牡山羊から引き離し、御右に置き給え。


「レクイエム第6曲:Confutatis」

呪われたものどもを罰し、激しい火の中に落とし給うとき、私を選ばれたものの一人として招き給え。
灰のように砕かれた心をもって、ひれ伏して願い奉る。私の終わりのときをはからい給え。


「レクイエム第7曲:Lacrimosa」

罪ある人が、裁かれるために、ちりからよみがえるその日こそ、涙の日である。
願わくは神よ、かれをあわれみたまえ、主よやさしきイエズスよ、彼らすべてに安らぎを与え給え。アーメン。

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