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ミサ/レクイエムの式次第
 信仰宣言 (Credo)


A-2-f. 信仰宣言 (Credo)  (通)(歌)
      「ミサ曲第3曲:Credo」


 ついで「クレド」が行われます。但し、「グローリア」とどうように「死者のためのミサ」の場合は省かれます。
 「クレド」はキリスト教の主要な教義を列挙した祈りで、その内容はニケア(325年)とコンスタンティノーブル(381年)の二つの公会議で確認されたカトリックの教義を骨子としています。そのために「ニケア・コンスタンティノーブル信条」と呼ばれることもあります。6世紀初頭にまずコンスタンティノーブルの教会がミサの中で唱えるようになり、東方教会、スペイン、イギリス等を経て、11世紀始めには正式にローマ典礼のミサの一部と決められました。「死者のためのミサ」の中でクレドが歌われないのは、本来は賛歌としてミサの中で歌われるようになったもので、信仰の告白と理解されるようになったのは宗教改革以降だからです。
 クレドは平日のミサにはなく、日曜日と祝日だけに唱えられます。歌唱ミサの場合にはグローリアと同じように、最初の1節は司祭により先唱されます。これを受けて、多声音楽のミサの場合でも、モーツァルトの初期のミサを含めて、規模の小さい曲では「Patremomnipotentem(全能の父)」から作曲されているものが多くなっています。
 バロック以降のミサ曲では、クレドの作曲技法には約束事のようなものがあり、冒頭はフォルテで、しかもアレグロなどの速いテンポで始まり、「descendit de caelis(天より下り)」の部分では下降旋律を、「Et ascendit in caelum(天に昇り)」では上昇旋律を用いることが多くなっています。《筆者注:K.258ではその前の「Et resurrexit tertia die(三日目によみがえり)」で上昇旋律が用いられている。また、中間の部分「Et in carnatus est de Spiritu Sancta(聖霊によりて、御からだを受け)」ではテンポが緩くなって転調し、多くの場合、ソプラノのソロにゆだねられます。《筆者注:K.258ではテノールのソロcujus regini non erit finis (主の国は終わることなし)」の「なし(non)」は必ず繰り返され、最終節の「Et vitam venturi saeculi Amen(来世の生命と待ち望む。アーメン。」では規模の大きなフーガが用いられることが多くなっています。
《筆者注:K.258 のミサ曲を始め、モーツァルトのザルツブルグ時代のミサ曲ではグローリアとクレドは比較的淡々と(シラビックかつホモフォニーが中心で)歌詞が進んでいきます。これは、ザルツブルグの大司教がミサの時間が長くなるのをいやがったことと、フーガになった場合、歌詞が聞き取れなくなるのを嫌ったためといわれています。


「ミサ曲第3曲:Credo」

我は信ず、唯一の神、全能の父、天と地、みゆるもの、
見えざるものすべての創り主を。
我は信ず、唯一の主、神の御一人子イエズス・キリストを。
主は、よろずよの先に、父より生まれ、神よりの神、光よりの光、
まことの神よりのまことの神。
つくられずして生まれ、父と一体なり、すべては主によりて創られたり。
主はわれら人類のため、またわれらの救いのために天よりくだり、
聖霊によりて、おとめマリアより御からだを受け、人となり給えり。
ポンシオ・ピラトのもとにて、われらのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ給えり。
聖書にありしごとく、三日目によみがえり、天に昇りて父の右に座し給う。
主は栄光のうちにふたたび来たり、生ける人と死せる人とを裁き給う。
主の国は終わることなし。
我は信ず、主なる聖霊・生命の与え主を、聖霊は父と子よりいで、
父と子と共に拝みあがめられ、また預言者によりて語り給えり。
われは一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、
罪の許しのためなる唯一の洗礼を認め、
死者のよみがえりと来世の生命とを待ち望む。アーメン。

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