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【 1988年 第15戦 F1日本グランプリのレース概要 】
 予 選 
 昨年よりターボ規制が強まった中、予選タイムはどの程度になるか、という思惑から予選が始まった。1日め、セナが、1'42"157。続いて、昨年のポールシッター、ベルガーが2位。プロストは、体調が悪いためか、セナより1秒半以上遅い3位。
 2日めは、セッション途中の赤旗、小雨でしばらくのインターミッション状態になり、後半勝負となった。この中でセナは1人だけ1'41"台でポール獲得。プロストは逆転を狙ったが、最終アタック、最終コーナーでシフトアップをミスし、1'42"前半の2位に留まった。NA勢は、カペリが好調で、4位。レイトンハウスの赤城社長も大喜び。チーム監督のイアン・フィリップスは、予選タイムの賭けに負けた結果、カペリに1000ポンドも払うはめになるうれしい誤算。
 中嶋は、母親の死にも拘わらず、最高の走りで予選6位。1000分の1秒までピケと同タイムだったが、タイムを出した時刻が遅かったため5位を逃す。
 鈴木亜久里が、ラルースからスポット参戦。F3000よりパワーのあるマシンに首の負担を訴えていたが、20位で予選通過。


 決 勝 
 ポールのセナはスタート失敗し、順位を大きく落とした。しかし、ここから目覚ましい追上げで1周めには8位、11周めには3位、20周めには2位と急速に挽回した。28周め、周回遅れに、ためらいを見せたプロストの隙を突き、ホームストレートエンドでパス。その後のプロストの追撃も、周回遅れのマシンと終盤の雨に阻まれ成功せず。セナが、念願の初タイトルを得た。
 中嶋も、スタート失敗したものの、エンジンが再始動し、目覚ましい追上げを行った。雨の中のラップでは、セナより速い時もあった。しかし、入賞まであと一歩の7位。もし、スタート順調であれば、恐らく3位に入れたのではないかと思う。中嶋が表彰台を狙うチャンスは、コーナリングスピードが上がっていって身体的にハードになったNA時代でなく、ターボの時だったかもしれない。
 亜久里は、初のF1レースで数回のスピンや先輩ドライバーの仕掛けにも耐え、16位で完走した。

 セナの初チャンピオンは、日本でも増えていたファンから大きな喜びの拍手で迎えられた。

 しかし、タイトル獲得の瞬間から、歴史のコマは回りだし、その後のプロストとの確執へとつながっていく。そして、あの1994年5月1日の悲劇も、そういった一連の流れの結末であったような気がしてしかたがない。あるF1ファンの、「1984年はラウダ、1985年がプロストという例と同じように、1988年がプロスト、1989年がセナと、チャンピオンが禅譲されていれば、あのような二人の不仲も起こらず、すべてうまくいったのに」という言葉が私の心に刻まれている。
 でも、セナの生き方は、あの偉大な登山家マロリーが「そこに山があるから」という言葉を残して、エベレストの露と消えたのに匹敵する、F1聖人とでもいう生き方であった。妥協を知らない、自らを、速さと勝利に捧げたセナ。彼の王者としての5年半のページが、この鈴鹿での勝利で、開かれた。

 ......歴史を振り返ると、勝利を呼んだ雨は、ひょっとすると先の定めを知る運命の女神がセナのために流した涙だったのかもしれない......

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(1996.11.22 初版、1998.02.25 改訂)

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