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音楽を愛する人、石動氏。長年親しんできたピアノへの思いを、個展とも言うべき来るリサイタルで如何に表現してくれるのだろうか。ここに自ら語るピアニストとしての心境は、語り古された音楽観とは別な新鮮な感覚を伝えてくれている。
リサイタル開催に当たって
by 石動 正和
この春、私は家近くの路上で、偶然ある年配の方に出会った。柔らかな日差しの中で話は進んだが、その方は、「体調不良を押して烏丸丸太町であるはずの会合に出かけたが、なんの手違いからかその会合は開かれておらず、落胆して此処まで帰ってきた」ことを話された。
その後二三の話題が続いたが、最後に私が、「以前、被災地の神戸でピアノを弾き大変喜ばれた」こと、そして「京都でもまた弾いて欲しいと言われたが迷っている」ことを話した。すると、「何より自分の感覚を大切にすること一一その自信があれば人にも通じる。もし近くで弾かれるならぜひ行きたい。決まったら出来るだけ早く知らせて」と言われ、別れ際「あなたと話をして、少し元気が出てきた」と言って笑われた。この一言が、私の迷いを吹っ切らせる契機になったと思う。大きな決心には、偶然が作用することもある。あの出会いがなかったなら、機会はもっと後か、ことによると無かったかも知れない。その方とは、随筆家の岡部伊都子さんであった。
なぜ迷うのか? 理由は、掛けるべきエネルギーの大きさにある。今回の曲目に現れる音符の数を機械的に計算すると、実に2万近くになる。この膨大な音符を正確に覚え、再現することは容易でない。一旦覚えたものでも、その時果たして記憶から確実に引き出せるか? このプレッシヤーに負け、プロでも、目も当てられないような事態になることを我々はよく知っている。
次にその再現が、曲毎に音楽的必然性をもって聞く人の心に到達できるか?加えて、「リサイタル」とは「朗読」の意であることに示されるように、非言語による一連のメッセージ伝達が求められる。音だけで二時間近く一貫した話ができるか? そして最後には、得も言われぬ感興、非日常的なスリルと興奮で会場全体を包み込めるか? こうした様々な条件を目の前にして、たじろがないようなピアノ弾きはいまい。
野球一試合の所要時問は2-3時問だが、その間実際にプレーしている時間を集めると、たったの12分であると言う信じ難い話がある。これ程ではないが、2時間のピアノリサイタルのうち、実際に音が鳴っている時間は、1時間強である。では残りのl時間弱は何なのか? 所定の休憩時間を始め、ピアニストは曲毎にステージに何回か出入りし、T寧にお辞儀したりしながら、実は疲れた指を休めているのである。
一回のリサイタルの平均打鍵数は2万回。これが正味1時間で行われるとすると、秒当たり平均5−6回の打鍵になる。しかし、これは平均であるので、早い箇所では秒当たり10-15回にもなる。更に指の先端には、フォルテシモの時、都度強い衝撃も加わる。だから長時間弾き続けていくと、終いには指や手首が笑い出すようになる。
打鍵は単に手数の話だけではない。音色という何とも形容し難いものを付けなければならない。音色とは? これは錯綜する音の集合から筋書きを明確にするため、メロディーやモティーフ(楽曲を構成する比較的短い定型的な音形)を際立たせる手法である。講談などで用いられる声色と同じ。同属とみなされるモティーフには同じ音色を配置し、他と区別する。演奏の出来は、詰まる所この音色の使い分けの巧みさで決まる。
音色を意識した打鍵をタッチと呼ぷ。タッチとは何? 何か素晴らしく神秘的なように間こえるが、実は物理的には、ピアノの弦に都度当たるハンマーの速度制御のことである。弦の張力やハンマーの重量など殆どの特性が決まっている中で、ピアニストは一回一回のタッチに細心の注意を払い、ペダルの効果を併用しながら必要とする様々な音色を作り出す。
まことに男は、いやピアニストはつらい。
思うところあって、改めて、この一年間に私のところに届いた手紙類を数えてみた。その数およそ三千通。確かに例年以上に沢山の人と知り合いになった年だったが、この数は想像を越えるものである。数だけではない、内容も多彩で、喜怒哀楽様々である。多くの人が周りにいて、その人たちとともに私も生きている一一これは素直な気持ちである。
こうした中で、私に出来る最善のものは何か? そう思った時、プレッシャーに対する感覚が変化していくのを感じる。不遜な言い方だが、プレッシャーを楽しむということもある。カラオケに「もしもピアノが弾けたなら」と言う歌があるが、実際には限られた者しか味わえない世界。しかし私にはその機会を得て、掛け替えのないものを、周りに還元できる可能性がある。
岡部さんとの出会いは、ちようどこのような事を考えていた頃だった。
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に続く