言葉と文化

 我々人間という存在には、言葉を使わない日はない。たとえ、部屋にこもっていて、家族とも友人とも会わないでいる一日があったとしても、頭の中では無意識のうちに、言葉で考えていたりする。行動する時も、一々「次は右足を一歩進めて」ということまでは意識しなくても、「さあ、昨日買ってきたCDでも聞こうか」という具合に、言葉で念じながら身体を動かすのは普通のことである。

 一方、「あんたは、何を考えているのか、よくわからん。」とは、あまり相手に対して発言しないでいるとき、しばしば言われるセリフである。こういった時は、頭の中もぼんやりとしていて、言葉のレベルで何がしかも考えていない。顔も無表情に陥っている。結果的に、言葉で理解できる感情が読み取れないので相手も不審に思っているのである。そういうように、言葉から離れて生きている瞬間もある。

 もう一つの例は、外国に行った時、そこの国の言葉をまったく知らない場合、相手が一体何を考えているのか想像が難しく、次のアクションがどうなるのか、想定できなかったりする。言葉が読み取れないと、表情さえ判断しづらく感じる。日本人である私は、日本人相手ならば、次に出てくる言葉を(日本語で)想定しつつ、喜怒哀楽以上の微妙なニュアンスを把握していく、という作業を普段無意識のうちに実行しているようである。

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 日本人の人生では、日本語と箸のない暮らしは想像できない。毎日毎日、そのトレーニングに励んでいるとも言える。すっかり慣れっこになっているので、それが当り前になっている。その結果、同じ対象についても、外国人も同じ考え方をしているという考えに陥ったりもするが、それはあくまでも錯覚である。例えば、「昨日、友人と会った」という表現でも、英語ならば、一人の友人なのか、複数の友人なのかは、話す際には明確になっているし、主語が私一人だったのか、我々だったのかも、明らかである。イタリア語の場合は、女性の友人か男性の友人かまでも、ハッキリさせて話される。が、日本語の表現には、このようなニュアンスは普通織り込まれない。西洋人に比べ、かなりいい加減な感じ方とも言える。

 日本人は、議論下手であるとか、国際会議の場合での主張が弱い、というのも、この日本語で考えるということに、いくばくかの原因がありそうである。動詞が、語尾に来るので、最後になって結論がひっくり返ったりしやすい、長々と述べてきたことの、どの部分とどの部分が如何なる関係にあるのかが明確でない、などは、議論などに際しての、日本語の弱点かもしれない。もちろん、単数/複数、人称、時制などについても、西洋言語から見たら、あいまいである。通訳、翻訳者の方々も、随分苦労されてきていると思う。

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 一方、日本人が育んできた文化は、日本語の思考の産物でもある。能、狂言、生け花、茶道、歌舞伎、日本舞踊、祇園祭、俳句、落語、日本料理その他、現代の若者文化にまで至る多種多様の日本人の文化は、日本語を通して維持発展継続されてきている。もし、英語やドイツ語で、これらを発展させてきたら、多分かなり別の姿に変貌していたろうし、俳句のようなものは、日本語抜きで発展させることは無理である。俳句を英訳する困難さを考えると、翻訳するよりは外国の人々に直接日本語を勉強してもらって、その音律の美しさまで鑑賞してもらった方が良いとも思える。文化と言葉には、深いつながりがある。

 これと反対に日本人は、明治維新以降、各種の翻訳物を通して外国の文化を摂取してきたが、我々は本当にそれらを理解できているのであろうか? ゲーテの詩は、ドイツ語で朗読すると、その音韻の美しさも更なるものらしいが、翻訳された詩に、そこまで期待するのは酷である。音楽にしても、日本人の演奏は、西洋人の演奏するものとは、別種の出来上がりになっていると指摘する音楽家の言もある。音の立ち上がりなどの処理が日本語的になってしまいがちとのことらしい。

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 これらのことを、考え出すと、とりとめもなく、いろんなことに頭が行ってしまう。まさに、日本語の特質の一つでもある奔放さが、ここで活きてしまったとも言えるのであるが......。

私としては、今、結論を急いで出すつもりはないが、

1)文化や思考の仕方と言葉の間には、日常生活を通じ
  深い関係があること、

2)各言語にはそれぞれの特色があり、民族固有の文化
  とのつながりがある、それゆえ、私たち日本人が日
  本語のみで世界を捉えている限り日本的な世界観に
  縛られている可能性があること、

を、ここで指摘させていただいた。


1997年6月  ラ・プリマベーラ代表: 村林 成

(1997年6月初版 Salone della Primavera)