君子危うきに近寄らず

 「君子危うきに近寄らず」---この格言から来る印象は、以前は、

1)大事に育てられた若殿が戦場において、「若君自ら、
   戦の修羅場に飛び込むことはありません。ここは、
   家来供に任せて、ごゆるり見守りくださいませ。」
   との重臣からの言葉に従って、敢て危地に飛び込ま
   ない様子。

2)学問をしているやさしい男子が、市中の喧嘩に出くわ
   しても、敢て仲裁に乗り出すでもなく、そそくさと、
   その場から立ち去っていく様子。

などと思っていた。つまり、箱入り息子は敢て勇気を奮って危険なことをすることはない、あるいは、その手の男子は勇気に欠けるところがある、というような意味で捉えていたが、最近は、少々、これとは違った積極的な意味として感じるようになってきた。この格言は、行動する場合のある戦略的アプローチではないか……。物事を行った場合、よく失敗する人がいる反面、何をやってもソツがなく、「いっぺん、あいつが失敗するところが見たい。」というような優等生がたまにいる。この違いは、どこから来るのであろうか?

 昭和40年からプロ野球で9年連続日本一に輝いた川上巨人軍。戦力的に非力と言われていた年があっても最終的に優勝してしまうこともしばしばで、アンチ巨人ファンからは、実にいまいましい読売ジャイアンツであった。これはONが健在だったばかりでなく、牧野コーチの「局面局面で、いかに負けない確率が高い方法を考え対応していった。」という言葉が、勝利への鍵を握っていたと思える。
 例えば、ランナーが一塁に出たら、次のバッターにバントをさせ二塁に進めることで確実に得点のチャンスを大きくするような采配のことを牧野コーチは言っていたと思う。一塁から本塁に帰すためには、二塁打以上の長打が必要だが、プロの場合、相手のピッチャーから長打を打てる可能性(確率)はあまり高くない。その意味で、バント策は得点の確率を高める方法と言える。
 一方、ワンアウト二三塁のようなピンチの時、敢て次のバッターと対決せず、敬遠のフォアボールにする満塁策も今は当たり前だが、これも相手チームに得点を与える確率を低くする方法である。というのはどういう打球が飛んでも、本塁へ送球すれば必ずアウトにできる、というように守備側で守りの選択肢を狭めて判断ミスを少なくすることができるからである。
 今では、それほど珍しくないプロ野球の采配も、30年ほど前は必ずしもそうでなかった。これは例えば、国鉄(当時。現在のヤクルトの前身。)の速球王、年間30勝投手の金田と巨人の50本塁打の王との一対一の一騎打ちの対決が、プロ野球ファンからも期待されていたから。あたかも三国志の関羽と顔良の一騎打ちのような興趣として、試合の流れとは別に大物対決それ自体の楽しみがあったわけである。場合によると、チームの勝ち負けより、こちらの一騎打ちの方が楽しみでさえあったような時代背景である。
このような川上野球は、実に「君子危うきに近寄らず」を実践していたと思う。つまり、君子ほど聰明な人物であれば、何が失敗するかは事前に判断できるので、失敗する可能性の高い方法は予め避ける、というような意味である。

 もっと身近な例で行くと、家庭の中でも、すぐに醤油の瓶を倒して中身をこぼしてしまったり、机の上からよく物を落としたりする人はいないだろうか。このようなことをする人は、粗忽者あるいは運動神経の鈍い者として片付けられてきたが、果たしてそれだけの問題でもないと思う。食卓の上で家族の皆の手がよく行き交うところに醤油の瓶を置いていたのでは、それだけ瓶を倒す確率は高いし、逆に倒さないように一人一人が注意する必要性も増す。きっと、このような場合は、瓶を倒す結果は、一年のうち何度か起こっていると思う。このようなとき、たとえば、テーブルの端でなく、なるべく内側に置いて、誰の肘にもひっかからないようにするれば、どれだけ醤油をこぼす被害がが避けられることであろうか。また、醤油をこばさないように神経を使うことから来る不愉快さもなくなるのではないだろうか。つまり、事前に人の手で誤って倒すことの少なく、かつ使う上で不便でないところに醤油の瓶を置くことで、失敗の確率は減るはずである。世の中には、このようなことが何の苦もなくできる人から、言われてもピン来ない人までいる。これが、ソツのない人と、失敗の多い人の違いではないだろうか。

 つまり、「君子危うきに近寄らず」の言わんとすることとは、
---予め予測される失敗の起こりやすいこと(危うき)は事前に
   避けるよう手立てを打っておくこと。
---君子と言われるだけ聰明な人は、このような手立てをができ
   ること。
ではないかと、近年の私は解釈している。社会が複雑になり、一つのミスが大災害までもたらしかねない現代においては、いかに失敗を避けるかが課題とも言える。我々現代日本人は義務教育も受け、みんなが君子でありえるのだから、このような判断ができる下地は十分にあると思える。

(1997年1月26日初版)