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ブラームスの音楽


 今回は、ブラームスがどういう音楽を書いたかについて書いて見たいと思います。いつも書いていることですが、紙上でどんな音楽家を紹介するのは基本的に無理がありますので、かなり即物的な紹介でご容赦下さい。

1.概観

 添付の表は、ブラームスの作品を暦年順、ジャンル毎に並べてみたものです。現在、記録が残っている作品のすべてではありませんが、90%位はカバーしていると思います。
 細かい字ですので一々は読めないと思いますが、64年の人生のうちで、どの辺でどのジャンルの曲を書いたかを概観してもらうのには便利かと思い作ってみました。
 交響曲はある時期の10年間くらい、協奏曲は数も少ないですが、後半生です。室内楽曲は比較的長い期間にわたって作曲されていますが、中味が変わっています。ピアノ曲は前半生に多くなっています。声楽系では、合唱曲は指揮者をやっていたこともあって前半生に多いのと晩年に一塊があります。歌曲が室内楽と並んで生涯を通して作曲されているといって良いでしょう。
 作品番号は121番までで、ベートーヴェンと同じ位といえます。ただ、ブラームスは習作や気に入らない作品を廃棄してしまっていますので、実際にはもっと多くの作品が書かれたのだろうと言われています。

2.各論

(1) 交響曲

 交響曲は4曲だけです。
 ブラームス自身、ベートーヴェンの後継者を自認していたそうですので、交響曲は是非とも作曲したいジャンルでした。また楽譜出版社からも求められていました。第1番についてはブラームスは非常に慎重で、最初に構想したのは1855年頃で、完成に至るまでに、2台のピアノ用のソナタを交響曲に直すことを試みたり、色々なことをやったようです。その間、断片をクララ・シューマンやその他の友人に送って意見を求めるなど、苦心惨憺していました。結局第1番は1876年にカールスルーエで初演されました。その後、何度か改訂が加えられ現在の形になっていますが、初期稿は回収することにしていたブラームスにしては珍しく、初演の楽譜の回収が漏れ、それが現在に伝わっています。それによれば4楽章構成ではなく5楽章構成であったとか、響きも異なるなど相当違ったものだったようです。初演の評判は芳しいものではありませんでした。それは、この曲が完成した頃には、ドボルザークやチャイコフスキーが新しい時代の交響曲を数曲書いており、やや時代遅れの感がありました。聴衆から歓迎されたのは、1878年にブラームス自身の指揮でハンブルグにおいて演奏された時で、それ以降は広く受け入れられるようになっていきました。
 難産だった第1番とは好対照なのが第2番で、1877年の6月頃から10月頃の半年にも満たない期間で書き上げられました。12月に初演が行われ、第1番の時とは違って文句なしの大成功を収めました。
 第1番と第2番は作曲家自身が意識したように、ベートーヴェンの9曲の交響曲を引き継ぐものと評価されており、親友のヨアヒムは、第10番、第11番と読んでも良いと評しているほどです。
 その後、第3番の作曲までには5年ほどのブランクがあります。
 第3番は、1883年の夏に作曲され、その年の12月にウィーンで初演されました。初演の途中でドヴォルザークにピアノで引いて聞かせて批評を貰ったりしたようです。作品は初演の時から高い評価を得ます。
 最後の交響曲となった第4番は1884年から書き始められ、1885年の10月にマイニンゲンで初演されました。ブラームス本人はこの作品がマイニンゲンで受け入れられるかどうか危惧を抱いていましたが、結果は大好評でした。

(2) 協奏曲

 協奏曲も全部合わせても4曲しか残っていません。ピアノ協奏曲が2曲、ヴァイオリン協奏曲が1曲、ヴァイオリンとチェロの二重協奏曲が1曲です。
 このうち、ピアノ協奏曲の第1番が25歳頃という非常に若い時期の作品ですが、他の3曲は40歳を過ぎてから、即ち、本拠地をウィーンに移してからの作品です。
 ピアノ協奏曲第1番は、難産の末、1858年に作曲者自身のピアノ、ヨアヒムの指揮でハノーファーにおいて初演され、良くもなく悪くもなくという評判でしたが、続いてライプツィッヒで演奏した時には散々な評判でした。例えば「ピアノのオブリガート付きの交響曲」というような批評もあり、ソロパートが目立たないのが不評の原因のようです。
 ピアノ協奏曲の失敗に懲りたのか、交響曲の作曲の方に関心が集中したのかはわかりませんが、次のヴァイオリン協奏曲までに20年のブランクが生じます。ヴァイオリン協奏曲は、交響曲第2番の完成直後に作曲が開始されます。ヨアヒムの助言を得ながら着手後100日位でライプツィッヒでの初演にこぎつけます。この初演は必ずしも成功とはいえませんでしたが、その後に行われたロンドンのクリスタル・パレスでの演奏で大成功を収めます。この曲は終始助言をくれたヨアヒムに献呈されました。
 なお、ブラームスは初めはこの協奏曲を4楽章構成にしたかったようですが、結局は伝統的な3楽章構成になりました。
 続く協奏曲はピアノ協奏曲第2番です。1881年の7月に完成し、ブラームスは親しい女性二人、即ち、エリーザベトとクララに「小さなピアノ協奏曲を作曲しました。」というような手紙を送ったそうですが、事実は4楽章構成の大規模で演奏にも高度の技術を要するものでした。1881年11月にブラームス自身のピアノでブダペストにおいて初演され、引き続いて一連の演奏旅行の中で繰り返し演奏され、翌年の2月までの演奏旅行において演奏された都市は20ヶ所に及びました。
 最後の協奏曲は、ヴァイオリンとチェロのための2重協奏曲です。作曲されたのは1887年で、いつかも書きましたように、気まずい雰囲気になっていた盟友のヴァイオリニストのヨアヒムとの和解の意味もあったといわれています。また、この曲を書いた頃にはチェリストのハウスマンとも親しい関係にあり、この二人の助言を得ながら作曲を進めました。初演は当然のようにブラームス自身の指揮、ヨアヒムのヴァイオリン、ハウスマンのチェロで行われました。

(3) その他の管弦楽作品

 こういう分類に属するものは少なく、若い頃のセレナードが2曲と、ハイドンの主題による変奏曲、他に序曲が2曲といったところです。このうち、比較的良く知られているのは1880年に作曲された「大学祝典序曲」ではないでしょうか。この曲は1879年にブラームスがブレスラウ大学から名誉博士号を授けられたお礼として作曲されたもので、4曲のドイツ学生歌を組み込んだ、華やかな曲です。

(4) 室内楽曲(ピアノ独奏曲以外)

 表でも見ていただけるように、このジャンルの曲は生涯にわたって作曲されています。他の作曲家と比べてみると、非常に多彩な組み合わせの曲を作っているのが特徴といえると思います。一寸並べてみると、ピアノ三重奏曲、四重奏曲、弦楽四重奏曲、五重奏曲、六重奏曲、ホルン三重奏曲、クラリネット三重奏曲、五重奏曲、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタ、クラリネットソナタとなります。
 このように多彩になったのは、その時に交流のあった演奏家によってインスピレーションが起こって書いていることとも関係があるのでしょう。初期の頃には自分自身もしくは、クララ・シューマンがピアノを受け持ったピアノ関係の曲が、中期にはヨアヒムとの関係でヴァイオリン関係の曲が、晩年にはミュールフェルトとの関係でクラリネット関係の曲が多くなっています。
 また、初期に弦楽六重奏曲のようにかなり響きが重厚と思われる編成の曲が現われるの、慎重に交響曲への道を模索していたのかも知れません。

(5) ピアノ独奏曲

 ピアノソナタはごく初期に書かれただけでその後はありません。そのごく初期に集中的に書かれた後は、40歳代の後半まで、パラパラと作曲されたといっても良いでしょう。その内容は、変奏曲、ワルツ、舞曲集が多くなっています。10年ほどのブランクの後、再び書かれていますが、ここでは幻想曲と小品集となっています。

(6) 管弦楽付き合唱曲

 このジャンルに入る前に、声楽曲全般の特徴を挙げておきます。それは、オペラ、オラトリオといったストーリー性のある声楽作品はついに完成しなかったということです。興味がなかったわけではなく、かなり一生懸命オペラの台本を求めて多くの人に頼みましたが、結局、ブラームスの気に入ったものが手に入らなかったようです。もう1点は、ラテン語の教会音楽がほとんどないことです。もともとプロテスタントですからなくても当然なのですが、それでも先人たちが多くの立派なラテン語の教会音楽を書いていることもあって、ブラームスもキリエからアニュス・デイまで揃ったミサ曲を1曲作曲しました(ミサ・カノニカ)。この曲も対位法の習作的な意味合いが強く、ブラームスは破棄したつもりだったようですが、1950年に一部(ベネディクトゥス)が発見されています。これ以外には小品の無伴奏合唱曲「三つの宗教合唱曲(Op.37)があるのみです。
 《ドイツ・レクイエム》以外の管弦楽付きの合唱曲を、作曲された時期を追って書くと、《アヴェ・マリア》、《埋葬の歌》、《リナルド》、《アルト・ラプドディー》、《ドイツ軍勝利の歌》、《運命の歌》、《悲歌(N_nie)》、《運命の女神の歌》が挙げられます。以下に主なものを紹介します。
 《アヴェ・マリア》と《埋葬の歌》はいずれも女声合唱用の作品で1858年に、デトモルトで合唱の指導も行っていた時期に書かれたものです。
 カンタータ《リナルド》は元々は1863年にアーヘンのリーダーターフェルのコンテストにだすことを目標に作曲が進められ、1868年に最終的な形で完成します。この曲はゲーテの戯曲「トルクワート・タッソー」の中の「開放されたエルサレム」をテクストに用いたテノール独唱付きの男声4部合唱曲です。
 《アルト・ラプソディー》は正式の名前を「ラプソディー『ゲーテの冬のハルツへの旅の断章』」といい、アルト独唱と男声4部合唱と管弦楽という構成です。この作曲の時期にはシューマンの三女、ユーリエ・シューマンが結婚して、彼女に密かに思いを寄せていたブラームスにとって大きな衝撃を受けた時期でした。この心情が、この曲の持つ深い苦悩を思わせる雰囲気に強い影響を与えたといわれています。作曲は《ドイツ・レクイエム》、《リナルド》のいずれも最終的な形が完成した翌年の1869年です。
 《ドイツ軍勝利の歌》はこれまでの曲とはまったく趣の違う曲です。1870年からブラームスが暮らすプロイセンと隣国のフランスとの間で戦われた普仏戦争でのぷ来センの勝利を祝う歌で、プロイセンという国とその国を引っ張っていた鉄血宰相と呼ばれるビスマルクに熱烈な礼賛者であったブラームスの面目躍如といわれている曲です。この曲は皇帝ヴィルヘルムII世に献呈されました。
 《運命の歌》(1871年)はウィーンに本拠を移してからの作品でヘルダーリンのテクストによるもので、ブラームスの死生観を良く表しているといわれています。《悲歌》(1881年)は友人の画家フォイアーバッハの死を悼んで作曲されたものです。管弦楽付き合唱曲の最後となった《運命の女神の歌》(1882年)もゲーテ「タウリスのイフィゲーニエ」によるもので、呵責のない運命を通して人間の定めを歌っているといわれています。なお、この曲は、ブラームスが当時活動していた地の領主、マイニンゲン候ゲオルグに献呈されました。
 こうして管弦楽合唱曲を概観してみると、《ドイツ軍勝利の歌》は別として、人間は死すべきものといった人生を達観したような内容の曲が多いのではないでしょうか。

(7) 伴奏付き合唱曲

 ピアノもしくはその他の小編成の楽器の伴奏が付いた合唱曲はそれほど多くありません。オルガン伴奏では、女声3部合唱曲《詩篇第13番》、混声合唱曲《惜しみなく与えよ》というのがあります。このジャンルで今でも耳にする機会が多いのは、ハンブルグの女声合唱団のために1860年頃に作曲した《二つのホルンとハープの伴奏による女声合唱のための四つの歌》でしょう。特に終曲の「フィンガルの歌」は筆者が若い頃には合唱コンクールでも良く取り上げられていたものです(ただしピアノ伴奏で)。

(8) 無伴奏合唱曲

 このジャンルには聖書に題材をとった宗教的な作品、民謡に素材をとった作品等があります。ブラームスの場合、後に出てくる重唱曲や歌曲でもそうなのですが、曲名に「いくつの歌、ロマンス」と言ったものが多く、一つの曲集としてまとめられていても作曲時期がかなりばらついているものが少なくありません。以下で作曲時期を記載している場合には最後の曲が完成して、全曲揃った時点を中心に書いていることをお断りしておきます。
 宗教的な作品のうち、女声合唱曲《三つの宗教的合唱曲》(1863年頃)は“Regina coeli”等、貴重なラテン語の作品集です。《二つのモテット(Op.29)(1860年頃)、《二つのモテット(Op.74)》(1877年頃)、《三つのモテット(Op.110)》(1889年)の3作品が重要です。いずれもブラームスのルネッサンスやバロック時代の作品の研究成果が反映された傑作です。特に晩年の作品とも言える《三つのモテット》は忍び寄る厭世的な気分と天国的な救済の希望とが織り成す音調がブラームスの宗教的作品の中でも完成度の高いものとの評価がされています。この他に聖書から題材をとったものとして《祝辞と格言》(1889年)というハンブルグの名誉市民に選ばれたことの御礼に、ハンブルグ市長に献呈された作品があります。
 一方、民謡的な要素が含まれている作品としては、ヴォーチェの練習でも少し取り上げている《マリアの歌》(1859年)、《12の歌曲とロマンス(Op.44)》(1866年頃)、《歌曲とロマンス(Op.93a)》(1884年頃)等があります。その他、歌曲とおなじようにアイヒェンドルフ、ハイゼ、リュッケルト等の詩人の作品に曲をつけたものが数作品あります。なお、少し年代が上の他のロマン派の作曲家、即ち、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、といったところでは、かなりの数の無伴奏男声合唱曲があるのですが、ブラームスの場合、《五つの歌(Op.41)》(1862年頃)だけです。これは、若い頃には作曲意欲を掻き立てられるような男声合唱団に出会わなかったのに対し、ウィーン時代ではむしろ本格的な管弦楽を伴う男声合唱曲を書く機会が多くなったということなのかもしれません。

(9) 重唱曲

 ブラームスの声楽作品を見た時の特徴の一つがこの重唱曲(集)が多いことがあげられると思います。四重唱曲と二重唱曲なので、前者は合唱に近いもの、後者は独唱歌曲に近いものといえるかも判りませんが、ここでは一緒に書いておきます。
 四重唱曲は、生涯にわたって8曲が残っています。そのうち、今でも演奏される機会が多いのは、《ワルツ集「愛の歌」》(1869年頃)、《ワルツ集「新しい愛の歌」》(1874年)、《ジプシーの歌》(1887年)の3曲でしょう。前の2曲はピアノ連弾による伴奏という珍しい形をとっています。ブラームスは自分自身とクララ・シューマンで演奏するつもりで書いていて、時々は二人の手が触れるような音の配列になっているといううがった見方をする人もいます。なお、この2曲はピアノ連弾だけで演奏する形にも編曲されています。
 《ジプシーの歌》(1887年)は、ハンガリー民謡を題材に作曲されたピアノ伴奏付の四重唱曲ですが、我が国では混声4部合唱で歌われることも多くなっています。
二重唱曲集は6曲ほどが挙げられますが、あまり有名なものは無いように思います。

(10) 独唱歌曲

 独唱歌曲は、1886年頃まで、即ち50歳半ばまで継続的に作曲されています。若い頃の特徴は、民謡集があることでしょう。特に1858年、25歳の年には、《子供の民謡》、《28のドイツ民謡》、《49のドイツ民謡》の3集の民謡曲集が作曲(編曲)されています。この時期は、ローベルト・シューマンが死んだ直後で、残されたクララと子供たちの面倒を見ていた時期であり、《子供の民謡》はその子供たちのために書かれました。
 その他の歌曲集で主なものについて書いて見ます。
 まず、《八つの歌とロマンス(Op.14)》、《五つの詩(Op.37)》ですが、この2曲は、1858年頃(25歳頃)のアガーテ・フォン・シーボルトとの出会いがきっかけで作曲されたものと言われています。1864年に完成した《ブラーデンとダウマーによる歌(Op.32)》は、ブラームスの歌曲作曲家としての地位を確立した作品といわれるものです。1868年に完成した《ティークのマゲローネによるロマンス(Op.33)》はブラームスの歌曲集でもっとも有名で代表的なもので、連作歌曲というより歌物語の性格を持っているとの見方もあります。
 1868年は《ドイツ・レクイエム》が完成した年ですが、この年は歌曲の分野でも精力的に作曲活動が行われ、《四つの歌(Op.46)》、《五つの歌(Op.47)》、《七つの歌(Op.48)》、《五つの歌(Op.49)》と四つの歌曲集が書かれています。我々に馴染みが深い「子守唄」はOp.49の《五つの歌》に含まれているものです。
 その後、1871年から74年にかけても声楽曲が作曲の中心となり、Op.57、58、59、63の歌曲集が完成しました。このうちのOp.59の歌曲集の第3曲は「雨の歌」という題名で、その旋律は、後にヴァイオリンソナタ第1番にも用いられました。また、Op.63の歌曲集の第5曲「わたしの恋は緑にもえ」は、ブラームスが名付け親になったシューマンの娘、フェーリクス・シューマンの詩に作曲したものです。
 その後、1877年からの10年間には16曲の歌曲集が書かれます。この晩年の歌曲ラッシュの特徴は、アルト、バスといった低声用の作品が多くなったことでしょう。《低音のための六つの歌(Op.86)》、《アルトのための二つの歌(Op.91)》、《低音のための五つの歌(Op.94)》などが挙げられます。歌い手にめぐり合ったということもあるのでしょうが、低音でしか表現できない人生の深い皺のようなものを表現したいという欲求が働いたのではないでしょうか。
 ブラームスの最後の作品となったのも歌曲で、1896年に作曲された《バスのための四つの厳粛な歌(Op.121)》です。これは聖書に題材を求めたもので、やはりテーマは「死」といわれています。表面上は画家のクリンガーに捧げたことになっていますが、自らも体力の衰えを自覚していたところでもあり、この近くの年になくなった親しい友人達、特にクララ・シューマンに捧げたものだろうといわれています。

3.まとめ

 以上、ブラームスの作品を一通り概観して見ました。上に書いた以外にも、歌曲ではカノン、器楽曲ではピアノの編曲作品、オルガン曲等が幾つかあります。
 上に書いた内容は、曲を列挙したのに多少の味付けをしたに過ぎませんので、読んでいただいても音楽的なイメージはわきにくいと思います。今回ブラームスをレパートリーを取り上げた機会にブラームスの他の曲も聴いてみよう、歌ってみようと思い立たれた際にでも何かの参考になれば幸いです。
(Bass 百々 隆)

【参考文献】

今回参考にしたものは以下の通りです。
  1. ブラームス(作曲家◎人と作品シリーズ) 西原 穣著 音楽の友社 2006年
  2. ブラームス(作曲家別名曲解説ライブラリー) 音楽の友社 1993年
  3. クラシック音楽作品名辞典  井上 和男編著 三省堂 1985年

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