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 5 月 9 日(明治 6 年= 1873 年)

 イタリー政府からは、元日本駐在公使「カウント」(爵名)「ヘートスチェンニー」氏を接待係として、ここに出迎え歓待していただいた。

 フィレンツェは、元トスカーナ公国の首都であったが、1858 年から、サルジニア国王が民権保護の兵を再挙し、オーストリアの兵を破ったとき、国民皆、トスカーナ大公を追放して、服属した。よってこの街を王都とし、去る 1870 年に至った。その地は、北緯 43 度 46 分、東経 11 度 17 分に位置している。去年の統計によれば、人口 167,093 人である。その規模は、イタリー国第6番めではあるが、街は美しく、風景に富むところは、ミラノ市をもしのぐといえよう。「アルノ」河という清流があり、めぐって、街の中央を流れている。連なる屋並は丘陵を上って、谷を埋め、煙や灯火は満ちており、山の峰々は周りを囲んでいる。谷の中は広く、水は清く、流れは速い。所によっては、ダムを作って水勢を弱めていて、水の流れる音が轟いている。我々一行の宿泊しているホテルは、正にこのダムのそばにあり、一晩中、松風の音が聞こえ、日に夕に、耳に心地好い。河には、5つの橋がかけられ、塔や高い建物が所々にある。山の上には古い城や砦があり、建ち並ぶ屋並の間からは、大きな寺院が忽然と抜き出ている。小さい寺院も、真っ直ぐに堂塔を突き出していたりする。市内には総計 250 の寺院があると言われ、ローマカトリック教会は、多くの寺院を建て、荘厳を極めている。そのきらびやかさは驚嘆するにも余りあるくらいである。市の周囲には、城壁をめぐらしていて、8つの門を開いて防衛の任務を果たしている。
Scenery of Firenze those days
当時のフィレンツェの様子
Arno river 1996
現代のアルノ河風景(1996.9)
 市内で通用する紙幣は、元トスカーナ国支配の時に作られたものであり、統一後に、国の予算を使って、全て償却することはできていない。旧銀行において交換はしているが、通用は良くなく、トスカーナ州内においても、純金との交換価値で1割、あるいは1割5分の差を生じている。そして州外に出れば、往々にして頼んでも交換してもらえないか、100 分の 70 ないし 75 の交換率となる。イタリー国の連邦は、13 年前から廃止されてはいるが、人民の習わしは、各州それぞれで別になっていることは、ドイツと異ならない。その中でも、旅行中の私の記憶にハッキリ残っているのは紙幣のことである。ヴェローナまではロンバルディーの銀行紙幣が流通し、パドヴァはヴェネツィアの一部なので他州の紙幣は使われておらず、この街(フィレンツェ)においては、トスカーナの銀行紙幣を用いている。ローマ及びナポリでも、それぞれの紙幣を使用しており、州境を越えると、その価値は落ちる。この不便さは甚だしく、往年、日本においても、中国から九州の諸藩を経た際、各藩毎の紙幣に困ったときと同様である。

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