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イタリーの建国は、とりわけ古い。ローマの時代より皇帝の宮殿に伝わっている珍しい宝物は、3000 年の昔より伝わっている。一室の中に、その古器を陳列している。多くは小さい器物であり、その数が多く、一々細かく観察することはできなかったが、その奇麗で精美なことは、ヨーロッパ各国には絶えてないところであった。
ここから、空中の渡り廊下を越えて、西側のビルに行くと、部屋を分けて、古い金、銀、銅、玉、陶磁器等の宝物を陳列している。珍しい品々は棚に満ちて、枚挙にいとまがないくらいである。その伝来も、一つ一つに歴史があって、ローマの盛んな時より、蓄えられてきたもので、その古いこと、その精巧なこと、その珍しいこと、その美しいこと、皆ヨーロッパの古器で選ばれたものであるので、小さい一片であっても、その価値は計りしれない。よく歴史を調べ、その妙なることを鑑賞しようとして、一生この建物にいたとしても、厭にはならないであろう。一朝一夕の精神では、観察しつくすこともできず、一通り見て辞去するばかりであった。
本文で説明されているように回廊が
右の建物からアルノ河を渡って延びている
(1996.9)
このビルの階上より空中楼を作り、「アルノ」河の橋の中身を回廊として、河南の市街につなげている。民間住居の上に回廊を作って、王宮につないでいる。連綿と7 〜 800 mの距離を、各家の生活している部屋の上を行き、あるいは、通行人の往来する橋の下を歩き、市街上を渡り、庭園の中を通過していても、実感が湧かず、廊下の左右に陳列されている墨画、銅版画を評しながら、ゆっくりと進み、ゆっくりと歩んで、河の上を越える時、忽然と窓より河の水のさざ波が日光をちりばめ、白砂に迫って波紋の広がる様を見て、始めて身を虹の影の中に置いていることに驚いた。橋の廊下を終わって後は、回廊中の観を改めて、ここより「コブラン」を展示しているところを進んだ。皆、古い名綿で、大きいものは幅 20 数mのものもある。ここから進路は曲がっていき、みな市民の住居の上を渡っている回廊を行くところである。小さい窓が、ときに開けられ、街路の喧騒も聞こえるが、多くは暗い廊下である。回廊が終わると庭園に至る。木々が生い茂っていて、ここから階段を上って、また下って、最後に王宮に到着した。この宮殿(ピッティ宮)の中にも、伝統的な絵画が沢山保存されている。部屋の上部、下部、柱、壁、みなイタリー人得意の彫刻とモザイクの細工となっていて、精巧を極め、綺麗な飾りとなっている。きらびやかな輝きが燦然として、あでやかな絵画の数々が視界に一杯である。
当時のピッティ宮殿の庭園
この宮殿は、1440 年にトスカーナの「ビック」公が造営したのを以って、名付けて「ビック(現代の我々はピッティと呼ぶ)」宮と称している。イタリー革命の後、1867 年より、4カ年の間は、皇帝の居宮となって政治が執り行われたが、現在は廃宮となっている。
博古館(考古学博物館)は、博物館より北方の街中にある。これも古い建築物であるが、建物自体は美しくはない。古い鎧、古い武器、銅像、象牙、琥珀、メノウ、その他、宝石の細工や古代の陶器が多い。そのうちで、最も古いのは、3000 年前の昔より伝えられてきたものである。古代の物を好む人は、ここを訪れてよく観察するならば、眠ることも忘れてしまうであろう。
「ミニンシバル・コート」(フィレンツェ共和国の会議場)は、古い時代の集議院(フィレンツェ共和国政庁舎)の中に設けられている。この集議院も、また、古く高名な建築物であり、博物館(ウフィツィ美術館)の東にある。四角の塔を作って、雲高くそびえ、内部には、絵画が描かれている。古い画家の作品で、外観は美しくはないが、これもまた高名である。この中には、イタリーの名産「モザイカル」(モザイク)といって、細かく象嵌した大きな石のテーブルがある。この工芸はイタリーの名物で、この街には特に名工が多い。ここに保存されているのは、漆黒の石のテーブルで、その直径は 1.8 mの円卓で、諸々の色の石を用いて、花の模様を象嵌している。世界の名品に属し、その価格は4万ドルであるという。

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