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--- ぎ お ん ま つ り ---
山鉾巡行(7月17日)
 前夜のにぎわいの余韻もまだ漂っていそうな、翌朝。町衆は、飾り席に展示してあった前掛けや、懸装品などを、それぞれの山鉾に付けて、巡行へ向けて最後の支度を行う。午前9時には、全山鉾が集合していなければならない。先頭の”旗艦”長刀鉾は、四条烏丸に位置し、その後に続く山鉾は、くじによって予め決められていた順に整列する。長刀鉾には、唯一生き稚児が乗り、あたかも全艦を率いる幼い総司令官のような趣きである。9時に出発して東に進んだ行列が、四条堺町にさしかかると、奉行役の京都市長がくじ改めの儀式を行い、行列の順に誤りのないことを確認する。室町時代、各山鉾が巡行の順番をめぐって激しく争ったため、くじで順を決めるという伝統のしきたりが決められ、500年の間続いてきた。
 長刀鉾が四条麩屋町に至ると、通りに張られたしめなわを、乗っている稚児が太刀で切る儀式が行われ、これより本格的な巡行が始まる。山鉾の巡行の列は四条通を東行、次いで河原町通を北上した後、御池通を西行し、新町通を南下、その後、各町内に戻って流れ解散、という約4時間の旅に出る。
 京都に昔、市電が走っていたころは、架線を祭のたびに切って、巡行の道を開けていたが、無駄になるので、そのうちに、電線を可動式にして、巡行時引っ込める方式に改めたとのこと。しかし、今は、市電もなく、また昔のように寺町や松原通という、やや狭い道を抜けることもなくなった。広い通りで観客の目を楽しませるように巡行経路が観光用に改められて、30年ばかりが経っている。そして、今のように山鉾が全部一緒で17日に巡行するのでなく、前半が17日、後半が24日と、さきとあとの祭に分けられて巡行していた昔のことも、次第に忘れ去られようとしている。

四条河原町での辻回し
長刀鉾
( click here for movie1: 3.8 MB )
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鉾は12トンもある重いもので、曳き手も40〜50人が携わる。鉾の巡行のハイライトは、辻回しと言われる通りから通りへの方向転換である。直径2mはある大きな車輪は、自動車のようにハンドルで方向が変わるような可動式にはなっていない。ただ回転して前進できるだけである。90度の方向転換は、車輪の下に、割った青竹を何枚も敷き詰め、その上に水をまいて滑りをよくし、曳き手が総がかりで横方向へ鉾全体をスライドさせて行う。1回のスライドで方向転換を終えるのは無理で、3回に分けて、少しずつ向きを変えていた。そのため、鉾1基が交差点を抜けるのに15分くらいを要していた。
これに比べ、小型の山は軽く、担ぎ手が抱え上げてヨッコラサと向きを変えるので、鉾の辻回しを見たあとは、あっけないくらい早く曲がってしまう。なお、山は昔は全行程、神輿のように担がれていた。しかし、舁き手の負担が大きいため、車輪をつけて方向転換以外は曳いていく形に、今はなっている。

御池通に入る長刀鉾
(市役所は左手にある)
巡行は、比較的静かに行われる。鉾や大型の山(南観音山等)には囃子方が乗っていて、いくつかの曲を場面毎に切り換えて演奏する。囃子方は、鉦、太鼓、笛からなる。能楽で使用する能管を笛として用いるなど、祇園祭独特の音楽仕立てとなっている。
なお、小型の山には囃子方はいない。
掛け声は、辻回しの最中にドスコイという声がかかるくらいである。乗っている音頭取りも、辻回しの最中に扇で曳き手を励ます動きをする以外、巡行中は静かに扇を舞わしている。
日本全国の他の祭に比べると勇壮さやにぎやかさに欠けるように見える。しかし、ビルの5〜6階の高さの鉾や、それより小型の山が連なって、次から次へと町並の間に姿を現わす様子を実際目のあたりにすると、あたかも帆船の艦隊が湾内を巡航していくような偉容である。あまり騒がしくしないがゆえに逆に、ある意味で純粋にその量感と優美さから来る迫力を感じてしまう。

御池通を進む
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巡行の様子は、動く博物館と表現されたりもするが私自身の印象を表現すると、「交響曲の優美な第二楽章を聞いている感じ」となる。単に貴重な伝統工芸品の行列を受け身で見ているのでなく、劇あるいはコンサートのように、出演者からのメッセージを私自身感じ、それに応えている、というのが、その心である。
なお、曳き手の中に、外国の人も混じっていたのが印象的だった。留学生が思い出づくりに参加したのだろうか。私は、こういったことも国際友好にもつながって、良いことと思った。

自分の町内に戻る
真夏の炎天下を4時間余、巡行するのは、なかなか大変である。途中で進行を止め、小休止し飲み物をとることはあっても、再び巡行は継続される。昔は一旦、昼には食事休憩をしていたとのことである。
ちなみに、祇園祭とほぼ似た形式で十月に行われている大津祭は、巡行時、昼食の休憩が設けてある。

そういっている内に各山鉾は新町通に戻ってくる。
新町通は、あまり広い通りではない。寺町通などを昔、民家すれすれで巡行していった様子を想起させる。各山鉾は、それぞれ自分の町内まで、そのまま巡行を続けていく。

巡行が終わって
(すぐ始まる山鉾の解体)
巡行から戻った山鉾は、すぐに飾り物や前掛けなどが外されていく。ずっと演奏を続けてきた囃子方も鉾を降り、ほっと息をつく。ビールの味は、さぞ、うまいことだろう。
山鉾は、翌日の昼頃までには、構造物の木組みや車輪など完全に解体され、元の収蔵庫にしまわれる。

 山鉾巡行が終わると、大部分の観光客は、いそいそと帰途につく。しかし、本来の神事の目的からすると、巡行は前座の行事で、あとの神輿が八坂神社から繰り出す神幸祭が祭のメインである。
 また、他にも7月の間中、祇園祭として様々な行事が続いていくが、現状は、宵々山〜山鉾巡行以外は、京都の人達だけが知っているだけという印象である。この3日間ほど多くの人々は見物にやってこない。

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