前年、日本のホンダがエンジン・サプライヤーとして初のチャンピオンを獲得した後、中嶋悟が初めてのフルタイムF1ドライバーとしてロータスへ、そして10年振りで日本でのF1グランプリが、ホンダの地元、三重県の鈴鹿サーキットで開催されることが決定。併せて、フジテレビが、全レースの放送権を獲得、それまでのTBSの控えめな放送とは異なり、積極的にファンをふやす活動を行い、日本中にF1ブームが興ることになった。
以前の1976年、1977年の富士のサーキットでの日本グランプリを見たオールドボーイから、少中学生にまで広がったファンの熱い思いで、鈴鹿でのレースが待たれた。チケットも、往復葉書での申込みによる方式に、9万席の一般向け割当て枠をはるかに越える応募があり、3万円のグランドスタンドチケットも完売という状況であった。私もチケット入手できず予選当日券で入場。そのため、こに載せたイメージ、ビデオは初日(10月30日)のみのものから構成している。
F1のレースが初めて行われるサーキットは、公式のプラクティスの前日に、テスト走行日が設定される。10月29日(木)、各マシンが初めて、鈴鹿にアタック。前年のデモランでのタイム、ピケの1'43"199が、各ドライバーの目標であったが、早くもマンセルが、1'43"305を出した。
【背景】
鈴鹿のレース開催時は、既にコンストラクターチャンピオンは、ウィリアムズに決定しており、ドライバーのタイトルは、チームメイト同士の争いとなっていた。ピケの73ポイントを追うマンセルは61ポイント、残り2戦での勝負となっていた。前年まで2年連続のチャンピオン、マクラーレンのプロストは、マシンの信頼性不足で、何回か勝利を失っており、既にチャンピオン争いから脱落していたが、通算最多勝利28の新記録を達成していた。
レギュレーションは現在(1996年)とは大きく異なっていた。止まるところを知らず馬力アップするターボエンジンに対する規制で、1987年のシーズンは、搭載燃料は195リットル、ターボのブースト圧は4バール。1989年には、ターボエンジン禁止、自然吸気(NA)エンジンへの全面移行も決まっていた。過渡期として、3.5リットルNAマシンの並走も認められ、奨励策として、車重はターボ車より40kg軽く、NAカテゴリでのチャンピオンシップ・ポイントも設けられていた(コンストラクター:コーリン・チャップマン・カップ、ドライバー:ジム・クラーク・カップ)。それにもかかわらず、ターボ車は圧倒的に有利。300馬力以上のパワーの差で、NAマシンは2周遅れになるのは当り前の状況であった(最高スピードの違いの他、ワンメイクのタイアはターボ車向きのもの、強いダウンフォースの下で性能を発揮するようになっており、NAマシンはグリップ不足で走らざるを得なかった)。
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