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バッハの受難曲とヨハネ受難曲の変遷



前書き
 バッハが残した受難曲のうち、「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」は、バッハの代表作としてよく知られていますが、今回は、その他の受難曲も含めて、バッハの受難曲の全体像と、今回、我々が取り組んでいる「ヨハネ受難曲」の変遷を御紹介したいと思います。

1.5曲の受難曲?
 疑問符のある変な見出しになってしまいましたが、バッハは生涯を通じて5曲の受難曲を作曲したであろうという説があるのに、確たることがわからないというのが現状なのです。
 5曲という数字が出てきている根拠は、バッハの死後、次男のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(以下 C. P. E. バッハと省略。1714〜1788)が弟子のアグリコーラと協力して執筆したといわれる「故人略伝」に、バッハは5曲の受難曲を残し、そのうちの1曲は二重合唱によるものであったという記事です。二重合唱の1曲については「マタイ受難曲」が該当します。それと「ヨハネ受難曲」は今日に伝わっていますので間違いありませんが、残りの3曲は何処へ行ったのかということが問題になります。

(1) マルコ受難曲
 さて、3曲目以降の考察ですが、存在したことがはっきりしているのは「マルコ受難曲」です。これは1731年の受難節のために作曲されたことがはっきりしていて、作詞者のピカンダーがその歌詞を、後に出版した詩集に収録されたことから今日に伝わっており、BWV247というバッハの作品番号が与えられています。また、この曲の音楽の骨格はザクセン選帝侯妃のための追悼カンタータ「侯妃よ、さらに一条の光を」(BWV198)から転用されたことがわかっていることから、最近になって復元作業が行われ、CDも発売されています。筆者もそのうちの一つを聞いていますが、音楽が残っているのは合唱やアリアの部分だけでレチタティーヴォは残っていないため、この部分は語られています。このため、他の受難曲とは随分違った雰囲気で、オペラで言えば、モーツァルトの後期のオペラの「魔笛」や「後宮からの誘拐」に近い感じがします。
 これで3曲までは判りましたが、4曲目、5曲目となると諸説紛々というのが現状です。
 4曲目については、《ヨハネ》、《マタイ》、《マルコ》のそれぞれの福音書に沿った受難曲があるため、4福音書の残る一つの《ルカ》福音書に沿った受難曲があったのではないかと推測されるのも当然です。現にバッハの自筆による《ルカ受難曲》が存在し、旧バッハ全集には収録(BWV246)されていました。ところが、その様式がバッハの作品にしては稚拙すぎる等の観点から再検討され、結局、誰か他の作曲家の手になる《ルカ受難曲》を、バッハが自らの演奏に供するために筆写したものであろうといわれており、今ではバッハの作品としてはカウントされていません。なお、この《ルカ受難曲》を再演する際に、バッハは自作の曲を数曲追加しています。

(2) ヴァイマール受難曲
 この他の4曲目の有力な候補として比較的最近の研究成果として挙げられているのは、ライプツィッヒに先立って、教会音楽に責任を持つ立場にいたヴァイマール時代に受難曲を作曲していたのではないかと言うことです。確たる記録は無いのですが、ヴァイマール時代にバッハがラインハルト・カイザーという作曲家の《マルコ受難曲》を演奏したことはほぼ間違いなく、その際に彼自身の作曲によるオリジナル曲を追加したり、編曲を加えていたといわれています。このことから、ヴァイマール時代にバッハは受難曲を必要とする立場にあり、彼自身の作曲による受難曲があったとしてもおかしくないと言うことが推測できます。ヴァイマール時代にバッハが作曲した受難曲がこれだと言う確かな証拠はありませんが、1717年の受難節の際に、ヴァイマールの近くのゴータという宮廷礼拝堂で受難曲を演奏したと言うことが、ゴータ宮廷の出納簿にバッハや歌詞を印刷したと言う印刷屋への支払い記録が残っていることから、確実だと言う見方があります。また、ある時期には、我々が取り組んでいる《ヨハネ受難曲》の第二稿に既存の曲の転用と思われる楽曲がまとまって採用されており、その原曲となる受難曲が存在したはずだということを論拠に受難曲の存在が推測されたこともありました。
 ヴァイマール時代に書いたであろうと言う受難曲は《ヴァイマール受難曲》と呼ばれていますが、どのような曲であったかと言う点について、研究者により、もしくは文献が書かれた時期によって異なっています。例えば、磯山雅さんが1994年に出版された「マタイ受難曲」には、二重合唱ではない《マタイ受難曲》であろうと推測されています。一方、樋口隆一さんが2006年に出版された「バッハから広がる世界」では、《ヨハネ受難曲》で、しかもそれは聖書の章句に沿ったオラトリオ風受難曲ではなく、一人の作詞者が作詞した自由詩だけによる受難オラトリオであったのではないかとされています。
 いずれにしても、4曲目まではほぼ存在したことの説明がつきますが、5曲目の受難曲についてはまったく五里夢中と言うところです。
 なお、「故人略伝」に対する C. P. E. バッハの関与の深さについては諸説あり、自ら執筆したという見方から、精々監修程度だろうと言う説があり、実の息子が書いたのだから内容に間違いは無いだろうと行かないところが難しいところです。

2.ライプツッヒにおける受難曲の演奏
 ライプツィッヒを含む北ドイツにおける受難曲の歴史はハンブルクを中心に発展したと言われています。ライプツィッヒは保守的で、受難曲の様式としては遅れていたようですが、バッハが着任する少し前の18世紀前半、1717年にテレマンの《ブロッケス受難曲》が演奏されたことが契機となって新様式導入の機運が高まったようです。1721年にバッハの前任者のヨーハン・クーナウ(1660〜1722)が聖トーマス教会で《マルコ受難曲》を演奏し、これがオラトリオ風受難曲の流れを定着させ、後のバッハの受難曲に影響を与えたと見られています。
 ところでこの頃のライプツィッヒでの礼拝の様子ですが、受難節は復活祭前第6日曜日から断食期(四旬節)が始まり、音楽や結婚式、宴席が禁じられました。この期間の礼拝では、1682年にゴットフリート・ヴォペーリウスという人が編集した「新ライプツィッヒ讃美歌集」に収められた受難曲が演奏されたそうです。
 特に聖金曜日(キリストが処刑されたとされる日)の礼拝では、ヨハネ福音書の受難記事が上に挙げた讃美歌集の楽譜により朗誦されました。バッハの受難曲が演奏されたのは、この聖金曜日の午後に行われる晩課礼拝で、元々聖トーマス教会だけで行われていましたが、1723年からは聖ニコライ教会でも行われるようになり、以後、毎年交互に行われるようになりました。

3.バッハの受難曲演奏の記録
 バッハが、トマスカントールに在職していた間、即ち1724年から1749年までの受難曲演奏の記録が、次に示すとおり、かなり詳細に残っています。
1724年 《ヨハネ受難曲》第一稿(聖ニコライ教会)
1725年 《ヨハネ受難曲》第二稿(聖トーマス教会)
1726年 ラインハルト・カイザーの《マルコ受難曲》(聖ニコライ教会)
1727年 《マタイ受難曲》(聖トーマス教会)
1728年
1729年 《マタイ受難曲》(聖トーマス教会)
1730年 作曲者不明の《ルカ受難曲》(聖ニコライ教会)
1731年 《マルコ受難曲》(聖トーマス教会)
1732年 《ヨハネ受難曲》第三稿(聖ニコライ教会)
1733年 選帝侯の崩御により演奏無し
1736年 《マタイ受難曲》改訂稿(聖トーマス教会)
1742年頃 《マタイ受難曲》改訂稿再演(おそらく聖ニコライ教会)
1743年〜46年の
いずれかの年
《ルカ受難曲》再演
1746年〜47年頃 ヘンデルの《ブロッケス受難曲》
1747年又は48年 混成受難曲(カイザーの《マルコ受難曲》+ヘンデルのアリア)
1749年 《ヨハネ受難曲》第四稿(聖ニコライ教会)

 この他にも演奏されたのではないかと言われている曲が2〜3曲ありますが、いずれもバッハ自身以外の作曲家の手になるものです。
 上の記録から概観できることは、着任した1720年代後半から30年代の前半にかけては、自ら作曲した受難曲を毎年のように演奏しています。30年代後半からは記録そのものが分散的にしか残っていないので詳しいことは判りませんが、毎年、聖トーマス教会もしくは聖ニコライ教会で受難曲を演奏することはトーマスカントールの職務でしたので、バッハ自身の作品、あるいは他の作曲家の既存の受難曲を演奏していたものと思われます。
 例えば、1739年には《ヨハネ受難曲》の演奏を計画し、手元にあった手稿の浄書に着手しますが、市当局から横槍が入って中止したこともありました。この点については次項でもう少し書いてみます。
 上の記録で注目すべき点は、1740年代前半までは、バッハ自身の曲、あるいは他の作曲家の曲でも、いわゆるオラトリオ風受難曲(伝統的な聖書の受難記事の朗誦にアリアやコラールを挟んでオラトリオ風の構成としたもの。拙文「受難曲の歴史」参照)であったのに対し、1740年代後半に入ると「混成受難曲」とかヘンデルの《ブロッケス受難曲》のように受難オラトリオ(聖書の受難を題材として新たに作成された台本に作曲されたもの)の演奏が加わってくることです。これは、バッハが比較的保守的であったライプツィッヒにも新しい様式を持ち込もうとした証ではないかという見方もあります。

4.ヨハネ受難曲の誕生と変遷
(1) 誕生
 《ヨハネ受難曲》の作曲の動機は明解で、トーマスカントールとしての職務上の必要から作曲されたものです。この点は、アンサンブル・ヴォーチェの第4回の演奏会で取り上げた《ミサ曲ロ短調》がその作曲動機に関して多くの議論を呼んでいるのとは対照的です。また、1724年の聖金曜日(4月7日)に始めて演奏されたことには疑いの余地はありません。
 では、4つの福音書のうち、何故ヨハネ福音書が最初に取り上げられたのでしょうか。この点については明記された物はありません。しかし、「受難曲の歴史」でも御紹介しましたように、受難週の中でも聖金曜日には「ヨハネ福音書」を朗誦するように、5世紀の教皇レオ5世が定め、その伝統が守られていましたので、その伝統に則って「ヨハネ福音書」に基づいた受難曲をまず作曲したとも考えられますが、前節で書いたようにヴァイマール時代に作曲した受難曲が「マタイ福音書」に基づく受難曲だったとすると、話はそう単純ではないかもしれません。
 さて、「ヨハネ受難曲」ですが、作詞者は明らかではなく、バッハ自身という見方が有力です。バッハは歌詞を「ヨハネ福音書」によりながらも、「マタイ福音書」からも印象的な場面を取り入れています。即ち、ペテロがイエスの弟子であることを3度否定した途端にイエスが予言したように鶏が無き、自らの弱さに気づいて号泣する場面と、イエスの死後、天地が変動する場面です。この2ヶ所はバッハにとって、どうしても取り入れたかった場面だったのでしょう。ペテロの号泣の場面は筆者自身もいつも我が身につまされる思いで聴くところです。

(2) 改訂の歴史
 4節に示したように、《ヨハネ受難曲》が4回演奏されたことは確実で、他にもう1回演奏準備をしていて市当局に止められたことがありました。
 演奏の度に楽譜は改訂されており、特に大きな改訂は1725年に2回目の演奏がされた時です。以下、時系列にそって特徴等を記していきます。なお、この内容に関しては、昨年1月に粕谷さんから配布された「ヨハネ受難曲 構成と解説」にも書かれていますのでそちらも参照してください。
 まず、1724年の初演ですが、バッハが1723年にトーマスカントールに就任して、意欲満々にカンタータ等を作曲し、生徒達を指導しながら、毎週の礼拝で演奏していた時期でした。そのような状況の中で生み出された密度の高い作品との評価が与えられています。この時の演奏は、聖ニコライ教会で行われましたが、そこに至るまでには前にも紹介しましたように、バッハは勝手に聖トーマス教会で演奏するものと思い込んで、印刷歌詞にもその旨を書き込んでいました。ところが市参事会の命令により場所が変更されました。筆者は残念ながらライプツィッヒには行ったことがないのですが、聖トーマス教会に比べると聖ニコライ教会は手狭だったようです。
 また、この初演の時に用いられた楽譜は余り残っておらず、第1,2ヴァイオリンと声楽のリピエスト(合唱部分)の部分、通奏低音のみです。しかし、曲の全体像を掴むに必要な部分は残っているため、初演の形は後述する第4稿に近かったであろうというのが定説になっています。
 2回目の演奏は翌年の1725年ですが、この際に大幅な改訂が加えられました。この時に用いられた楽譜はかなり残っているので、今でもこの形での演奏が可能ですが、冒頭合唱曲が異なるため、演奏が始まるとまったく違った曲のような感覚に捉われます。この冒頭合唱曲はコラール旋律に基づく合唱曲で、後に、マタイ受難曲の第1部の終曲に転用されたものです。終曲のコラールも大規模なものに変わっており、曲の最初と終わりがコラール旋律による合唱曲となっています。丁度、この時期はカンタータの分野でもコラールカンタータの様式を確立した時期なので、その様式との類似性を指摘する見方もあります。
 何故第2稿で大幅な改訂をしたかについては、研究者の間でも見方が分かれており、例えば、日本を代表するバッハ演奏家である鈴木雅明さんは一つの可能性として、「マタイ受難曲」を演奏するつもりで作曲を進めていたが、間に合わないと判断して、「ヨハネ受難曲」を改訂したのではないかと言われています。また、バッハ研究家で自身も演奏家でもある樋口隆一さんは、「ヨハネ受難曲」の第1稿がバッハ自身で満足できるものでなく、2回目の演奏で大幅な改訂を加えたのではないかとの海外の研究家の推定を否定できないものとの見方を示されています。ただ、筆写は、この見方をした場合、第3稿以降では、第2稿で加えられた改訂がほぼ元に戻っていますので少し無理があるかとも思います。
 3回目の改訂は1732年の演奏に向けて行われましたが、この時の楽譜はあまり残っていません。
 次は、陽の目を見なかった改訂作業になります。1739年に聖ニコライ教会での演奏を想定して以前にしていた「ヨハネ受難曲」の楽譜の清書を始めましたが、10曲目までの作業が終った段階で、市当局から「受難曲の演奏を正式の許可があるまで中止せよ。」との指示を受け、清書作業をやめてしまいます。この時は第3稿をもとに作業を進めたと見られています。市当局が中止を命じた理由を明記した資料は残っていませんが、バッハの反応は残っており次のようなものです。「同氏(バッハ)は、いつもは問題なく行われていたではないかと答えたが、別段これにこだわる様子は見せなかった。もともと儲けがあるわけではなく、お荷物でしかないのだから、というのである。そして自分のこの仕事を禁止されたことを大教区監督に報告するつもりだといい、また、テクスト(歌詞)に難があるとでもいうなら、同じテクストでこれまでに既に何度か上演されているではないか、とも言った。」(1739年3月17日付けのライプツィッヒ市『公文書覚書』)。1730年代は前回にも御紹介しましたように市当局との衝突や教会の市民生活との分離などから、いわば白けて世俗音楽に創作の中心が移っていた時期であり、このような覚めた反応になったものかと推察されます。
 この演奏中止の後10年間ほどの間は、ルカ受難曲や他の作曲家の演奏が続きますが、本人も体力の衰えを深く自覚していたであろうと言われる1740年代末の1749年に結果的には最後となる演奏が行われました。この時に、1739年に中断していた楽譜の清書作業を再開して完成させ、一部に改訂を加えました。

(3) 新バッハ全集版と最近の演奏
 我々が使っている楽譜は、新バッハ全集に納められているものですが、これはアーサー・メンデルという学者が、現存しているヨハネ受難曲の総譜、パート譜を徹底的に分析分類して年代別の分類を行い、その結果に基づいて全体を編集しなおしたもので、完成したのは1974年と総古い話ではありません。編集結果をを見ると、第1曲〜10曲は1739年に清書した版を優先させ、それより後の部分は第4稿によっています。従って、この版でバッハは演奏したことは無いということになります。
 その後、第2稿による完本版、第4稿による完本版が発行され、現在では3種類の楽譜から選んで演奏することが可能になっています。第2稿は既述しましたように、冒頭合唱、終曲がそれ以外の稿とまったく違った曲が使われていますので、別の受難曲だと言う見方があるくらいです。
 また、新バッハ全集版と第4稿を聞き比べて直ぐに判るのは、第9曲の可愛しいソプラノアリアです。同じメロディーで始まりますが、最初のフレーズの終わり等、ところどころで歌詞とメロディーが違っています。他にも第19曲、20曲の一部での歌詞の違いや、コラール旋律の微妙な違いがあります。コラール旋律は、新バッハ全集版の方が音の動きが細かくなっており、逆にいうと第4稿の方がよりシンプルになっていると言えます。もっともバッハの時代は自作自演というか、バッハが作曲家兼指揮者ですので、演奏に当たって口頭で装飾旋律を指示することは可能であり、オルガン等の演奏では即興性が重視された時代ですから、実際の演奏でどういう音が鳴ったかはわかりません。他にもオーケストレーションはそれぞれの版で細かな違いがあります。この辺りの変遷は、鈴木雅明さんが執筆された「我が魂の安息、おおバッハよ」や、CDの解説に添付されていますので、関心のある方はそちらをご覧下さい。
 では、世間ではどの楽譜が用いられているかと言うことですが、第2次大戦後のバッハ演奏に画期的な足跡を記したカール・リヒターの最初の録音、映像記録は旧バッハ全集によっています。蛇足ですが、筆写が学生時代に買ったヴォーカルスコアは旧バッハ全集版でした。曲の番号のつけ方が違って、新バッハ全集では、a、b、c、……という枝番が使われていますが、旧全集ではこれがなく、全ての曲に数字を振ったために68曲まであるので、一目で区別がつきます。新バッハ全集が発行されてから暫くは、新バッハ全集に基づくレコードが多かった(クィケン版等)のですが、近年になると第2稿による演奏(ヘレヴェッヘ版等)、第4稿による演奏(鈴木版等)を用いた演奏が増える傾向にあるようです。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅著、1985年、東京書籍(株)
  2. 「マタイ受難曲」 磯山 雅著、1984年、東京書籍(株)
  3. 「バッハ カンタータ研究」 樋口 隆一著 1987年、(株)音楽の友
  4. 「バッハから広がる世界」 樋口 隆一著 2006年、春秋社
  5. 「我が魂の安息よ、おおバッハよ」 鈴木 雅明著、2004年、(株)音楽の友
  6. 「バッハ事典」 磯山 雅他編、1996年、東京書籍(株)
  7. 「ヨハネ受難曲ミニチュアスコア」 1978年、(株)音楽の友

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