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メサイアのあらすじ


 練習ではそろそろ歌詞もつき、アコンパニアートやアリアも交代で歌って曲の全体の姿が次第に浮かんでくる時期になってきました。そこで、今回は、「メサイア」のあらすじをご紹介して、その時に練習している曲が全体の展開の中でどういう位置にあるのか少しでもイメージしていただければと思います。

 メサイアが分類されているオラトリオという曲種は、舞台装置、衣装、所作がないオペラともいえるもので、ヘンデルのものでもメサイア以外は“音楽劇”として筋書きの理解が比較的容易です。ところが「メサイア」は救世主(メサイア)イエス・キリストを主人公としてその生涯を描いた“音楽劇”とは言えないのが難しいところです。
 「メサイア」は3部構成になっていますが、第1部が「救世主生誕の予言と、降誕」、第2部が「受難と贖罪そして復活」、第3部が「永遠の生命」とイエス・キリストの生涯の中で三つの大きな出来事だけを取り上げています。第3部は生涯の出来事というよりは後世の人の信仰というべきかも知れません。
 この構成はミサ曲とも多くの共通点を持っているとも言われています。
 また、キリストの生涯といえば聖書のなかでは新約聖書がキリストの事跡を伝えているわけですが、メサイアの台本を作ったジェネンズはすべてを新約聖書からはとらず、旧約聖書のなかで預言者が語っていた言葉も数多く取り入れているのが特徴です。

《序文》
    いざ、大いなることを歌おう。
 たしかに信仰の神秘は偉大です。神は肉体としてこの世に現われ、聖霊によって義とされ、天使たちに見守られ、諸国民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、そして栄光のうちに天井へと召されました。この神の中に、知恵と知識の財宝が秘められています。

 この文言は、わが国では滅多に目にしませんが、《メサイア》がダブリンで初演された際のプログラムの表紙に載り、その後もヘンデルの演奏会では必ずプログラムに乗せられていたといわれています。この言葉も聖書からの引用ですが、この3行ほどの言葉の中に《メサイア》全曲の歌おうとすることが集約されているといわれています。

1.第1部「救世主生誕の予言と、降誕」

(1) 序曲

(2) メシア到来の準備(第2曲〜第4曲)
 「救世主が現れ、戦争状態にあったエルサレムが赦され、その民が慰められる」という預言がテノールのアコンパニアート(第2曲)で歌われ、続くアリア(第3曲)で、「救世主が現れるのだから、荒地は道になれ、すなわち、自然界すら栄光の前にはひれ伏しなさい。」と歌われます。
 これを受けて第4曲の合唱が「このようにして、主の栄光が現され、皆が共にこれを見るであろう。主の口が語られたとおりに。」と結びます。

(3) 預言(第5曲〜第7曲)
 バスのアコンパニアート(第5曲)が、神(=万軍の主)の言葉として、「天地やすべての国を揺り動かそう。するとメシアがやってくる、あなた方が尋ねもとめている主と、待ち望んでいる契約の使者が突然神殿にくるであろう。」と伝えます。
 続くアルトのアリア(第6曲)は、「メシアは、精錬の炎のように、すべてを焼き尽くし、清めてしまう」という内容を歌い、第7曲の合唱が「この方は、レビの子達を精錬して清めるであろう。そして清められたものだけが義にかなった捧げものをできる。」という内容を歌います。
 こうして、キリストが生まれるにふさわしい土壌が整備されます。

(4) 受胎の知らせ(第8曲)
 いわゆる受胎告知とメシアの到来までを喜ぶ部分です。受胎告知は、古来、数々の名画の題材にもなっているのでご覧になったかとも多いと思います。
 アルトのレチタティーヴォが「乙女が身ごもって男の子を産み、『エマヌエル』と名づけるであろう。」と歌い、続くアルトのアリア(第8曲前半)と合唱(第8曲後半)が「シオンによい知らせを知らせる者よ、高い山に登れ、……」とマリアの受胎の喜びがエルサレムにもたらされる喜びを歌います。

(5) 闇の中の光(第9曲、第10曲)
 ここで一気に喜びが実現されるのではなく、バスのアコンパニアート(第9曲)とアリア(第10曲)で主の栄光が現れる前の闇を描き、そこに光がさすというお膳立てをして、次のイエスの誕生の喜びをさらに際立たせます。

(6) 聖誕(第11曲)
 イエスが生まれた喜びを、合唱が「それは、一人のみどり子が、私達のために生まれたからである。私達は一人の男の子を賜わった。治世はその子の肩に委ねられ、園子の名は『すばらしい方、助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれるだろうと歌います。

(7) 田園曲(第12曲)
 イエスが生まれた牧野を思い浮かべさせるようなのどかな6/8拍子の器楽曲が、しばし流れます。

(8) 降誕の知らせ(第13曲〜第17曲)
 野原で羊の番をしている羊飼いのもとへ、天使がイエスの誕生を告げる場面です。これも古来数多くの名画を残している場面です。ソプラノが第13曲と第14曲のアコンパニアートとそれを導くレチタティーヴォで、驚く羊飼いたちの様子、天使たちが「恐れることはない、今ダビデの町で救い主がお生まれになったのです。」と告げる様子を歌い、最後に「天使と共に多くの天の軍勢が現れて神を賛美していった」と次の合唱を導きます。
 第15曲の合唱曲がその天の軍勢の声ですが、内容は「いと高きところでは、神に栄光がありますように。地には平和がありますように。人々には善意が宿りますように。」で、これはミサ通常文のグローリアの冒頭の歌詞、“Gloria in excelsis Deo, et in terra pax hominibus bonae voluntatis”と同じ歌詞です。

(9) イエス到来の喜び(第16曲)
 救世主を得たエルサレム(シオン)の人々の喜びをソプラノソロが喜ばしく歌います。

(10) 主の栄光(第17曲〜第21曲)
 イエスの生涯を語っている福音書ではかなり長い部分が割かれているイエスの事跡(あるいは奇跡)をごく簡単に語ってしまいます。
 まず導入のソプラノのレチタティーヴォでは「盲人、聾唖者等の身体障害者も直ぐに直るであろう」という内容を歌い、第17曲のアルト・ソプラノのアリアでは救世主が「羊飼いが羊を飼うように人類を慈しむであろう、疲れた人、重荷を負っている人はすべてこの方の下にきなさい。‥‥」と歌います。引き続いて第18曲の合唱が、「なぜなら、この方のくびきは負いやすく、その荷は軽いのだから。」と、救い主が我々に負わせる荷は軽いのだから救い主の下に集まろういう内容を歌います。(くびき軛:牛車のながえ轅(牛に牽かせる棒)につける横木。これを牛の首にかけて車を牽かせる)

ここまでが第1部で、救い主を得た喜びの中で終わります。


2.第2部「受難と贖罪そして復活」

(1) 人々の裏切り(第19曲〜第20曲)
 場面は一転して、早くも受難へ移ります。
 第19曲の合唱では、十字架を担いでゴルゴタの丘を登るイエスの足取りを思わせる重々しいリズムに乗って「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を。」と歌い、神の子イエスが人類の代わりに受難することを預言するかのようです。
 第20曲のアルトのアリアでは、イエスが人々に受け入れられず、侮られ、のけ者にされ、はずかしめられ、それでも顔を隠すことなく受け入れていた様を歌います。

(2) 贖罪による救済(第21曲〜第26曲)
 救世主が病や苦しみをひとえに負うことによって人類が救われることを3曲続く合唱曲で歌います。
 「まことにこの方は私たちの病を負い、私たちの悲しみを担ってくださった。彼は私たちの罪のために傷つけられ、私たちの不義のために砕かれたのだ。彼はご自身でこの懲らしめを受けることにより、私たちに平安をもたらして下さったのだ。」(第21曲)
 「彼が打たれたその傷によって、私たちは癒されたのだ。」(第22曲)
 「私たちはみな羊のようにさまよって、それぞれの勝手な道へ散って言ってしまった。それなのに主は、私たちすべてのこの罪を、彼ひとりに負わせたのだ。」(第23曲)
 ここでちょっと余談:メサイアの歌詞(即ち聖書)には「羊(Sheep)」と「子羊(Lamb)」の両方が出てきますが、「羊」は羊飼いに面倒を見てもらわないと勝手にさまよう我々人間のこと、「子羊」は我々人類のために犠牲となる神の子羊、即ち、イエスのことですのでお間違いなく。

(3) あざけり(第24曲〜第25曲)≒受難
 まずテノールがアコンパニアート(第24曲)で、イエスをあざ笑う民衆の様を歌います。
 続く第25曲の合唱がその民衆があざ笑う言葉で、「彼は神を信じているのだ。それなら神が助ければいい。本当に神のお気に入りなら、神は助けてくれるはずではないか。」という現実的な奇跡を示せという内容です。おなじような民衆の声はマタイ受難曲などでも歌われています。当時の民衆の神の捉え方はそういうものだったのでしょうか。

(4) 絶望と処刑(第26曲〜第28曲)
 ここで十字架上でイエスが死にますが、直接的に「死ぬ」という言葉は直接には出てきません。
 第26曲でテノールが、皆にそしられ、慰めてくれるものを誰一人見つけられなかったために望みを失ったこと、第27曲のアリオーソでテノールが「…この方が味わったような苦しみが、また世にあるだろうか。」と歌います。
 そして、とうとう第28曲のテノールのアコンパニアートで「この方は、あなたの民の罪のために打たれ、命あるものの地から断ち切られたのだ。」と死を意味する言葉が歌われます。
 ご承知の通り、十字架に架けられたイエスとそれを見上げて嘆き悲しむ聖母の姿も数多くの絵画の題材になっているのもご承知の通りです。
 また、余談。ところでイエスの死因は何でしょうか。十字架に架けられたからでは答えにはなりません。マタイ福音書をみても十字架に架けられてから死ぬまで半日くらいかかっています。2000年前の話を議論しても意味がないかも分かりませんが、決定的な死因については定説がないようです。それだけに非常に苦痛が長く続く残酷な刑だったようです。ちなみに江戸時代の日本での磔は槍でわき腹から肩まで突き通したそうですから、間違いなくショック死か即時の心肺機能停止でしょう。(お医者さん、間違っていたらお許しください。)

(5) 復活と福音のひろがり(第29曲〜第37曲)
 第29曲で、テノールがアリアで神がその一人子を見捨てなかったことを歌い、第30曲では、一度冥府に落ちたイエスの魂が復活するための城門を開けるための合唱が歌われます。即ち、その歌詞は、
 「門よ、こうべを上げよ。開け、とこしえの扉よ。栄光の王が入られる。」
 「その栄光の王とは誰か?」
 「強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。」
 「万軍の主、彼こそ栄光の王である。」
となっています。この曲はメサイア全曲中でただ1曲、ソプラノが2部に分かれる曲です。
 続くテノールのレチタティーヴォではイエスのみが神の子であることを、第31曲の合唱では「神の御使いたちみなに、彼を崇めさせよう。」とイエスの尊さを強調します。また、ここで復活したイエスが天に昇ります。
 第32曲のアルトのアリアは分かりにくい歌詞ですが、イエスの教えをユダヤ世界だけではなく、世界のすべての人に、反対する者の中にも宣べ伝えようという強い意志の表れといわれています。ただ、このアリアの解釈はメサイアのなかでも最も難しい箇所といわれています。
 これを受けて第33曲の合唱が「主が命じられると、福音を伝えるものは、大きな群れとなった。」と福音が伝えられ人々が喜ぶ様が表現されています。

(6) 平和の福音(第34曲〜第35曲)
 この部分は我々が使っている楽譜では2種類の曲が記載されています。
 第34曲の2重唱またはソプラノアリアでは、福音が伝えられていく様が美しいメロディーで歌われます。
 続く第35曲はテノールのアリオーソまたは合唱ですが、「彼らの声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」と福音、伝道が世界のすみずみまで行きわたることを歌います。

(7) 地上の王たちの反乱(第36曲〜第37曲)
 ここで抵抗勢力が登場します。第36曲で、イエスの教えた新興宗教の台頭を防ごうと、弾圧する王たちの姿をバスのアリが歌います。
 第37曲の合唱は、同じく抵抗勢力の王たちが「彼らの枷(かせ)を打ち砕き、彼らの軛(くびき)を解き捨てよう。」と口々に叫ぶ様を歌います。

(8) 天上のあざわらい(第38曲)
 地上の王たちのむなしい抵抗を天の神々があざ笑う部分です。
 テノールのレチタティーヴォの導入に続いて、第38曲のテノールアリアが「…鉄の杖で、陶器を打ち砕くように地上の神々は打ち砕かれるであろう。」と歌います。

(9) 全能の王の賛美【ハレルヤ】(第39曲)
 抵抗勢力を打ち砕いて、主の栄光の国が訪れたことを賛美する有名な合唱です。「ハレルヤ! われらの主、全能の神は支配者となられた。この世の国は、われらの主とそのキリストの王国となった。主は世々限りなく君臨される。王の中の王、主の中の主。ハレルヤ!」
 ところで「ハレルヤ」とはヘブライ語で「神を賛美せよ」の意味です。


3.第3部「永遠の生命」

(1) 復活への信仰(第40曲〜第41曲)
 第40曲のソプラノアリは、キリスト教信仰の根幹をなす「復活」への信仰を、「われらは知る。われを購い給う主は、ついには地に立たんことを…」と歌います。
 続く第41曲の合唱も、「死が一人の人を通して来たのと同じように、死者の復活もまた、ひとりの人によって来たのだ。アダムのゆえにすべての人が死ぬのと同じように、キリストによってすべての人が生かされるのだ。」と信仰の真髄を歌います。

(2) 永遠の生命(第42曲〜第43曲)
 ここは2曲ともバスの見せ場です。
 まず第42曲のアコンパニアートで、最後のラッパが鳴り響く時、我らは瞬時に変えられる。」と語り、続いてトランペットソロとの掛け合いのアリア(第43曲)が歌われます。その歌詞は「最後のラッパが鳴るとき、死者は朽ちざるものへと甦り、…」という永遠の生命への変容を高らかに歌い上げます。

(3) 死に対しての勝利(第44曲〜第46曲)
 アルトのレチタティーヴォが「『死は勝利に呑まれてしまった。』という聖書の言葉が成就された。」と導入し、第44曲では唯一の2重唱(アルト&テノール)が「死よ、お前のとげはどこにあるのか、おお墓よ、お前の勝利はどこにあるのか。」と死の敗北を再度歌います。
 それに続いて、第45曲の合唱が、対句表現のように「その一方で、神に感謝すべきことに、神は私たちに主イエス・キリストを通じて、私たちに勝利を賜ったのである。」と歌い、勝利の締めくくりとして第46曲のソプラノアリアが、「神が私たちの見方であるなら、誰が私たちに敵対できようか?‥‥‥キリストが甦って、いまや神の右に座り、私たちのためにとりなしをして下さるというのに。」と神の信任を得た信徒たちの自信に満ちた声を歌います。

(4) 屠られた子羊(=イエス)に対する賛歌、アーメン(第47曲)
 何曲かに分割した版もありますが、我々の使っている楽譜では長大な終曲となっています。人間の原罪を負って受難し、人間を救ったイエスを讃える賛歌です。
 「屠られた子羊、自身の血によって私たちを神に贖って下さった子羊こそが、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい。
 御座にいます方と子羊とに、賛美とほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくありますように。
 アーメン。」

(Bass 百々 隆)

【参考文献】
  1. 「メサイア」ハンドブック 三ヶ尻 正著 平成10年(株)ショパン
  2. インターネットサイト
    http://members.jcom.home.ne.jp/kumanomi/messiah/kaisetsu.html


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