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  第 74 巻 仏羅稜(プロランセ=フィレンツェ)ノ記

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 維新を達成した明治新政府は不平等条約改正を目指す一方、先進欧米各国の実情を視察する必要を、お抱え外国人フルベッキの献言もあり、感じていた。当初、参与兼外国官副知事の大隈重信を首班とする使節団が組織されようとしていたが、政権内の権力争奪を秘めながら、外務卿岩倉具視を団長とする使節団に変容していく。(この視察団の派遣は、遠い原因として西南戦争にも関係している。)

 木戸孝允や大 久保利通も加わった約 50 名の視察団は、明治 4 年(1871年) 11 月 12 日、横浜港を出発して、米国、英国、フランス、ベルギー、オランダ、プロシア、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス、スペイン、等を歴訪し、明治 6 年(1873年) 9 月 13 日、横浜港に帰着している。使節団は、各国からの歓待を受けながら、豊富な知識、情報を収集した。その後の日本の進路や欧米観に大きな影響を与えた視察旅行。この全行程を随行書記官 久米邦武が記録しているのが、「特命全権大使 米欧回覧実記」全5編 100 巻である。使節団の公式の政治、外交の記録とは別の、現地の実況を日記風に記した体裁になっている。

 現代日本人は、すでに西洋文明の習得という言葉さえ、忘れるような時代に暮らしているが、逆に日本人としてのアイデンティティや、西洋文化と日本文化との対比ということについて意識が希薄な状態に陥ってはいないだろうか。この「米欧回覧実記」を読むことが、先人のパイオニア精神を思い起こし、もう一度、21 世紀にむけての、日本人の視座を考えるよいきっかけになることを願う。

 今回掲載の“仏羅稜(フロレンス)府の記”では、街の概要、大聖堂、ウフィツィ美術館、ヴァザーリの回廊、ピッティ宮、ヴェッキオ宮、モザイク業、日本物産店、製陶業、養蚕業などについて記している。1990 年代の現在でも昔のたたずまいを保存しているフィレンツェであれば、ここに記述してある内容も、現在とあまり変わらなかったりし、文体さえ現代風であるならば、知人の旅行記を読むような感の部分もある。一方、欧米の情報にも乏しく、初めてのイタリア訪問でありながらも、イタリアがヨーロッパ芸術発祥の地であると看破した点など、明治の大先輩の慧眼、観察力にも、敬意を表したい。

 本書の全文現代語訳は、ラ・プリマベーラ図書館に、順次掲載していく予定であるが、このうち、イタリア、フィレンツェを使節団が訪問した時の様子を次ページ以降に現代語訳で紹介する。別記の Salone della Primavera フィレンツェの記事とも対比すると面白いかもしれない。

p.2 に続く