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ドイツレクエイムについて(1)


 今回はドイツレクイエムそのものについて書いて見たいと思います。

1.「レクイエム」について

 ドイツレクイエムに入る前に、少しレクイエム一般論を書かせてもらいます。
 カトリック教会の死者のためのミサ曲が、その第1曲目、入祭頌の出だしが“Requiem eternam”(永遠の安息を…)という言葉によっていることは、ご承知のことと思います。ここで注意をしてほしいことは、この後に続く言葉が、“dona eis domine”で、通して訳すと「主よ、永遠の安息を彼に与えたまえ。」と言う意味で、死者の霊そのものに呼びかけるのではなく、神に祈ると言う点です。この点が、わが国で主流の仏教や神道が、死者の霊そのものが自らの意思を有するかのように、死者の霊そのものに呼びかけるのとの大きな差です。キリスト教では、神は全知全能であり、死者の霊もその神のコントロール下にあるという考え方です。わが国では、レクイエムを「鎮魂曲」と訳すことがありますが、キリスト教の考え方を正しく伝えない訳だとの批判的な考え方が有力になってきています。
 この辺の考え方は、ドイツレクイエムの練習を開始してまもなくお配りした対訳の冒頭や、アンサンブル・ヴォーチェのホーム・ページに収録していただいている拙文「ミサとレクイエムの構成」の中でも触れていますので、関心のある方はご一読ください。

2.作曲の時期

 ブラームスのドイツレクイエムは一度の完成されたものではなく、10年間にわたって何度かの追加が行われ、今、我々が見る形になっています。また、完成すればすぐに演奏されたわけではなく、初演も段階的に行われました。
 一番古い生まれを持つのは第2楽章で繰り返し出てくる「葬送行進曲」のようなテーマで、1854年に作曲した二台のピアノのためのニ短調のソナタ(この曲は後に破棄)の「緩徐なスケルツォ」楽章に由来するといわれています。ブラームスは、デトモルト時代にこのテーマを用いて当時指揮者を務めていた合唱団で演奏するカンタータを計画していたようです。
 しかし、その後はしばらくの間、手をつけていませんでしたが、1863年にウィーン・ジングカカデミーの指揮者に呼ばれることによって合唱曲との出会いの機会が増え、さらに1865年に母が死んだことから、お蔵入りしていたドイツレクイエムの本格的な作曲を開始しました。クララ・シューマン(作曲家シューマンの未亡人)に宛てた手紙の中でその作曲構想を述べています。
 まず、1866年の2月から4月にかけて、カールスルーエで第3曲のフーガまでを、5月に演奏旅行のさなかに第3曲のフーガを完成させました。この夏、スイスの避暑地で第1曲と第4曲を書き上げ、8月にバーデン・バーデンで第5曲を除く、その他の部分を書き上げました。第5曲は1868年5月にハンブルグで作曲され、今の姿が完成しました。
 初演は、1867年12月1日に、シューベルトを記念するウィーン楽友協会の音楽会で、第1曲から第3曲までの演奏が行われました。しかし、この演奏は練習不足や演奏者の曲に対する理解の不足で散々な出来だったようです。特に第3曲のフーガは、管楽器奏者が終始フォルテッシモで鳴らし続けたため、収拾が付かなくなったそうです。
 次の段階は、今の形で言う第5曲を除いた形で、1868年4月10日の受難金曜日に、ブレーメンでブラームス自らの指揮で演奏されました。今回は大成功で、演奏を聴いたクララも大満足で、亡き夫ロベルト・シューマンが予言していたブラームスの未来が現実になったと感激の言葉を残しています。
 全曲の完成は1869年2月18日で、ブラームスにとっては鬼門であったライプツィッヒで行われ、これも成功を収めました。
 また脱線しますが、ドイツレクイエムの作曲が進められていた1864年〜1868年といえば、日本で言えば明治維新の時期に当たります。暫く前までは、京都の古老が「先の戦争で…」というとそれは戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いを意味したという話もありますが、この調子で言うと、ドイツレクイエムが作曲されたのもつい先日のことということになるのでしょうか。

3.作曲動機

 作曲動機について本人が明確に述べた資料は残っていないようです。
 個人的な心情につながることとしては、恩師のシューマンが1856年に死んだことが一つの動機にはなったといわれています。ブラームスが、友人のヨアヒムに「『レクイエム』はシューマンへの思い出と密接に結びついている。」と述べたとの記録もあります。また、1865年のブラームス自身の母親の死との関係が強調されることもありました。しかし、上で述べたように、それ以前にも作曲には手をつけており、母親の死が完成を加速したという見方が一般的です。
 さらに、そもそも恩師のシューマンがドイツ語によるレクイエムの作曲を意図していたことも動機の一つだと指摘した当時の評論家がいたのですが、ブラームス自身がこの見方を否定する手紙をクララ・シューマンに送っており、ブラームスがうそを言っていなければこの説も否定されることになります。
 では何故かということになりますが、定説が無いというのが現状です。そのような状況の中で挙げられる理由としては次のようなものがあります。
  1. ブラームスの音楽家としてのキャリアーは合唱団の指導者など合唱音楽との関わりが深く、合唱音楽に対する理解と関心が高かった。
  2. シューマンがパレストリーナなどのルネサンス音楽の楽譜を相当量所蔵しており、それらを研究していたことや、バッハやヘンデルの合唱作品にも関心が高く、自分でもこのような作品を書きたかった。
  3. ドイツレクイエムが作曲された18世紀後半は、ドイツではチェチーリア協会が結成されるなど宗教音楽が再認識され、宗教合唱作品が新たな高まりをみせる時期であったという時代潮流と、ブラームスの個人的な心情がドイツレクイエムにつながった。
  4. ドイツ語でも堂々としたレクイエムがかけることを示したかったのではないか。
等の説が挙げられています。
 最後の説から言えば、ゲルマン精神のあふれたドイツ人的な、ドイツ人のためのレクイエムを書きたかったということにもなるのですが、一方で本人の手紙の中で、「私は喜んで“ドイツ”という語を除き、簡単に“人間”と言う言葉に置き換えたいと公言しても良い。」とも述べており、当初はドイツ人のために書くつもりであったものが、作曲を進めるうちにもっと大きな視野を持ち、人類の、あるいは人間そのもののための音楽というふうに普遍的に考えるようになったのではないか(本山秀毅氏)という見方もあります。
 過去にドイツ語で書かれた追悼の音楽として、ハインリッヒ・シュッツ(1585〜1672)が1636年に作曲した《葬送音楽》や、哀悼行事(アクトゥス・トラジクス)と呼ばれる大バッハのカンタータ第106番「神の時はいとよき時なり」などがあり、ブラームスがドイツ語で追悼の音楽を書こうと思い至ったのにはこれらの存在が影響していた可能性が指摘されています。

4.先人たちの影響

 作曲動機という点での先人たちからの影響は上に述べたとおりですが、ドイツレクイエムの内容に関しても先人たちの宗教作品の研究成果との繋がりが指摘されています。
 まずは、筆者の大好きなバッハとの関係から書いて見ます。
 ブラームスが活躍したのはちょうどヨーロッパでバッハの音楽が見直された時期と一致しています。例えば、有名なメンデルスゾーンによるマタイ受難曲の復活演奏が1829年で、ブラームスが生まれる4年前です。また1850年にはバッハ協会が設立されてバッハ全集(今で呼ぶ旧バッハ全集)の発刊が始まりました。このバッハ全集は1899年まで順次刊行されます。従って、ブラームスが作曲家として活躍していたほぼ全期間を通じて発刊されていたことになります。実際、ブラームスもバッハ全集を手に入れており、記録によれば、まず第1巻はクララ・シューマンから送られています。ブラームスは、これを機会に継続的に購読し、現在、ウィーン楽友協会の資料室に残っている彼が用いたバッハ全集の楽譜には相当量の書き込みがされており、よく研究していた様が伺われるそうです。当時のブラームスのバッハへの傾倒振りを示すエピソードとしてこういう話したが伝わっています。
 “ブラームスはベッハ協会の各巻の刊行をじりじりして待っていたが、それを手にするやいなや、いっさいの仕事をほうり投げて眼を通した。ブラームスは「老バッハにはいつも驚きがある。わたしはいつもバッハから新しいものを学んでいる」と言った。ところがヘンデルの作品の新しい版が届いたとき、彼はそれを本棚に突込んでこう言った。「これはきっと大いに興味をひくものと思うが、ひまができたら眼を通すことにしよう。」”
 バッハ全集の校訂者にも加わるように誘いがあったようですが、ブラームスは自分にはその資質が無いといって断っています。
 上の言葉ではヘンデルをやや低く評価しているようにも読めますが、実際にはヘンデルについてもよく勉強していたようです。
 さらに、バッハやヘンデルよりも100年古いシュッツ、それよりもまだ古いパレストリーナ等の研究も熱心に行ったといわれています。
 これらの研究成果とドイツレクイエムの具体的な繋がりとして、まず、シュッツとの関係では、シュッツも徹底したルター派のプロテスタントで、ルターの聖書からの歌詞に多くの曲をつけていました。そのうち、《シンフォニエ・サクレ第3巻の第4曲「息子よ、なぜあなたはわれらにこのような仕打ちをしたのか」(SWV401)》と一部同じ歌詞がドイツレクイエム第4曲に、また、《葬送音楽の第3曲「主よ、いま汝は汝の僕を安らかにさらせてくださいます」》と一部同じ歌詞がドイツレクイエムの終曲に用いられています。
 また、バッハとの関係では、ドイツレクイエムの第1曲の開始主題、第2曲の主要主題は、ルター派のコラール「ただ神の摂理に任す者」の旋律であり、このコラール旋律を用いたバッハのカンタータ第27番「たれぞ知らん、我が終わりの近づけるを」、同じく第93番「尊き御神の統べしらすままにまつろい」との結びつきが指摘できるといわれています。

5.歌詞

 歌詞はブラームス自身がルター訳の聖書から言葉を選んだものです。従って、その選び方の中にはブラームス自身の宗教観、人生観が濃く反映されたものといわれています。
 ラテン語の典礼文と構成は類似していると主張する評論家もありますが、敢えてそういう理屈をつけなくても、まったく自由に、あるところは旧約聖書から、他のところは新約聖書からと自由自在に言葉を抜き出して、自らの人生観に則した歌詞を作り上げたと考えて良いのではないでしょうか。
 では、ブラームスが特別、熱心なプロテスタントであったかといえば、むしろ反対でそれほど熱心ではなかったようです。そうはいっても彼が生きた時代は、今に比べれば遥かに宗教が日常生活に溶け込んでいた時代でしょうから、意識していなくても生まれながらに宗教的な考え方が身についていたと言えるのかも知れません。
 一つの楽章を聖書のどこかの節からまとめて採ってきたのならまだしも、例えば第1楽章では、「マタイの福音書」(新約聖書)と「詩篇」(旧約聖書)というようにまったく違ったところから採ってきて一つの詩に仕上げています。
 筆者は浅学のため、わかりませんが、クリスチャンであれば、おのずとこの2ヶ所に関連があることが理解できるものなのでしょうか。ブラームスが使っていた聖書には数多くの書き込みがあるそうですから、熱心に読んだことは間違いなさそうです。
 カトリックの典礼文と類似の箇所はほとんど無く、第6曲でバリトンソロが最後の審判(Dies irea)に通じるところがありますが、それは死者を最後の審判に引き出すのではなく、「死人は朽ちない者に甦らされ、私たちは変えられるのである。」と死後の復活と合一への希望を告げます。これはカトリックで用いられる煉獄という概念を否定するルターの考え方と一致するといわれています。
 この「最後のラッパが鳴り響いて…」と、これに続いて3拍子で激しく歌われる、「死は勝利に飲み込まれん。死よ、汝の棘はいずこにありや? 地獄よ、汝の勝利はいずこにありや?」の部分は、ヘンデルのメサイアでも同じ意味の歌詞が用いられており、神の国というの勝利を歌い上げます。ヴォーチェの第5回演奏会でメサイアを取り上げたときには、「最後のラッパ…」のバスソロ(トランペットソロ付き)の後の曲を省略しましたので、記憶に無いかもしれませんが、メサイアを歌われた方は一度、楽譜か対訳で確認して見られると面白いと思います。
 なお、インターネット上を色々と探していたところ、ドイツレクイエムの歌詞について、それぞれの歌詞の元となっている聖書の当該部分について、ドイツレクイエムに採用された前後の部分も含めて解説しているサイトを見つけました。次回にでも、この記載を筆者なりに解釈してご紹介しようと思いますが、そんな怪しげな解説よりオリジナルを見てみようと思われる方は次のサイトをご覧ください。
http://suisen.sakura.ne.jp/~n-shimin/data/deutsreq/BRAken.html

6. キーワード“Selig”

 第7曲まで歌いましたのでお気づきの方も多いと思いますが、ドイツレクイエムは“Selig”で始まり、“Selig”で終わります。いわば“Selig”の音楽ともいえます。
 さて、この“Selig”という言葉をどう理解し、表現するか。訳詩では「幸いである」と訳していますが、これで意味が通じるかどうか非常に難しい言葉だと思います。少なくとも「ラッキー」という意味ではないことはお分かりだと思います。辞書を調べると“Selig”には、「この上なく幸せな、大喜びの、天福をうけた、至福の」という感嘆を表していると書かれているそうです。これは聖書の原文(ギリシャ語)では「ああなんと祝福されていることよ」という感嘆を表しているそうです。「祝福されている」とは、「神の愛顧と救いに生命の喜びと満足を得ている」状態のことで、いわゆるキリスト教の「救い」の状態のことだそうです。
 ドイツレクイエムに採られている言葉は、マタイによる福音書に書かれている「山上の説教」と呼ばれるイエスの説教集からの引用で、ここでは八つの「幸い」が語られていて、《至福の教え》とも言われてます。八つの「幸い」とは以下の通りです。

《心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、
   その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、
   その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、
   その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、
   その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。》

 以上のようなことから、“Selig”を「至福の状態」と訳しても良いと思いますが、神の愛顧を感じてそのような状態に至るのはキリスト教徒でない我々には難しいでしょう。しかし、このような精神状態を逆に音楽の方から感じ取って新たな体験とするのも音楽をすることの一つの意味合いではないでしょうか。また、至福の状態と言っても良いような身近な経験を思い出して、この言葉を歌うのも良いのではないでしょうか。愛する人に包みこまれている幸せな感覚とでもいえるものでしょうか。
 また、「悲しんでいる人々」というのも味わいのある言葉だと思います。もともとの宗教的な「悲しむ」という言葉は、自らが神から離れてしまったという自らの罪に対する深い悲しみを意味したそうですが、イエスは山上の説教では、もっと単純な意味で「悲しむ人々」と呼びかけたといわれています。
 というわけで、この曲の主題は「慰め」ともいえます。こういう観点から次のような点も、特徴として指摘されています。それは、この曲では、“Herr”(主よ)という言葉は何度か出てきますが、“Jesus”とか“Christe”という言葉は一度も出てこない点です。キリスト教というのは、イエスの犠牲による人類の救済ということを基本においた宗教ですので、キリスト教の宗教音楽としてはやや異質ということになります。この点については、この曲の主題が、イエスの死と救済よりは、ルター派の教義による普遍的人間的な内容、「慰め」であることの表れだとも解説されています。

7.ドイツレクイエムのブラームスの音楽人生における位置づけ

 まさに出世作といって良いでしょう。
 上にも書きましたが、ドイツレクイエムは10年間にわたって作曲され、初演も3回に分かれて行われました。
 ドイツレクイエムは、大規模なオーケストラ曲の最初とも言えるもので、ドイツレクイエムの成功の後は、交響曲の作曲にも手を付け、10年かけて第1番を作曲した後は10年間の間に4曲を完成させます。
 初演後の演奏は、作曲家自身も何度か演奏したほか、他の演奏家にも取り上げられ、初演後、10年間の間にヨーロッパ中で100回以上演奏されたといわれています。
(Bass 百々 隆)

【参考文献】

  1. ブラームス(作曲家◎人と作品シリーズ) 西原 穣著 音楽の友社 2006年
  2. ブラームス(作曲家別名曲解説ライブラリー) 音楽の友社 1993年
  3. クラシック音楽作品名辞典  井上 和男編著 三省堂 1985年
  4. レクイエムの歴史  井上 太郎著 平凡社 1999年
  5. バッハカンタータ研究  樋口 隆一著 音楽の友社 1987年
  6. バッハ=魂のエヴァンゲリスト  磯山 雅著 東京書籍 1985年
  7. ガーディナー指揮 ドイツレクイエム CD 解説書
  8. インターネットサイト
    1. http://www.asahi-net.or.jp/~hc2n-iijm/essays/esy960825.htm
    2. http://www2.odn.ne.jp/row/sub2/brahms/brahms_002.htm
    3. http://suisen.sakura.ne.jp/~n-shimin/data/deutsreq/BRAken.html

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