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メサイアの誕生と演奏史


 今回はメサイアが作曲された経緯と、誕生後の演奏の歴史について書いてみます。

1.誕生からロンドン初演まで
 メサイアが作曲されたのは1741年ですが、「メサイア」の作曲を思い立ったのはヘンデル自身ではなく、作詞者のジェネンズのようです。

 ヘンデルの生涯は第1回でもご紹介しましたが、ドイツで生まれてイタリアで音楽の勉強をし、20歳台半ばでイギリスに渡り、当座はオペラ作曲家として大きな成功を収めます。しかし、40歳台の後半になるとオペラの興行が不調に陥るとともに、52歳の時(1737年)に自身も体調を崩し演奏活動からの引退を余儀なくされます。
 その後体調の方は温泉療法で回復し、その頃(1740年頃)から、オラトリオの作曲に専念するようになり、1737年の「アレクサンダーの饗宴」、1740年の「サウル」、「エジプトのイスラエル人」等を作曲します。しかし、興行成績は芳しくなかったようで、1740年秋から翌年春までのオペラ・オラトリオのシーズンが不調に終わると、56歳のヘンデルは翌シーズンに何をすべきかアイデアはありませんでした。そこへ数年来の友人であり、かつてオラトリオ「サウル」の曲本を提供したジェネンズがヘンデルに新しいオラトリオの作曲を勧めます。
 この辺の事情は、ジェネンズ自身が友人に宛てた手紙の中で触れていてそれが残っています。
 「ヘンデルは次の冬は何もしないと言っていますが、私が彼のために作った聖句に基づくもう一つの台本に曲をつけ、彼自身の利益のために受難週間に演奏するよう、説得できればと願っています。彼が才能と熟練のすべてを傾注し、題材が他のどれよりも卓越しているがごとく、音楽もこれまでの彼のどの作品をも凌駕することを願っています。その題材とはメサイアです。……」(1741年7月10日ジェネンズから友人のエドワード・ホールズワースに宛てた手紙。)
 ヘンデルのオラトリオはそれまで題材を旧約聖書に求めていたのですが、「メサイア」では新約聖書の主人公であるイエス・キリストその人がテーマになりました。といってもジェネンズの台本はすべてを新約聖書から取るのではなく、随所にイエスの事跡を旧約聖書で予言されていた通りであるという論法を用いて、言葉そのものは旧約聖書から引用しています。
 ジェネンズはこの作品を「エジプトのイスラエル人」(1739年作)の連作と考えていたようです。「エジプトのイスラエル人」はイスラエルの民がカナンの地を離れ、エジプトで放浪の生活を送った様を、旧約聖書に基づいて描いています。なお、このエジプトでの生活が終わるのが紀元前13世紀ごろのモーゼに率いられてのエジプト脱出で、その様子を語るのが旧約聖書の「出エジプト記」、それを題材に作られた映画が「十戒」であることはご承知の通りです。
 モーゼからイエスまでの間は千年以上の時間があり、その間にはバビロン捕囚など旧約聖書に書かれている出来事も数多くあるのですが、ジェネンズのインスピレーションをかきたてるのはやはりモーゼの次はイエスで、それで連作というイメージになったのでしょうか。
 ジェネンズがヘンデルに作曲を勧めた理由は、決して教会での礼拝用に用いるためではなく、あくまでオペラと同じく興行用で、ジェネンズ自身が娯楽のための作品であると記しているそうです。また、ヘンデルがこれによって金儲けしようともくろんでいたことも間違いありません。

 ジェネンズが何時台本を作成させ、ヘンデルに渡したかは判っていませんが、自筆譜から見ると、1741年8月22日に着手し、9月14日は完成、作曲期間24日間という驚くべき速さで書かれています。ヘンデル自身はとりつかれたように楽想が湧き出てきたようで、時にはペンが追いつかず略号で書かれているところも多々あるようです。また、伝えられるところでは、第20曲のアルトアリア「この方は侮られて」は自らの楽想に感動し、涙を流しながら書いているところを召使が目にしたという説話も残っています。
 このように、ごく短時間に曲は完成したのですが、初演されるまでには若干のブランクがありました。
 もともとヘンデルは1741年の秋のシーズンにダブリンに招聘を受けていて、そのために一気に「メサイア」を書き上げたとも考えられ、確かにこのダブリンへの演奏旅行に完成したばかりの「メサイア」を携えていきました。しかし、この演奏旅行では「メサイア」が演奏されることはありませんでした。その理由は明確ではありませんが、ロンドンでは聖書に題材をとったオラトリオをオペラ劇場で演奏することに教会から批判の声が上がっていたこともあって、さすがのエンターテーナー、ヘンデルもキリスト教の中心主題であるイエス・キリストの物語を興行のネタにすることに慎重になったのかもしれないといわれています。
 結局、初演は翌年の1742年4月13日にダブリンで病院の支援と囚人の慰安のための慈善演奏会で行われました。この公演は大成功で、公開リハーサルで大評判をとり、本番では通常600人収容の会場に700人が詰め掛けたといわれています。このダブリン滞在中にもう一度6月3日にも上演されています。
 ロンドンでの初演に際しては、前述のような教会の批判を受けて、タイトルは「メサイア」とはせず、「新しい宗教オラトリオ(A New Sacred Oratorio)」とする苦心をしています。このロンドンでの初演は成功とはいえませんでしたが、臨席していた国王ジョージ2世が“ハレルヤ”のところで感嘆のあまり立ち上がったため、それ以降“ハレルヤ”のところでは聴衆が立ち上がる習慣ができたといわれています。この習慣は現在でも一部では行われることがあるようですが、賛否両論があって本場イギリスでも批判的な意見もあるようです。


2.ヘンデル自身の再演
 ロンドンでの初演では良い評判は得られませんでしたが、その後も何度か演奏を行いました。それでも「メサイア」の評価が高まってくるのは1750年(65歳)以降、捨子養育院で毎年演奏するようになってからでした。1751年以降はコヴェント・ガーデン劇場でも毎年演奏されるようになり確固たる地位を築きました。その理由として、当初の不評にも拘わらず演奏を続けたヘンデルの根気良さ、孤児院のための慈善演奏会という趣旨に賛同が集まったことの他、ヘンデルのオラトリオ全般に対する評価が高まったことが上げられています。
 ところで、このようにヘンデル自身が何度も演奏したことから、今日演奏するものにとって悩ましい話が出てきます。それはヘンデル自身が演奏するたびに何度も曲に手を加えているために、どの形で演奏すべきかの判断を迫られるということです。手を加えた動機は、曲そのものをよりよくしようということの他に、それぞれの演奏のために確保できた演奏者の実力に会うように手を加えることもありました。このため、あるアリアが時にはテノールで歌われ、次の機会ではソプラノで歌われたりした例や、合唱とソロが変わったりした例が相当数確認されています。それでも回を重ねると共に収束し、初演から10年を経て孤児院のために毎年演奏するようになった頃にはほぼ現代伝わった形になったといわれています。このように演奏の度に手を加えるということは当時は通常良くあったことで、バッハの作品でも演奏の度に手が加わっている例は多々あります。その中で特に大幅な変更が加えられたものとして有名なものは「ヨハネ受難曲」です。
 ところでヘンデルはどれくらいの規模で演奏していたのでしょうか。オーケストラは20数人〜30数人、合唱は20人程度という数字だったようです。


3.その後のメサイア
 ヘンデルの死後も「メサイア」の人気は衰えません。後世の著名な作曲家にも大きな影響を与えたといわれています。
 ハイドンの有名なオラトリオ「天地創造」の作曲動機の一つに「メサイア」があったといわれていますし、モーツァルトがウィーンに移住してからスヴィーテン男爵の依頼を受けて自らオーケストレーションに手を加えました。この作品はモーツァルトの作品の一つとしてKv.572というケッヘル番号も与えられています。その他、メンデルスゾーンの「エリア」やベルリオーズの「キリストの幼時」等のオラトリオも「メサイア」を代表とするヘンデルの聖書を題材とするオラトリオの影響を受けているといわれています。
 演奏の面で見ると、ヘンデルの生前からアマチュア合唱団などに幅広く取り上げられていました。そのため、合唱団員の数は増える方向にありましたが、18世紀後半になるとその傾向が顕著になってきました。モーツァルトの編曲も大規模なこの傾向の線上にあるものとも言われています。そして、それは19世紀に入るとますますその傾向を深めていきます。この頃の音楽専門誌等には、ヘンデルの生存中に大規模なオーケストラや合唱団が使えればそうしたに違いないというような論調も見られ、大規模化に走ることは作曲家の意図に適ったものだと思われていたようです。
 その例として1829年のハルモニコン誌(The Harmonicon)には「言うまでもないことだが、その曲(『メサイア』)が改良の手を加えられることなく聴かれることはもはやないだろう。もしヘンデルの時代にも幾種もの管楽器を使うことができたのだったら、ヘンデル自身きっと〔同様の追加補筆を〕したに違いないのである。」という記事があり、1843年のミュージカル・イグザミナー誌(Musical Examiner)でも、「いったいヘンデルの演奏を聴いて合唱が大きすぎると感じる者がいるだろうか? より大きな合唱をと欲する心にはどめをかけることができるのは、人間の耳の物理的許容量の限界だけで、たとえもろもろの国の人が合唱して声を張り上げ、雷神が天空を震わすほどに楽の音を轟かせようとも、真のヘンデル信奉者は決して『やめてくれ、もう十分だ!』と叫ぶことはあるまい。」と書かれています。さらに1859年のヘンデル没後100年の大ヘンデル記念祭のために、2756名の合唱と460名のオーケストラが用いられたという記録もあります。
 このような傾向はアメリカでも見られ、1857年のボストン・ヘンデル・ハイドン協会主催の第1回音楽祭では600〜700人の合唱を用いた全曲演奏が行われ、1869年の平和を祝う国民祭典では1万人の合唱、500人を超えるオーケストラによる「ハレルヤ」の演奏が行われたという記録があります。
 さすがに「多いことはいいことだ」という風潮にも反省が現れ、1883年には「ヘンデルの頃と同じ編成のオーケストラに戻ろう」という主張が表れました。といってもこれを主張した人のイメージは1784年の演奏で合唱団は200名規模のものです。
 歴史的にみれば「メサイア」は、うたごえ合唱運動のひとつのシンボルとなったり、さらにはそれによって生み出される社会的連帯意識の象徴のように捕らえられて来たとの評価もあります。ある学者は「合唱音楽をエリート階級からその下の階級まで広めることに貢献し、ひいては、一般大衆の教化と労働者の環境改善につとめたヴィクトリア時代の、政策の一端をになうことになったのである。」ともいっています。
 第2次大戦後になると、より本来の姿に戻そうという動きが現れ、オーケストレーションからヘンデルが書かなかった部分が除かれたり、声と楽器のバランスをとるために合唱の人数が減らされるようになりました。また、1950年代頃からはオリジナルの姿が科学的に究明されるようになり、装飾音、アーティキュレーション、フレージングなど、バロック時代の演奏習慣の特徴が広く理解されるようになり、ヘンデル自身による演奏と同じ規模、語法、様式を復元することを目指す動きも多くなりました。特にこの20年の演奏やCDをみても比較的規模が小さく、オーケストラはいわゆる古楽器を使った演奏が多くなっています。一方で、今もしヘンデルが生きていて、今の楽器、演奏会場で今の聴衆を意識して曲を書けば違った書き方をしたはずだという議論も常におこなわれています。どのような演奏形態をとるかは最後は演奏家自身の音楽性によって判断するしかないということになるのでしょう。


4.演奏の季節について
 「メサイア」は最近ではクリスマスの時期に演奏されることが多いのですが、もともとクリスマス用にかかれた音楽か、あるいはふさわしい音楽かということについて少し触れたいと思います。
 とわざわざ書いているということはそうではないということです。
 確かに第1部はイエスキリストの生誕を輝かしく描いていますが、第2部では受難と復活を、第3部ではイエスの復活によって人類にもたらされた永遠の生命を賛美する精神的な内容になっています。
 まさにこの組み立てはキリスト教の本義そのものともいえるもので、ミサ曲の内容とも通じるものがあります。冒頭に書いたようにヘンデルに「メサイア」を書くように勧めた台本作者のジェネンズも受難節のための作品のつもりで書いています。ダブリンでの初演も1742年の4月、ロンドンでの再演も1743年の3月といずれも受難節前後に行われ、その後もしばらくはこの時期に演奏されていました。しかし、3項で書いたように演奏がどんどん大規模化し祝祭的な側面が重要視されるようになってからこのような趣旨が薄れ、いつの頃からかクリスマス音楽のようになってきたようです。演奏面では第3部が軽視されるというか部分的に省略される場合が多いのですが、もともとはこういう性格の音楽であったということを頭の片隅において歌うとまた違った意味合いが見出せるのではないでしょうか。

(Bass 百々 隆)

【参考文献】
  1. 「メサイア」ハンドブック 三ヶ尻 正著、平成10年、(株)ショパン
  2. バロックの社会と音楽(下) 今谷和徳著、1988年、(株)音楽の友社
  3. ガーディナー指揮 CD 解説書


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