メニューバー

トップページ > フォーレ研究 > フォーレについて

フォーレについて


 フォーレその人については、生涯のいくつかのエピソードを紹介すれぱ十分だろう。

 1845 年フォーレが生まれたアリエージュは、フランス南部のピレネー山岳地帯であり、南国でありなから山岳という気候の変わり易い土地柄であった。日本の四季のうつろいにも似た気候で育ったこと、このことはフォーレの感覚の鋭さに大きな影響を及ぽしたと推察される。

 9 歳の時入学したニデルメイエール宗教音楽学校では、厳しい校則に反抗しかなりの怠学をしたようだが、そこで日常聞いたグレゴリア聖歌やルネッサンス期の音楽は、彼の音楽語法、即ちドイツ・オーストリアで発展した「動機による動力学的手法」とはあまりに異なる、「和声と旋法による不断の変化」、「調性と旋法性の融合」を生み出した。(その特徴として、7の和音の自由な継起、エンハーモニック・モジュレーションなどが挙げられる[13]。)この独待の語法のため、その楽曲に対する分析は、ベルナール・ガボティの言うように、あたかも蝶の羽根を解剖するに等しい困難さを伴うことになった[7]

 フェミニストであった。「サロンの音楽家フォーレ」と言われ、当時デラ・スッダにより描かれた強烈なカリカチュア(女性たちの前で、犬のようにチンチンしているフォーレが描かれている)が残っている[1]。確かに、日記の感覚で作曲されたピアノ音楽の中核、「バルカローレ」と「ノクチュルヌ」では、計26 曲のうち20 曲までもが女性に献呈されている。歌曲も同様である。

 結構複雑な人であった。私生活面では、妻のマリー・ガブリエルとのほぽ安定した生活の一方で、サロンで知り合ったエンマ・バルタックとの密かな仲(後年のドビッシー夫人で、この頃作曲され、サン=サースをして「フォーレはついに完全に狂った!」と叫ぱせた、ただならぬ気配を有する歌曲「優しき歌」(1894 年)の被献呈者)[4]、また実に1985 年(1885 年ではない!)まで親族がひた隠した、彼女との間にできた女の子エレーヌの存在(フォーレはこの子に、毎年誕生日プレゼントとして小品を1曲づつを捧げ、これが6曲集まってあの「ドーリー」組曲となる)など[3]、既成のイメージからは想像できないような複雑な人生を歩んでいる。ウラディミール・ジャンケレビッチの言うように、特に初、中期のフォーレの音楽の一面は、まさに私小説にもなぞらえられる「夜の音楽」であった[11]

 信念の人でもあった。1905 年のパリ・コンセルヴァトワール院長就任直後に行った、旧時代の音楽教授の大量解雇による学内改革(これによりフォーレに与えられたあだ名がロベスピエール)、ラベルなどにより結成された「独立音楽協会」擁護と会長就任(1909 年)により生じた、旧来の友人サン=サーンスとの不和(サン=サーンスは、一時、ラベルら「年若い無政府主義者」との絶交を迫った)などに示されている[2]

 晩年は進行性の難聴に悩まされつつも、その音楽性は内面性を深め、普遍的立場に立った未踏の傑作群を輩出し、1910 年と1920 年にはレジオン・ドヌール勲章を受けている。1924 年に死去した。


フォーレ研究
はじめに フォーレ ペリアスとメリザンド ジャン・ラシーヌ頌 レクエイム 参考資料

フォーレ研究 モーツァルト研究 バッハ研究 ヘンデル研究 ブラームス研究
トップページ EnsembleVoceとは これまでの演奏会 練習スケジュール