メニューバー

トップページ > モーツァルト研究 > ザルツブルグ時代のモーツァルトとミサ曲 Kv.192

ザルツブルグ時代のモーツァルトと
  ミサ曲 Kv.192


前書き
 この資料は、第3回演奏会でモーツァルトの宗教曲ばかり3曲を取り上げた際に、そのうちのミサ・ブレヴィス ハ長調 Kv.259のために書いた資料をもとに、今回のKv.192用にほぼ全面的に書き改めたものです。
 ザルツブルグ時代のモーツァルトの活動について簡単に紹介し、その中での教会音楽を概観した後、今回取り上げているミサ・ブレヴィスKv.192について判る範囲で紹介したいともいます。

1.ザルツブルグ時代のモーツァルト
 ドイツ南部の都市ザルツブルグは、今ではモーツァルトの生まれ育った土地であるとともに、サウンド・オブ・ミュージックのロケ地としても有名になっていますが、モーツァルトが生まれた18世紀、即ち、今から250年位前は、カトリック教会の大司教が領主を兼ねる土地でした。ザルツブルグの宮廷という呼び名も出てきますが、大司教とは別に世俗の領主がいたわけではなく大司教が有する宮廷です。
 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、その土地で1756年にレオポルト・モーツァルトを父として生まれます。レオポルトも一流の音楽家で演奏、作曲の両面で活躍したことはご承知のことと思います。彼は子供の音楽教育にも熱心で、姉ナンネルとともにヴォルフガングにも早くからクラヴィアを教えます。また、ヴォルフガングは天性の素質を有していたことによるのでしょうが、5歳からクラヴィア曲の作曲をはじめます。
 父親のレオポルトは、姉弟が幼いころからヨーロッパ各地をつれてまわり、宮廷をはじめ色々なところでの演奏したり、著名な演奏家や作曲家の指導を受けさせました。その結果、名声を高めるとともに経済的にも収入をえていました。1763年にはパリでルイ15世の前で演奏したり、1764年にはロンドンで、大バッハの息子のヨハン・クリスティアン・バッハから指導を受けたりしています。また、オーストリア宮廷を訪れた際には、まだ幼かったマリー・アントワネットと会う機会があり、彼女に向かってこれも幼かったヴォルフガングが「大きくなったら君をお嫁さんにしてあげる。」といったという逸話も残っています。
 我々のレパートリーである教会音楽に対して大きな影響を与えた出会いとして、イタリア旅行の際にボローニャで師事したマルティーニ神父との出会いが有名です。神父の指導により、ルネッサンスからバロック期の対位法を習得したといわれています。
 このような活動を通じて、ヴォルフガングの名声、特に演奏家としてのそれは、ヨーロッパ各地に広まっていましたが、肝心のザルツブルグではその真価どおりには評価されていませんでした。彼は1769年11月7日に大司教の宮廷の第1ヴァイオリン奏者に任命されますが無給で、給料が支払われるようになったのは1772年8月9日になってからのことでした。
 その後、何度か旅行には出ますが1777年まではザルツブルグを本拠にして活動を続けます。しかし、後にも書きますが、当時のザルツブルグの音楽活動は、あまり音楽に理解のない大司教ヒエローニュムス・フォン・コロレードによって多くの制約を加えられていたため、モーツァルト親子はザルツブルグに見切りをつけ、ヴォルフガングは1777年にパリに新たな仕事を求めて母親とともに旅立ちます。
 この旅は、パリで職が得られなかった上に、旅の途中で母親を亡くすなど辛いことも経験した反面、ウェーバー家と知りあい、後の妻コンスタンツェの姉のアロイージアとの恋に落ちるなど、ヴォルフガングの生涯に大きな影響を与えるものとなりました。パリで職が得られなかったヴォルフガングは、一旦ザルツブルグに戻ってオルガニストとして1780年にウィーンに移るまでの数年間を過ごすことになります。


2.ザルツブルグ時代の作曲活動
 ザルツブルグ時代のモーツァルトは宮廷に雇われている音楽家という身分ですので、大聖堂の宗教的行事のための作品、大司教の宮廷のための世俗的な作品が作曲の中心になりますが、ザルツブルグ以外の宮廷等からの依頼で作曲されたものも存在します。教会音楽は後ほど少し詳しく書くとして、世俗的な作品を簡単に紹介します。大雑把に言いますと、ケッヘル作品番号で350番辺りまでがザルツブルグ時代の作品です。
 オペラはその数が少ないのですが、それでも現在もその中のアリアが演奏会で取り上げられるオペラ作品に、「ポントの王ミトリダーテ」(1770年)、「ルチオ・シルラ」(1772年)、「羊飼いの王様」(1775年、コロレード大司教の依頼)等があります。
 交響曲は、番号がついている41曲中33番まで、室内楽のディベルティメント、セレナードはほとんど全部(アイネ・クライネ・ナハト・ムジークはウィーン時代)、ヴァイオリン協奏曲はヴォルフガングの作品であることが確実な5曲すべて、弦楽四重奏曲は番号がついている23曲のうち13曲、ヴァイオリンソナタは同じく43曲中30曲、ピアノソナタが同じく17曲中9曲がザルツブルグ時代の作品です。
 声楽曲のうち、演奏会用アリアは番号がついていないので勘定が難しいのですが、58曲中25曲がザルツブルグ時代ですのでウィーン時代の方が多くなっています。やはり華やかな演奏会の機会が多かったのでしょうか。


3.ザルツブルグ時代のミサ曲
 ザルツブルグ時代のモーツァルトは、先に書いたように大司教宮廷に雇われた音楽家でしたので、教会や宮廷での演奏、それらための作曲が仕事でした。
オペラの作曲機会も数少ないながらありましたが、オーケストラつきの独唱や合唱のために作曲する機会は、教会の典礼に関するものが圧倒的に多く、したがって彼が天職の技能を磨いたのも、教会音楽の分野においてであったとの評価が一般的です。
 教会音楽は、ヴォルフガングの作品であることが確実といわれているミサ曲が16曲の他、各種のモテット、晩祷等、真贋の議論があるものも含まれますが三十数曲がリストにあがっています。モテットには、コルラトゥーラ・ソプラノを目指す方なら挑戦されることが多い“アレルヤ”を終楽章とする「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」などが含まれています。

 さて、ミサ曲ですが、ウィーン時代に書いたミサ曲ハ短調、レクイエムニ短調を含めて列挙すると次のとおりです。
作曲時期 曲名
1768 ミサ・ブレヴィス ト長調 K.49
1768 ミサ・ソレムニス ハ短調 K.139 「孤児院ミサ」
1769 ミサ・ブレヴィス ニ短調 K.65 ザルツブルグ大学教会のために
1769 ミサ ハ長調 K.66 「ドミニクス・ミサ」
1771 (ミサ・ブレヴィス ヘ長調 K.116 レオポルト・モーツァルトの作)
1772 (ミサ・ブレヴィス ハ長調(未完)K.115 レオポルト・モーツァルトの作?)
1773 ミサ ハ長調 K.167 「三位一体の祝日のミサ」
1773 ミサ ト長調 K.140 「パストラールミサ」
1774 ミサ・ブレヴィス ヘ長調 K.192 「小クレドミサ」
1774 ミサ・ブレヴィス ニ長調 K.194
1775 ミサ・ブレヴィス ハ長調 K.220 「雀のミサ」
1776 ミサ・ロンガ   ハ長調 K.262
1776 ミサ ハ長調 K.257「クレドミサ」
1776 ミサ・ブレヴィス ハ長調 K.258「シュパウルミサ」
1776 ミサ・ブレヴィス ハ長調 K.259「オルガンソロのミサ」
1777 ミサ・ブレヴィス 変ロ長調 K.275
1779 ミサ ハ長調 K.317「戴冠ミサ」
1780 ミサ・ソレムニス ハ長調 K.337
1782〜1783 ミサ ハ短調 K.427(未完)
1791 レクイエム ニ短調 K.626

 上に書いた「ブレヴィス」、「ソレムニス」等の呼称は、モーツァルト自身が書いたものとは限りませんので、必ずしも広く認められたものではない点はお含み下さい。
 また、ブレヴィス、ソレムニスという呼び方ですが、その区別は、一にその曲が演奏される礼拝が祭礼性が高いものであったかどうかにかかってきます。つまり「ブレヴィス」の方は、格別な祝典的性格のない平生の日曜日のミサで演奏することが念頭に置かれて作曲されるもので、ザルツブルグの場合は、オーケストラの編成も教会トリオの形、つまりヴァイオリン2部と低音部のみに簡略化されたものです。ただし、総譜に書かれているのはこの3部編成ですが、実際の演奏ではこのトリオ・ソナタの編成形態に、ヴィオラがバスの重複楽器として加わったり、また低音楽器そのものにもチェロが使われた可能性は否定できないようです。また、当時の慣習として、トロンボーンが、合唱のアルト、テノール、バスを重複する〈コルラ・パルテ Colla parte〉のが普通でした。このため、現代で出版されている楽譜ではトロンボーンパートが記載されています。
 さて、この「ブレヴィス――短い」という語はまた、楽曲構成の長短にも当然反映します。モーツァルトのミサ曲は断然「ブレヴィス」の方が多く、その長さも音楽だけを演奏すると15分〜20分程度です。その直接的な理由は、1772年3月にザルツブルグ大司教として着任したヒエローニュムス・フォン・コロレードが、典礼に伴う音楽があくまで短く、様式的に簡明であることを欲したことに求められます。当時の制約は、大司教の司るミサであっても、典礼は45分以下で終わらなければならないということの他に、合唱又は重唱において各パートが典礼文の異なる部分を歌うことを禁ずるというのがありました。これは聴衆が言葉を聞き取れないという問題が確かにあり、礼拝という主旨からいうともっともな要求とも言えそうです。ただ、クレドなどは歌詞の分量が多いため、重ね合わせて曲の長さを短くするというのも作曲家にとっては便利な手法だったようです。もう一つの制約として、カストラート歌手(去勢された男性で女声部を歌う)を用いてはならないという制約もありました。
 しかし、このような制約をすべてコロレード大司教の個人的な責任とするのは気の毒なようで、モーツァルトが活躍を始める少し前の18世紀中頃での教会音楽は、合唱は大規模に、オーケストレーションが派手になるとともに、名人同志の掛け合いを多用するなど、典礼に参列すると言うより、音楽会に出かけるような雰囲気になっていたと言われています。従って、教会全体に反省の動きが生じていた時期であり、たまたま、コロレードが特に厳格な合理主義者であったために、モーツァルトと鋭く対立したと言えるようです。
 もっとも、当時の一般の人にはラテン語は判らないのですから、音楽的を楽しみにするのもある意味の必然だったのでしょうが、カトリックでは20世紀半ばまで礼拝はラテン語で行うことを守り通しましたから、教会としては許せない状況だったのでしょう。
 さて、このような制約に対するモーツァルトの反応ですが、1776年9月4日付けで、イタリア旅行時代の最良の師であったボローニャのマルティーニ神父に宛てた手紙の中で、「私たちの教会音楽はイタリアのものとは大変異なっているばかりか、キリエ、グローリア、書簡ソナタ、オッフェルトリウムあるいはモテト、サンクトゥスそしてアニュス・デイを含むミサ曲が(筆者注:クレドが抜けている理由は不明)、45分以上にわたってはならないのです。この種の作曲には特別の勉強が必要です。」と書いています。
 作曲家の中には、有名なハイドンの弟のミハエル・ハイドンのように、このような制約の中では自身の音楽的能力が発揮できないとして教会音楽から身を引いた者も多かったようですが、モーツァルトは「特別の勉強」をして、自らの音楽的才能を発揮する道を選びます。
「特別の勉強」の成果としては、もともと言葉の数の少ない「キリエ」と「サンクトゥス」はとりわけ切り詰めた構成となり、言葉数の多い「グローリア」と「クレド」では、特に重要な部分以外は言葉の繰り返しは避けられています。その中で「グローリア」の”Cum Sancto Spiritu”や「クレド」の”Et vitam venturi”ではフーガを用いるという約束事も守られています。この頃の教会音楽作品は、上に述べたような制約の中で書かれたものであり、また、実用を目的として書かれたものであることから、価値が低いというような見方もありましたが、最近は、そのような制約の中でもモーツァルトの天賦の才能が発揮されていると広く認められています。

4.ミサ・ブレヴィス ヘ長調 Kv.192
 今回取り上げているミサ曲ヘ長調Kv.192は、総譜に1774年6月24日の日付があり、18歳の時の作品ということになります。作曲動機は、日付から見て聖ヨハネの祝日のために作曲され、他の一連の教会作品とともに、アウスブルグの聖十字架大聖堂のために贈与または貸与されたものと推定されています。ただし、初演についてははっきりした記録がなく、確かな記録は、1775年2月に父親のレオポルトがミュンヘンの宮廷礼拝堂で指揮したものが残っています。
 ここで少し聖ヨハネの祝日に触れたいと思います。月日は6月24日ですが、今の暦では6月22日、つまり夏至にあたります。この日を過ぎると太陽は徐々に高度を下げて行くわけですが、古代ゲルマン人はその境目の日に神秘的な意味を見出し、その前夜には豊穣を祈る火祭りを祝ったようです。これはヨハネの火祭りと呼ばれるものですが、焚き火を囲んで歌い踊り、古くは集団見合いの場でもあったようです。夏至がヨハネの日になったのは、キリスト教が砂漠の宗教から農耕地帯の宗教になっていく過程で、キリスト聖誕の日、つまりクリスマスが冬至になったの対応して、その半年後の夏至が、ヨハネの日に当てられたようです。ここで出てくるヨハネは、福音書を書いたヨハネではなく、イエスと同様、精霊によって生を受け、イエスに洗礼を与えたヨハネです。
 モーツァルトはこの時期、数週間ほどの間を経て、もう1曲、ミサ・ブレヴィス ニ長調 Kv.194を作曲していますが、音楽学者のカルル・ド・ニは「モーツァルトの宗教音楽」の中で、これら2曲のミサ・ブレヴィスに対して「これまで作曲したミサ曲に見られた傾向が一段と明確に、しかも堅固になっている。彼は自らに課せられた束縛のなかで、曲の構成の統一性をより完全にしようと努力したのである。この束縛は結果として有益であった。というのは、そのおかげで曲の密度が高まっただけでなく、表現力が極限まで深化され、強化されているからである。」と高い評価を与えています。
 また、アーベルトをはじめとする研究家も、Kv.192のミサ・ブレヴィスを、モーツァルトの初期教会音楽の最高峰に位するものと評価しています。別の評論家は、「前述の『ミサ:ブレヴィス』としての要求に応えながら、なおかつ、対位法を集約的に適用し、緊密な動機操作により見事な統一感を達成していることが、そうした高い評価につながったのであろう。」と理解しています。
 K.192は元々は独唱者、合唱、ヴァイオリン2部、通奏低音とオルガンという編成でした。これは言い換えれば、当時、日曜礼拝に通常用いられる編成でした。モーツァルトは後にホルン2本とトランペット2本、それに当時トランペットに随伴して用いられることが一般的であったティンパニーを加えました。
 器楽部分は室内楽的な軽妙さを有しており、その軽妙さは、これもこの時期のモーツァルトの教会音楽の特徴としてよくあげられることですが、舞曲や民謡の少なからぬ引用によっていると言われています。
 モーツァルトは民謡を取り入れることを早くから試みており、1771年には、当時ザルツブルグ地方でよく知られていた民謡「わたしのハンス、かわいいハンス」の旋律を「洗礼者ヨハネ祭のためのオッフェルトリウム“Inter natus mulierum”(女より生まれし者として:Kv.72)」で用いています。そしてこのミサでも民謡の旋律を用いていますが、これはこのミサ・ブレヴィスがやはり聖ヨハネの祝日のために書かれたと考えられることから、モーツァルトがこの祝日の有する庶民性によって民謡風のモティーフを用いたと見方もあります。

 ここからは少し硬い文章になりますが、先ほどあげたカルル・ド・ニの「モーツァルトの宗教音楽」から、Kv.192の各楽章毎の解説を掲げておきます。こういうことを一寸意識しながら歌うと局の構成が良く見えてくるのではないかと思います。

キリエ:完全なソナタ形式となっており、第一主題はオーケストラによって演奏され(合唱の前奏としての役割を果たす)、第二主題(クリステ・エレイソン)はソプラノのソロに任されている。

グローリア:自由なロンド形式であるが、やはり二つの主題からなっており、その二つは交互に何度も現われる。

クレド:四つの音符による動機によって、音楽的観点から見れば統一性が、典礼的観点から見れば高い効果が与えられていることに驚かされる。この同じ動機による「われは信ず」(クレド)という歌詞は、リフレインのように全曲にわたって12回繰り返される(キリストの12人の弟子を象徴しているのだろうか)。
 この動機は彼の最初の交響曲(K16)の緩徐楽章(モーツァルトにとっては死を象徴する調性のハ短調!)ですでに用いられていたもので、さらには「ジュピター交響曲」(K551)の第4楽章の主題としても使われている〔このクレドの繰り返しのために、K257の『クレドミサ』にたいして、このミサ・ブレヴィスを『小クレドミサ』呼ぶことがある〕。
 クレドの最後は同じ動機で閉じられるが、「来世の生命とを待ち望む」の、ごく短いけれども印象的なフガートの動機も同じものである。このようにモーツァルトは、すでに若い時の作品から、音楽語法の明確さと統一性とを示しているのである。このミサでは「御からだを受け」に固執せず、むしろキリストの「受難」〔「我らのために十字架につけられ」〕のほうを、非常に厳格な対位法による旋律を用いて強調している。

サンクトゥスとベネディクトゥス:通常の伝統に反して、徹頭徹尾ポリフォニーの様式で処理している。

アニュス・デイ:ニ短調で始まるこの曲も非常に表現力が豊かで、それが長調に転調して「われらに平安を与えたまえ」の、なごやかな気分になっていく様子は印象的である。
 しかしこの最後の部分でも、ナポリ風の和声的なスタイルが、純粋なポリフォニーを完全に支配しているというわけではない。

まとめ:モーツァルトはオフェルトリウム『主は賛美せられよ』(K117/66a)で、歌詞によるだけでなく、グレゴリオ聖歌の旋律を用いまでして、曲のもつ宗教的な雰囲気を表現しようとしたが、この曲を聴くと、もはや純粋に作曲技法の上でも、ことさら宗教音楽のスタイルを世俗音楽と対比させて見ることに汲々としなくなったように思われるのである。

(Bass 百々 隆)

【参考文献】
  1. モーツァルトの宗教音楽:カルル・ド・ニ著、白水社、1989年
  2. クラシック音楽作品名辞典:井上 和男編著、三省堂、1981年
  3. モーツァルト(作曲家別名曲解説ライブラリー14):音楽の友社、1994年
  4. バッハからひろがる世界:樋口 隆一著、春秋社、2006年
  5. アーノンクール指揮CD(TELDEC)解説書


モーツァルト研究
年表 作品一覧 人々 「モツレク」聴比べ ミサとレクイエムの構成 ザルツブルグ時代
ミサ曲 Kv.192
女性

フォーレ研究 モーツァルト研究 バッハ研究 ヘンデル研究 ブラームス研究
トップページ EnsembleVoceとは これまでの演奏会 練習スケジュール