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モーツァルトと女性

(アロイージアとコンスタンツェを中心に)

序:
 アンサンブル・ヴォーチェで、第3期のレパートリーとしてモーツァルトのミサ曲ハ短調(K.427)を取り上げた際に、指揮者の五味さんからの示唆もあり、モーツァルトの女性関係について纏めたものです。
 ミサ曲ハ短調と女性関係が結びついた理由はご存知の方もあるかと思いますが、モーツァルト自身がミサ曲ハ短調の作曲動機として、妻コンスタンツェとの愛が本物であることを父親に納得させるものであると宣言しており、初演の際のソプラノソロを彼女に歌わせたという経緯によるものです。
 勿論、直ぐ身の回りでも他人では解らない男女の関係ですから、200年も前のオーストリアの男女の仲の本音のところで判る訳はないのですが、解る範囲で適当な推測も加えて纏めました。モーツァルトに親近感を持って頂ければ幸いです。下手な文章ですが気軽に読んで下さい。

1.アロイージア・ウェーバー
(1)出会い
 モーツァルトは1777年、生まれ故郷ザルツブルグを離れ、新天地を求めてパリに向かうが、その途中、ワッサーブルグ、父の生まれ故郷アウグスブルグを経て次に訪れたのがマンハイムで、1777年10月26日に到着している。
 そのマンハイムで、宮廷に仕える写譜屋をしていたのがフリードリン・ウェーバーであった。(なお、このウェーバーは作曲家のウェーバーの叔父に当たる) モーツァルトはマンハイムで求職活動をしているうちに、写譜の仕事を依頼したのがきっかけでウェーバー家に出入りするようになり、家族との交流の機会も生まれてきたようである。
 ウェーバー家には1男5女の子供がおり、そのうちの次女がアロイージアである。この時モーツァルトは21歳、アロイージアは17歳であった。上の4姉妹は歌をならっており、特にアロイージアは既に宮廷で歌っていた。(他の1男1女については記述が無い)
 モーツァルトがアロイージアに恋心を抱いたのが出会いからどれ位の期間を経てからかはよく分からないが、父親レオポルトが、「マンハイムでの就職の見通しが無いなら早くパリに移動しろ」と督促してくるのに対し、人生初めてといえるような反抗的な手紙を返してまでマンハイム滞在を引き延ばすようになっているところをみると割に一目惚れ状態と言えるのかも知れない。父親宛の手紙で初めてアロイージアのことが出てくるのは、1778年1月17日付けのものであるが、その中で彼女の歌の技量についてはべた誉め状態である。「彼(フリードリン・ウェーバー)には歌の上手な娘があって、愛らしく綺麗な声をしていて、まだ16歳です(本当は17歳)。彼女は舞台上の所作事以外には何一つ欠けていません。それさえあれば、どんな劇場のプリマ・ドンナにもなれます。」と書いている。また、少し後の手紙でも「………コロラトゥラのあるアリア・カンタービレもあったように記憶するのですが?それは、ウェーバー嬢の練習に役立ちますから、第一に欲しいと思います。私は彼女にバッハのアンダンティーノ・カンタービレを教えたばかりです。」「ウェーバー嬢(アロイージア)の歌い方は心に訴え、カンタービレに向きます。…………彼女は生まれつきの持ち前としてカンタービレから離れることがありません。」と書いており、彼女の歌唱力を高く評価していたようすがわかる。(ただし、モーツァルトの時代のカンタービレがどういうものであったかは専門的な考証が必要であるが。)

(2)イタリア旅行の夢
 まもなく、モーツァルトはウェーバー家とマンハイムから50Kmほど離れたキルヒハイムボーランデンというところに旅行する。そこのオランダ公女の館で御前演奏をする機会を得、モーツァルト自身と、アロイージアが12回の演奏を行って成功をおさめた。この旅から帰った後、モーツァルトの夢はさらに膨らみ、イタリアに行って、自らが作曲したオペラをアロイージアが歌うという構想を抱くようになり、父親にイタリアに連絡を取ってくれるように頼んでいる。しかし、結局、このイタリア旅行は実現せず、アロイージアの両親は、モーツァルトの力はこの程度のものかと、彼に見切りをつけたという説もある。
 一方、父親レオポルトはというと、モーツァルトがその後数回にわたってアロイージアの歌手としての素晴らしさを知らて着た手紙を読んで心配を始めていたところに、モーツァルトに同行していた母親から「息子がアロイージアに夢中になっているが、息子の将来のためにならないと思う」という手紙を受け取るに及んで、「お前の旅の目的はそんなところで月並みな芸人になることではなかろう。早くパリに向かえ。」という趣旨の手紙を送っている。結局、父親の手紙に従った形でモーツァルトはパリに向かう。

(3)失恋
 モーツァルトはパリに着いてからも頻繁にアロイージア宛に手紙を送っている。これに対してアロイージアは返事を送っていない。
そして、モーツァルトはパリで母親を失った上に就職もできず、父親のとりなしで再就職することになったザルツブルグへ戻ることとなる。その帰路、アロイージアとの再開に胸をときめかしてウェーバー家(この時はミュンヘンに移っていた)を訪問し、アロイージアにプロポーズする。
 しかし冷たく拒否され失意の底に沈む。その直後(1778年12月29日)に書かれた手紙を紹介する。この手紙は筆跡をみても非常な動揺が見て取れると言われているが、「今日はただ泣いているばかりです。私の気持ちは余りに敏感です。………私は生まれつき字が下手です。字の稽古をしたことがないのですもの。だが、生まれてこの方、今日のように下手な時もありません。今日は何をする気もしません。胸の中は涙であまりにも一杯です。直ぐにお手紙を書いて、私を慰めて下さい。……」と書いている。
失意のうちにモーツァルトはザルツブルグに帰り、宮廷オルガニストとしての日々を送ることになる。

(4)歌手としてのアロイージア
 客観的に見てもアロイージアのコルラトゥーラ・ソプラノとしての力量は一流のものであったようで、マンハイムから、ミュンヘン、ウィーンと音楽文化の中心に次々進出して、何処でもプリマ・ドンナとして名声を博している。モーツァルトがアロイージアのために書いたコンサート用アリアが何曲か残っているが、いずれも傑作と評価されており、モーツァルトの思いと彼女の実力が揃ってこそ実現したと言えよう。音域だけで力量が評価できるものではないが、彼女のために書かれたレチタティーヴォとアリア「テッサーリアの民よ、不滅の神々よ、私は求めはしない」(Kv.316)では、最高音は3点トに達しており、モーツァルトがソプラノ用に書いた最高音といわれている。ちなみに、歌劇「魔笛」の夜の女王のアリアの最高音が3点ヘであり、当時は今より基本のピッチが低かったとは言え、力量の一環を示す事実の一つではあろう。(なお、この「夜の女王のアリア」もウェーバー家の長女のヨゼファのために書かれたものである。)

(5)何故片思いに終わったか
 ところで、何故、アロイージアに対するモーツァルトの恋が実らなかったのかというのが関心のあるところであるが、モーツァルトは、全人格として捉えた女性としてのアロイージアではなく、非凡な才能をもつソプラノ歌手に恋をしていたというのが根本的な原因では無いかという見方が強い。後世アロイージア本人が「当時どうしてもモーツァルトを愛することが出来なかった」と語ったと言われており、このような感覚も彼女自信が全人格を捉えて愛されているのではないということを感じていたためではないだろうか。もっと皮肉な見方をすれば、プリマ・ドンナとして名声を上げるためにモーツァルトを利用できる間だけ利用したという見方もあろうが、後に親の反対を押し切ってランゲとの恋に走ったところからみるとそれほど勘定高い女性であったとは思えない。但し、両親にモーツァルトを利用したいという思いがあったことは十分考えられる。

(6)その後の二人
 このようにはっきりと一方的にふられた関係で、また、後述するように、女性としてのコンスタンツェとの比較においては、ぼろ糞にこき下ろした関係ではあったが、その後もモーツァルトはアロイージアのために作曲し、彼女もそれを歌っているので、お互いに音楽家としての才能は認めあっていたと言えよう。また、モーツァルトの方は、終生、密かな思いを抱きつづけていたのかもしれない。筆者の確認した範囲で、アロイージアのために書かれたコンサート・アリアが8曲あり、ほかにも、オペラの「後宮からの逃走」や「ドン・ジョヴァンニ」で重要な役を歌わせている。数の上からは、結婚後、ランゲ婦人となってからの作品とされている方が多いのである。このような二人の関係に対して、コンスタンツェがちょっぴり嫉妬心を表したものとして一つの逸話が残っている。というのは、姉の才能に引かれて、コルラトゥーラ用のアリアばかり書いているモーツァルトに対して、コンスタンツェが結婚前に自分の為にフーガを書いてくれとねだったところ、モーツァルトは、コンスタンツェが姉よりも自分の方に関心を向けさせようとしているのだということを見抜き、フーガに手はつけるものの結局どれも完成させなかったというのである。
 なお、後にアロイージアが結婚したヨーゼフ・ランゲという男性は宮廷俳優で画家であり、有名なモーツァルトの肖像画(左向きでやや俯き加減のもの)はこのランゲが描いた未完の作品である。


2.コンスタンツェ・ウェーバー
(1)再びウェーバー家へ
 アロイージアの直ぐ下の妹であったコンスタンツェは、モーツァルトがアロイージアに焦がれてウェーバー家に出入りしていたときに何度も会っていたわけだが、当然その時点では恋愛感情というものは存在していない。小説によれば、モーツァルトがパリから再三にわたってアロイージア宛に手紙を送っても梨の礫なのに業を煮やし、コンスタンツェ宛にお姉さんの様子を教えてくれと手紙を出したのが一つのきっかけのようにも書かれている。しかし、その後モーツァルトはザルツブルグに戻ってしまうので、ウェーバー家に親しく出入りするようになるまでには数奇な運命を経る必要がある。
 1780年の秋、ミュンヘンに宮廷を持つ選帝侯カール・テオドーアからオペラ作曲の依頼があり(このときのオペラが「イドメネオ」)、モーツァルトが忌み嫌っていたコロレド大司教がミュンヘンへ行くための休暇をくれた。モーツァルトは、ウェーバー家はまだミュンヘンにいるものと思って胸ときめかして出発するが、到着してみるとアロイージアがウィーンの宮廷劇場と契約を結んでいたため、ウェーバー家は既にウィーンに移っていた。ところが、運命のいたずらか、例のコロレド大司教が、実父が危篤だと言うことでウィーンに滞在しており、長引くウィーン生活を快適にするものとして、モーツァルトを呼び寄せることを思いついたのである。ウィーンに着いたモーツァルトは大司教と同じドイツ館に快適な部屋を与えられて滞在した。しかし、大司教はモーツァルトといえども配下の芸人という認識であり、一方モーツァルトは独立した音楽家であるという意識が強く、大司教の指図どおりには動かなかったことから、大司教が腹を立て、ザルツブルグへの帰郷命令を出した。モーツァルトがこれを無視したことから二人の間は決定的に決裂する。この間の経緯も父親宛の手紙のなかで詳細に述べているが、「もはや我慢の限界であった」等々、むしろすっきりしたという感情が読みとれる。
 しかし、大司教と決裂したことから滞在場所が無くなり、転がり込んだところがウェーバー家であったことが、コンスタンツェとの結婚につながる契機となった。

(2)ウェーバー家の家庭事情
 このころウェーバー家では、一家の稼ぎ頭であったアロイージアが先に述べたランゲと結婚すると言いだし、一定の生活費を親元に入れることは約束したものの、家を離れてしまっていた。母親は下宿人をおいて家計の足しにするとともに、その中から残った娘の結婚相手を見つけようという行動に出る。そういう母親の目論見も知らずにモーツァルトはコンスタンツェを時々(むしろシバシバ?)夜の散歩に連れ出すようになる。そのことを捉えて「モーツァルトはコンスタンツェに恋している」とか、「結婚する」とか言った噂が流れる。この噂はザルツブルグの父親の元にも届き、父親は例によって心配して諌めるような手紙を送ってよこし、再び親子の間に波風が立つようになる。もっともこの噂はコンスタンツェの母親が流したのだという説もある。

(3)「結婚できる状況ではない」
 これに対し、1781年7月25日の手紙では、自分は結婚を考えられる状況にないこと、コンスタンツェに恋していることもないといったことを書いている。こういった噂がいやで下宿を変わることを考えるようになる。また、この手紙の中に「彼女に笑談をいったり、からかったりしますが、それだけのことです。私が笑談を言った全部の婦人と結婚せねばならぬとすると、すくなくとも二百人の細君を持つことにでもなります。」という有名な言葉があり、ドン・ジョバンニのカタログの歌と比較して論じる評論家もいる。
 1781年9月にはウェーバー家を出て新しい下宿に移っているが、下宿を変わってからもコンスタンツェとの付き合いは続いたようである。
 従って、後の経緯から見ると、この時期のモーツァルトの気持ちが本当のところはどこにあったのか、必ずしも彼の文面通りに受け取れないようにも思われる。

(4)恋愛宣言
 同年12月15日付けの手紙になると急に論調が変わる。「無垢な娘をだますことはできない、自分は何時も家庭生活を追っており、妻以外に望ましいものはない、妻がいれば経済的にももっと合理的に生活できる、未婚の男性は人生の半分しか楽しんでいない。」等々の結婚観を述べてから彼女との関係を長々と説明している。決定的な手紙なので長くなるが引用する。
 「現在愛しているのはウェーバー家の3女のコンスタンツェで、彼女は、善良で、いわば家庭の殉教者で、一番心根がやさしく、一番聡明で、要するに一番良い娘です。」と褒めちぎっている。コンスタンツェを持ち上げるために、他の娘はぼろ糞で、かつてあれほど熱をあげていたアロイージアのことも、「うそつきで、節操がなく、男たらしです。」とまでこき下ろしている。それに引き続いて「さらにコンスタンツェのことを知らせたい」として、「彼女は不器量ではありませんがさりとて美人とは言えません。彼女は輝いた両方の黒い瞳と、可愛らしい姿が何よりも美しいのです。(筆者独善:肖像画を見ると確かに目はパッチリ形で、当事の肖像画で見る貴婦人の雰囲気とは確かに異なり、どちらかというと男っぽい。) 頓知に富んでいませんが、十分に健全な常識をもっているから、妻として、母としての義務を尽くすことができます。彼女に無駄遣いの癖があるというのは全くのうそです。・・・・・家政をこころえて、世界中で一番善良な心をもっています。私は彼女を全心から愛していますが、彼女も私をその通りに愛しています。私にこれ以上の妻があるなら知らせて下さい。なお、付け加えて申しますが、私が職を捨てた時(コロレド大司教と決定的に決裂した時)には、まだこの恋愛をしていませんでした。(ウェーバー家で生活しているうちに)彼女のやさしい配慮と注意に接して初めておきたものです。・・・・そして今後こらからも、私がこの気の毒な娘を救おうとすることに対して、あなたの同意を得たいと希望します。そうすればわれわれ全部が全く幸福になれるし、コンスタンツェも私自身も幸福になれると思うのです。私が幸福になれば、父上様、あなたも幸福だと思います。」
 ただし、本人はこういっているが、この段階でコンスタンツェがモーツァルトを愛していたか、結婚を考えていたかは至って疑問である。

(5)母親の画策・結婚の誓約
 一方、母親の方は、一家の主フリーデマンが死んでから子供達の後見人となっていた男性と一緒になって、何とかコンスタンツェにモーツァルトとの結婚を承諾させようといろいろ画策する。コンスタンツェを説得するとともに、モーツァルトに対しては書面で結婚を約束するまで二人が交際することを禁じるという条件を持ち出した。モーツァルトはこの書面に署名する。しかし、これを見せられたコンスタンツェは「ねえ、モーツァルト、あなたから契約の書類なんかもらう必要ないわ。あなたの約束を信じてよ。」と言いながら書類を破ってしまう(12月22日付けの手紙)。この契約書を破るのも、モーツァルトのコンスタンツェに対する思いを更に深めるために母親が娘に入れ知恵をしたのだという見方もある。要するに、モーツァルトの手紙しか残っていないためにコンスタンツェがどう考えていたのかは謎の部分が多いのである。どこか醒めていたという見方もあるし、一方、結婚する前にコンスタンツェはモーツァルトの薦めで、家を出てある男爵夫人のもとに身を寄せるという行動もとっており、こういう点からは心底恋焦がれていないまでもモーツァルトに信頼を寄せ、結婚を決意していたとも取れる。また、この間、「コンスタンツェが父親や姉に何か贈り物をしたいといっているがどのようなものが良いだろうか」ということもモーツァルトの手紙に書かれている。これはコンスタンツェ自身が父親や姉の同意も得たいという気持ちもあったのかモーツァルトが懐柔策として仕組んだのかわからない。

(6)結婚と独立
 この男爵夫人の下に身を寄せたという行動が母親と後見人を一層強行にさせる結果となり、警察官を派遣して娘を取り返そうという挙に出かける。この動きを知ったモーツァルトはとにかく早急に結婚するしかないと判断し、1782年8月4日、聖シュテファン寺院でごく内輪の結婚式を挙げる。この時、モーツァルト27歳、コンスタンツェ19歳であった。
 当初は、知人からの「母親と後見人がとんでもない悪人だ」という情報を信じて強行に反対して「ウェーバー婦人と後見人とを鎖でつないで、その首に“青年を誘惑した罪人”と書いた札をぶら下げておけ」とまで憤っていた父親も、とうとう息子の願いを聞き入れ、結婚式をあげる直前には結婚に同意する。このことは、これまで、息子が良い地位について家計を助けてくれることを期待していたこととの決別でもあるし、逆に親として息子を援助することもなくなるであろうという意思表明でもある。現代流に言えば、遅まきながらの親離れ、子離れということであろう。
 以上のように結婚に至るまでに数々の苦労をしているモーツァルトであるが、作品の方はと見ると、ちょうどこの時期が彼の4大歌劇の一つに数えられている「後宮からの逃走」に全力を傾注している時期である。

(7)結婚後の二人
 結婚後の二人がどういう生活を送ったかであるが、モーツァルトは彼の流儀で精一杯大事にしたようで、アロイージアに対する恋心は彼女の音楽的才能のみに向けられていたのに対し、コンスタンツェについては、家庭人としての女性、肉体的な面での異性、そして、姉のアロイージアには及ばないまでも人並み以上の音楽的才能と、いわば全人格を愛していたと言えよう。旅先からも、健康を気遣ったり、一寸色っぽい表現が含まれた手紙等を数多く送っている。気遣いの手紙と色っぽい手紙を一例ずつご紹介する。
 まずは、妻のことを気遣う手紙として、1789年4月16日付でドレスデンから発信されたものである。
「最愛の妻へ
どうしたかって? まだドレスデンにいたかって? そうとも、僕の愛人。全部のことをできるだけ仔細に知らせますよ。……(このあと、文字通り仔細に音楽活動について何時誰に会ったとか、何を演奏したとかが書かれている)……歌劇がすんでから、家に帰りました。どんな時よりも一番楽しい時間が来ました。あなたからの手紙がきていたのです。長い間、待ち焦がれていた手紙。……私は飛び上がって手紙を抱えたまま部屋に行き、封を切る前に何遍も何遍もそれに接吻してから、それから読むというよりもむしろ、貪るように読みました。何遍読んでも読みきれないし、何遍接吻しても接吻しきれないので、長い間部屋に引っ込んでいました。私がみんなのところにもどるとノイマンはあなたからの手紙が来たのだろうといいました。そして私が毎日のように、あなたからの手紙がこないといってこぼしていたのを承知しているので、おめでとうと言ってくれました。ノイマン家の人たちは本当にいい人たちです。愛する妻であるあなたに、いろいろ注文をせねばなりません。
第1、 憂鬱にしないで下さい。
第2、 体に気をつけて下さい。そして春の外気にあたらないようにして下さい。
第3、 一人で出かけるようなことをしないで下さい。---本当を言えば、全く外出しない方がよいのです。
第4、 私の愛情を全く信じて下さい。手紙を書きながらも、あなたの懐かしい肖像を思い浮かべずには、一行も書いていません。
第5、 行動の上であなたの名誉と私の名誉に気をつけるばかりでなく、様子の上でも同様に気をつけて下さい。
第6、 最後に、もっと細かいことを手紙に書いて下さい。……ランゲ家の人たちが訪ねてくるかどうか。肖像画が進行しているかどうか。あなたの生活状態はどんな具合か---こんなことをみんな知りたいのです。
 では、さようなら、最愛の者よ。毎晩、床に入る前に、たっぷり半時間は、あなたの肖像とお話するし、目を覚ました時も同じです。私達は明後日、18日に出発します。ベルリンの局止めで手紙を書いて下さい。あなたへ、1,095,060,437,082遍の接吻と抱擁を送ります。(これはあなたが勘定の稽古をするのに、もってこいの機会となります。)そして常に最も信ずべき良き良人であり、友人である W. A. モーツァルト
 次に色っぽいというか成人向けの内容を含むものを。1789年5月25日付の手紙を紹介する。「……6月1日にはプラハに泊まって、そう、4日には、僕の最愛の女房のところということになる。君の甘くで素敵なところをきれいにしておいてくれよ。僕の小倅は、そこにぴったりだからね。奴さん、とってもお行儀が良かったんだよ。君の甘美この上ない****しかお気に召さないんだから。こいつのことを想像してくれないか。僕がこうして書いている間にも、テーブルの上にヌッと顔を出して、本当かねと僕をみている。そこで僕は、こいつの鼻っ先きをパチンとはじいてやったよ。だけどこいつめ、無邪気な****なんだな。火みたいにカッカして、とても抑えきれないんだ。」この時、モーツァルトは33歳、まだまだ男盛りということでしょうか。ちなみにこの手紙は、コンスタンツェが再婚した相手で、モーツァルトの手紙を整理してそれに基づいて伝記を書いたゲオルク・ニーコラウス・ニッセン(あるいはコンスタンツェ本人)が消しておいたものを、近年の写真技術において復元されたという曰く付きのもの。有名人になりそうな方は手紙の書き方まで十分注意しておかないと、後世、何が世間の目にさらされるかわかりませんぞ。

(8)ミサ曲ハ短調
 さて、この結婚にいたる劇的な経緯のなかで、今回取り上げているハ短調ミサ曲が作曲されて行くことになる。この作曲動機については違った見方があり、一つは、コンスタンツェとの恋愛・結婚に至る精神的な高まりあるいは1782年頃、彼女が病気の時に回復を祈り、合わせて、回復の後には結婚するのだという内面的な動機が大きい、というものであり、もう一方の見方は、このころモーツァルトはバッハやヘンデルなどのバロック音楽に造詣の深かったシュヴィーテン男爵の下にしばしば通っており、そこでバッハやヘンデルの音楽に触れて、自分もこれら先人にならってバロック風の音楽を書いてみたいという欲求が高まったのが大きな動機だ、というものである。筆者の私見になるが、ハ短調ミサ曲には明らかに両方の要素が含まれているのではないだろうか。大雑把に言ってしまえば、ソロの部分は明らかにオペラアリアを髣髴とさせるようなところが多く、コンスタンツェが歌うことを念頭において書いたように思われるし、重唱や合唱の部分は明らかにバッハやヘンデルを意識して書いているように思われる。
 ところで、このミサ曲についてモーツァルトの手紙に見られる有名な下りを紹介する。結婚後の1783年1月4日付けの手紙に現れる一節だが、「良心の問題については、全く正しいことなのです。 僕が手紙でお書きしたのは考えもなしにしたことではありません。---ぼくはそのことを心の中で実際に誓約したのですし、また実際に果たしたいと願っています。---僕がその誓いを立てた時、妻は病でした。でも彼女が癒ったらすぐにでも結婚しようとかたく心にきめていたので、そのことを容易に誓うことができたのでした。あなたご自身ご承知のように、時と事情が僕たちの旅行をだめにしてしまいました。---でもぼくが実際に誓約したことの証拠になるのはミサの半分ほどの総譜ですが、これは完成をまっているところです。」(結婚以来できるだけ早く故郷ザルツブルグを夫妻で訪れて、コンスタンツェを父親と姉に紹介しようとするが、彼女が妊娠したことや仕事の関係でなかなか実現できず、結局1783年7月になってしまう。その時、ザルツブルグ滞在の最後になって未完成のままハ短調ミサ曲の初演が行われる。)

(9)貧乏暮らしとコンスタンツェ
 長男がこのザルツブルグ旅行の直前に生まれるが、旅行の為に乳母に預けておいた間に腸閉塞の為に死んでしまう。その後も5人、計6人の子供が生まれるが成人したのは2人だけである。なお、この2人も結婚しなかったため、モーツァルトの直系の血は絶えている。
 経済面ではモーツァルトは常に窮乏状態で、借金に終われる生活を送ることになる。一連の手紙をみても、結婚後、即ち、宮廷から離れ、ウィーンで自由な音楽家として活動するようになってからのものには特に金銭関係の記述が多くなる。貧乏暮らしは最後まで変わらず、モーツァルトの葬儀もごく質素なもので、遺体は貧民用の共同墓地に葬られたため、後世ではその埋葬場所もわからなくなっている。
 このような状況の中での夫婦生活であったが、コンスタンツェは長い間、「浪費家で、家計の切り盛りができない悪妻」という定評が流れていた。これにはいろいろの噂が影響したようであるが、例えば、モーツァルトの死後に姉の書いた文書の中に、「(弟は)音楽にかかわっている時以外は全くの子供で、この子供っぽさは生涯、影の部分として弟の性格に付きまといました。弟には常に父親や母親、あるいは自分を指導してくれる人が必要だったのです。お金の計算はできなかったし、父の意に反して自分にふさわしくない女性とも結婚しています。死ぬころに家庭があんなひどい状態になっていたのはそのせいです。」と書いており、こういうことも影響しているかもしれない。姉にこういう見方をされていたということが、ただ一度のザルツブルグ帰郷があまりよい結果を生まなかったこととも関係しているようである。(古今東西を問わず小姑は難しい?)
 しかし、最近になってコンスタンツェの評価は大いに高まり、思慮深く、経済観念も発達していて、夫の作品を守ったことは多くの資料が証明しているといわれるようになり、ある評論家は「二人の子供にとっては良き母親、妻としては、数限りない夫の愚行や不摂生を阻止するよう努めた」という高い評価を与えている。

(10)ワイドショー的興味
 結婚後、モーツァルトは浮気をしたか否か。
 さすがに筆まめのモーツァルトの手紙のなかにも、このことはストレートにふれられたものはない。もっとも、今残っている手紙は前にも述べたように、コンスタンツェの再婚相手が整理(当然コンスタンツェも関与?)したので、彼にコンスタンツェの焼き餅に対する言い訳が書かれた手紙があったとしても証拠隠滅されていると考えるべきであろう。「確たる証拠はないが、彼は精力絶倫というタイプではなかったが、数多くの女性と接触する機会はあり、適当に楽しんでいたであろう。妻に対しては非常に寛大な態度をとっているが、寛大さを代償として浮気も認めさせていたのではないか。」と推測している評論家もいる。


3.モーツァルトを巡るその他の女性
(1)パン屋の娘
 私が読んだ範囲でザルツブルグ時代の女性で具体的に書かれているのがこの女性である。
 1777年に、新天地を求めてのパリへの旅立ちの前に交際があったようである。
 ヴォルフガングと一緒に旅行していた母親を追いかけて父親レオポルトから手紙が届く。その手紙によれば、「ヴォルフガングに伝えて欲しい。例の宮廷のパン屋の丸い眼をした娘、シュテルンでよく彼と踊っていた子のことだが、彼に愛想がいいと思っていたら、そのうちロレートの修道院に入ってしまった。それがまた父親の家に戻ってきたのだよ。ヴォルフガングがザルツブルグを離れると聞いて、多分もう一度会って引き止めようと思ったのだろう。豪勢な支度を整えて(一度は)修道院に入った以上、ヴォルフガングはその金を、彼女の父親に弁償する気があるのかということなのだ。」と書かれている。これに対してヴォルフガングは、「例の宮廷のパン屋の娘のことですが、どのようなことが起ころうと僕は異議は申しません。ずっと前からそうなるだろうと思っていました。なぜ僕が出発をためらい、別れに胸を痛めていたかは、このためだったんです。でもこの話は、ザルツブルグ中に知れわたってはいないでしょうね。お父さん、心からのお願いですが、この話が出来る限り広がらないようにして下さい。そして後生ですから、彼女が修道院に入った時の豪華な支度のために父親が負担した費用を、僕に代わって支払って上げて頂きたいのです。僕がザルツブルグに帰り次第(自分の小さな修道院でのガスナー神父のように)、全く自然に、魔法も使わずに、この可哀そうな女の子を、最初は怒らせ、あとはなだめて、死ぬまで修道院に入っているようにしますから」と書いており、最後は彼自身のオペラ「ドン・ジョヴァンニ」にも通じるようなことも言っているのが面白いところである。

(2) 従姉妹マリア・アンナ・テクラ(愛称ベーズレ)
a.出会い

 モーツァルト親子がザルツブルグでの生活に限界を感じて新しい職を求めて旅に出た年、ザルツブルグを出てまずワッサーブルグ、ミュンヘンを経て、アウグスブルグに逗留した(1777年10月、ヴォルフガング21歳)。この町は父親レオポルトの出生地で、親戚も何人かおり、その内の一人が、レオポルトの弟フランツ・アロイス・モーツァルトの娘で2歳年下のマリア・アンナ・クララである。

b.ベーズレ書簡
 モーツァルトが〈ベーズレ〉と呼んだこの女性は、さっぱりした気性の持ち主で従兄弟が羽目を外した手紙を送ってきても一向に動じることなく、手紙のやりとりが続いた。その結果、多くの手紙が残されている。この一連の手紙は「ベーズレ書簡」と呼ばれ古くからモーツァルト研究家の間では注目されていたが、モーツァルト書簡集に入れられるようになったのは比較的最近である。その理由は「オナラ」「ウンコ」「お尻」といったいわゆる尾籠な言葉が頻出し、「楽聖」モーツァルトの尊厳を傷つけるということであった。しかし、このような言葉遊びは当時のドイツではかなり広く行き渡っていたようである。また、語呂合わせも多く見られるが、これはドイツ語で読まないと面白くないので掲載は省略する。

c.恋人か気の置けない友人か
 さて、肝心の二人の関係がどういうものであったかよく分かっていないが、「結婚を考えるほどの真剣な恋は生まれなかったのでは無いか、むしろ、ヴォルフガングもベーズレも本当の恋愛に踏み込む寸前のところで、互いに身をかわすスリルを楽しんでいたのではないか。二人は性格のある一点があまりにも似ているので、どちらかが本気になればすべてが壊れてしまうことをお互いに感じていたのではないか。」という評論家もいる。
 また、この2人の関係は暫く続いたようで、その様子は残されたモーツァルトの手紙で確認できる。モーツァルトが一連の就職活動に失敗して一旦ザルツブルグへ戻った時期にベーズレもザルツブルグに移り住んでいる。

(2) アウエルンハンマー
 この女性は、モーツァルトの方が熱を上げられて困ったという例。
ウィーン時代にピアノを教えていた女性の一人であるが、モーツァルトは毎日2時間彼女に教えていたが、彼女はそれでも不満で一日中そばに座っていて欲しいと駄々をこねる。何とか彼女からのがれようとして、モーツァルトは、冗談を言う時を除いて慇懃無礼によそよそしく振る舞うことにする。「…・・そうしたら彼女は僕の手を取って、『モーツァルトさん、お気を悪くなさらないで、何でも仰って下さいな。私は本当にあなたが好きなんです。』と言うのです。町では、僕たちは結婚すると言われています。しかも僕がどうして、あんなお面相の人を選んだか不思議だ、などともいわれているのです。」(1781年8月22日付け手紙)とぼやいている。しかも、彼女の容貌に関しては、「もし、絵描きが悪魔の肖像を画なら、彼女をモデルにすればよい。」とまで言っている。
 しかし、彼女が生徒で収入源であったばかりではなく、ピアノの才能も高く評価していたようで、彼女のために「2台のクラヴィーアのためのソナタ ニ長調(Kv.448)」を書き、彼女と連弾で大成功を納めている。

(3)ナンシー・ストレー
 ウェーバー姉妹以外でモーツァルトが最も心を傾けたのがナンシー・ストレート(1765年生まれ)といわれている。彼女はイタリア研鑽を積んだ後、1783年から87年までウィーン宮廷歌劇場のプリマ・ドンナであった。彼女のことをモーツァルト自身が「イタリア・オペラに望まれる天性と教養とテクニックのすべてを備えていた。」と語っている。それに加え、美女でもあった。
 モーツアルトは1785年秋から「フィガロの結婚」の作曲に手を着けるが、スザンナの役を彼女に割り当てている。それに加えて、彼女のために「シェーナとロンド『どうしてあながた忘れられようか/忘れないで、愛する人よ』(Kv.505)」を書いており、これは音楽で書いた恋文だといっている評論家もいる。特に、自筆の作品目録に「ストレート嬢と私のために作曲」と書いているところが意味深長だと言われている。


4.蛇足
 モーツァルトについては色々な女性との関係が伝えられているが、関係資料が豊富で調べていて面白いのはウェーバー姉であるのは当然として、文中に述べたベースレもモーツァルトの音楽そのもののように軽妙でウィットに富んだところがあるようでさらに調べてみると面白そうである。今回はあまり触れなかったが、モーツァルトの手紙の中には姉のアンネルに当てたものもそこそこの数があり、どうもモーツァルトの女性の見方の中には姉が陰に陽につきまとっているのではなかろうか。この辺のところは心理学的な面から研究してみるのも面白いのではないかと思う。

(Bass 百々 隆)

【参考文献】
  1. モーツァルトの妻:加藤宗哉著、PHP文庫1998年
    (小説であり読みやすい。当然脚色もあるが、ウェーバー一家との関係に関してイメージを沸かせるのに有益)
  2. モーツァルト:「知の発見」双書04、ミシェル・パリティ著、海老沢敏訳、創元社1991年
    (カラーを含めて数多くの挿絵が入っており、当時の雰囲気を知るのに手ごろな参考書。)
  3. わが友モーツァルト:井上太郎著、講談社現代親書、昭和61年
    (音楽面よりも、人間的な側面を中心に書かれた解説書)
  4. モーツァルトの生涯(書簡集):服部龍太郎訳編、角川文庫、昭和26年
  5. モーツァルトの宗教音楽:カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳、文庫クセジュ1989年
  6. クラシック音楽作品名辞典:井上和男編著、(株)三省堂、1981年
  7. その他、LP、CDの解説書、楽譜の前書き等


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