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レクイエムとは何か・その成立


《筆者注:レクイエム(死者のためのミサ)はその名の通り、死者のためにささげるミサで、「ミサ」の中のある特別な形といえます。

 初期のキリスト教では、信者が亡くなったときにも、死によって失われることのないキリストとの永遠の交わりを感謝して「ミサ」の祭りをささげました。
 このように、初期のキリスト教においては、葬儀のための「ミサ」でさえも祝祭的なものでした。けれどもやがて中世も末期に近づいてくると(9世紀頃)、政情不安や飢饉、疫病など暗い世相の影響を受け、死生観も次第に陰鬱なものとなって来ました。特に「人は死後、煉獄に落とされて厳しい責め苦を受け、罪の償いをせねばならぬ」という「煉獄説」が広く信じられるようになったこと、また本来、共同体の祭りであった「ミサ」の性格が個人の功徳として主観的に考えられるようになったことから、「死者のためのミサ」という形態が生まれてきたのです。すなわち、煉獄でさいなまれている死者のためにミサを上げてやれば、その功徳によって責め苦が軽減されていく、と考えられたことからこういうミサがしきりに行われるようになったわけです。

 このようにして始められた「死者のためのミサ」ですが、広く行われるようになるにつれ、一般のミサとは異なった独特の形式が次第に定着していきました。そしてこの典礼形式は、冒頭の「入祭唱」をはじめ、旧約聖書続編のエズラ記(ラテン語)2:34 〜 35 から取られた「永遠の安息を与え・・・( Requiem aeternam donna eis... )」という句が、典礼文中に何度も繰り返されることから、この典礼形式は「レクイエム」という通称で知られるようになりました。
 けれども、もともとグレゴリウスの時代には無かった形式ですから、16 世紀までは公式に定められた典礼文が無く、地域的に異なった形式も行われていたようです。1570 年になって「ローマ典礼」が制定されましたが、そのいきさつは次の通りです。
 煉獄説に悪のりしたローマ教会が免罪符を売り出すなどしたことから1517 年、ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルター ( 1483〜1546 ) は95 箇条の質問状を発表し、宗教改革が始まりました。
 ローマ教会側でも、中世時代に乱れきった教会の綱紀や典礼を引き締めることにより批判に答えるため、1545 年トリエントに公会議を召集し、いわゆる、「対抗宗教改革」に着手したのです。
 この会議では、中世に生まれた不純な典礼形式の多くが廃止されました。けれども「死者のためのミサ」は、煉獄説を否定するプロテスタントに対抗するため逆に整備され、公式な典礼文が制定されることになりました。
 音楽面で見ますと、16 世紀後半のラッスス(日本ではラッソとも発音する)の5声のための「レクイエム」等からこの典礼文に従って作曲されています。

《筆者注:当然我々が取り上げているモーツァルトのレクイエムも典礼文に従っています。
前回取り上げたフォーレのレクイエムは典礼文に従っていますが、通常作曲される部分が作曲されていなかったり、逆に通常は作曲されない部分が作曲されていたりしています。》

 以上は典礼の面から見た「死者のためのミサ」の歴史ですが、「レクイエム」という語は、広く一般に「死者を追悼する音楽」の通称として非典礼的にも用いられました。(ちなみに、我が国で「レクイエム」のことを俗に「鎮魂曲」とか、「鎮魂ミサ」とか呼ぶのは教理的に見て誤りです。なぜなら、レクイエムは死者に対する罪を軽くしてくれるように神に祈るものであって、死者の魂を鎮めるものではないからです。)
《筆者注:この注書きは仏教や神道での死者を祭るのと、全知全能の唯一神を信じるキリスト教と本質的な差を指摘しているように思います。


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