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バッハの時代(その1)


 今回と次回はバッハの時代と言う視点で書いてみたいと思います。
 今回はバッハの生きた時代の背景、バッハの生きたドイツの社会情勢、バッハの同時代の音楽家についてまとめてみました。次回はこの時代、周辺の国ではどういう社会状況で、音楽を中心とした文化面ではどういう人達が活躍していたのかということを書いてみるつもりです。

1. バッハは何人?
 バッハはどこの国の人か。当然ドイツ人だろうということになろう。確かに生活範囲は現在のドイツ、しかもその大部分は旧東ドイツを出ていないことは確かである。しかし、バッハが生きていた当時、どういう名前の国でどういう統治機構であったかということになると話は別になる。
 世界史の教科書に従えば、バッハが生きていた地域は「神聖ローマ帝国」に属していた。「神聖ローマ帝国」といっても5世紀頃までドイツの地域を支配していたローマ帝国の流れを汲むというものではない。ドイツ語での名前を“Heiliges römisches Reich deutscher Nation”と言い、「ドイツ国民の神聖なるローマの帝国」と言う意味だそうである。ローマ帝国の支配は早々と終わったがその核をなすキリスト教はドイツの地域にも定着し、ゲルマン民族の心の支えになった。「神聖なる」とは「キリスト教を信仰する」と読み替えた方が判りやすいとの解説がある。
 当時の「神聖ローマ帝国」の‘一応’の版図は、現在のドイツの他、オランダ、ベルギー、フランス東部、スイス、イタリア北部、オーストリア、チェコなどのかなりの地域が含まれていた。神聖ローマ帝国を代表し統治するものがローマ王またはローマ皇帝と呼ばれていたが、これは世襲ではなく、選挙で選ばれてローマ教皇から帝冠を授与されて初めて皇帝と呼ばれた。選挙は当然今の民主政治のものではなく、7名の選定侯によって行われた。この7名とは、聖職者3名すなわちマインツ、ケルン、トリーアの大司教、世俗の君主4名すなわちボヘミア王、ブランデンブルグ公、ザクセン公、プァルツ宮中伯である。そのうちマインツ大司教が筆頭格とされていた。
 このようにして選ばれる皇帝であったが、その中で多くの皇帝を輩出した血統がハプスブルグ家である。
 さて、バッハが暮らした地域はほとんどがザクセン公の影響下にある地域であった。

2.30年戦争
 バッハが生まれる少し前の1618年からこの地域では、第2次大戦を除けばドイツで最も破壊的な戦争と言われている30年戦争と呼ばれる長い戦争が戦われた。
 この戦争の発端は、ボヘミアでカトリック信者であった王の使者2人が、ルター派の大学に行って改宗を強要したところ、2人とも窓から投げ落とされて殺されたと言う宗教上の争いで、その後両派に属する領主が相争い、さらに周辺のイギリス、オランダ、デンマーク、スウェーデン、フランスと言った諸国が関与して、宗教戦争から政治戦争にその様相を変えていったといわれている。また、この間に2度のペストの大流行があり、ドイツの人口は約2千万人から3割くらい減ったと言われている。
 1648年にウェストファーリャ条約が締結されて漸くこの戦争に終止符が打たれた。しかし、「神聖ローマ帝国」はますます形骸化し、事実上独立した300以上の「州」があり、それぞれが自身の支配者、軍隊、通貨、そして音楽施設を擁していた。これらの州のうち63州は聖職者により、51州が自由都市、その他が小さな王族により統治されていると言う状態になった。これらの州はそれぞれ独立した楽団をもつのが当然と考えられており、俸給は低く召使的立場ではあったが多くの音楽に志すものが演奏する機会を得た。(専門の音楽家ではなく、音楽以外にも召使として種々の仕事に従事したようである。)
 バッハが生まれた頃には戦争の痛手からかなり立ち直っているところではあったが、精神面においてはまだまだその影響が残っていたようである。

3.宗教的背景
 次にバッハが生まれた頃の宗教的な状況を概観する。

(1) ルターの宗教改革と音楽
 100年程遡るが、1517年にマルチン・ルター(1486〜1546)が95ヶ条の質問状を発したことから宗教改革が始まった。
 その内容を書く知識も無いが、辻壮一氏の書物に最も先鋭的なこととして掲げられていることを紹介する。
 「カトリック教会では、教会の中核をなすのは教皇を首長とする聖職者や修道士であって、信徒はこれらの人々の教えることをありがたくうけたまわっていればよく、自分勝手に聖書を読むのは危険であるとするが、ルター派は、アダムの堕罪以来、人間はみな罪を負っているが、神の子のイエスがみずからを犠牲とし、その罪を負って下さったのだから、生まれながらに罪人たる人間が罪を許され神の国に入ることが出来るためには、イエス・キリストの教えをしるした聖書を各自が熟読し、そのみ言葉を心に宿し、キリストはわれと共にあり、われはキリストと共にあるとの信仰を持つべきであると教える。つまりキリストのみ言葉の信仰が唯一の罪からの開放であるとする。」
 この根本教説からいろいろの改革が導き出されたが、直接音楽に関係する点としては、教会に集まる信徒が積極的に礼拝に参加できるように、信徒が歌う歌が生まれたことである。当時カトリック教会では原則として信徒は歌うことはなく、聖歌隊の歌に耳を傾けていたのだが、これは本来あるべき礼拝の形でないとしてこの改革がなされた。しかもカトリック教会では公式礼拝は所定のラテン語の式文、すなわち典礼文が厳重に規定されていて、付加、変更は厳しく禁じられていた。
 それでルターはまず直接聖書と関係のない多数の典礼文を削除し、時と場合によってはいくらかの変更もさしつかえないとした。それでもルターの制定したラテン語典礼文はその骨子はカトリックのそれとかわっていないとのことである。
 さらにルターはドイツ語の典礼文を作った。これは信徒が積極的に礼拝に参加することができるようにとの目的からである。そのドイツ語典礼文はラテン語の直訳ではない。これに付随してドイツ語の賛美歌をつくり、信徒に与えた。これらの賛美歌のなかには、民謡の歌詞をつくりかえて賛美歌にしたものも、民謡の旋律を用いたものもあり、みな民衆にしたしまれるようにとの配慮から作られたものと言われている。一寸脱線するが、わが国でも鎌倉新興仏教が起こってから現れた和讃の中には当時の民謡に仏の教えを乗せたものもあり、宗教的な教えを判りやすく、親しみやすく民衆に溶け込ませると言う点では洋の東西同じような工夫がされていた点面白いものである。
 本題に戻って、ルター自身並々ならぬ音楽愛好家であり、自ら簡単な合唱曲を作る能力を有しており、音楽は神からの賜り物であるとの立場をとっていた。こういう考え方はルターほどではないにしても当時のドイツの教養人に共通したものであった。
 ルターはだれでも聖書が読めるように、各所の教会に学校を付設させた。そこへ通ってくる児童、生徒に音楽教育をほどこして、これに成人の才能ある人を加えて、教会の聖歌隊とした。これを指導する任にあたる職員をカントル(Kantor)と言い、合唱団をカントライ(Kantorei)と読んだが、やがてバッハ自身幼少の頃にはKantoreiの一員として暮らしをたて、後半生はライプツィッヒでKantorとして過ごすわけで、ルターが創設した教会の音楽システムに深く係わることになるのである。

(2) バッハの頃の宗教的状況
 ルターの宗教改革からバッハが活躍を始める18世紀の初めまでには2世紀ほどの隔たりがあるわけで、カトリック教会自身の変革、同じ宗教改革派でもカルヴァン派の台頭等色々な動きがあった。ルターは自らの考え方を折に触れて語ったり、手紙に記したりはしていたが、体系的な理論書は残していなかった。これに対し、カトリックの改革、カルヴァン派はいずれも精緻な神学体系を打ち立てており、ルターの教えを受け継ぐ人たちもルターの考え方を論理立ててこれらの競争相手に対峙する必要が生じたのである。こうして生まれてきたのがルター正統派と呼ばれる勢力である。ただ、このようになってくると教会での説教が神学の講義のようになりまた民衆からの遊離が起こることになる。
 ヨーロッパでは中世以来何度か魔女狩りの旋風が吹きすさぶことがあるが、1580年頃から1620年頃まで史上3回目の魔女狩り旋風が吹き、数千人の人が殺されたと言われている。
 こういう雰囲気の中で上で言ったような神学的な説教をしていても民衆は着いてこない。民衆が求めていたのはそれぞれの人が抱いている不安、死へのおそれなどに対して心の平安が得られることであり、ひたすら神の恵みにすがり、その御胸に抱かれることであった。そのような中で神との合一という考え方が生まれてきた。この流れを敬虔派と言う。
 さらに先に述べた30年戦争の荒廃が加わり、人心はまったく荒廃しただひたすらに神に召されることを望む風潮が支配的となり、多くの宗教詩人が死を望み、キリストに抱かれることを待つ賛美歌を作った。17世紀前半はドイツの賛美歌の黄金時代となるが、これは信者それぞれが歌うものであり、教会や宮廷の楽団にとってはその存在価値をさげることになり大きく衰退することになった。
 1648年ウェストファリャ条約により30年戦争が終結し、あちこちの教会で「すべてを神に感謝せよ」という聖歌が歌われ鐘の音と共に全国に響いた。これはバッハが生まれる40年程前のことであるが、バッハが生まれた頃でもドイツ人の心には深い傷跡が残り、宗教面でも正統派と敬虔派の対立が続いていたのである。なお、バッハ自身は正統派に属していた。

4.音楽の同時代人
 少し話題を変えてバッハと同時代に活躍した音楽家について書いてみる。
 バッハの音楽的背景には先に述べたようなルター派の音楽があるが、バッハの100年先輩でルター派の教会音楽を数多く残したハインリッヒ・シュッツ(1585〜1672)がいるが、意外にもバッハが直接シュッツの音楽に接したということは確認されていない。
 若い頃に影響を受けたのはオルガン音楽の面で、ラインケン、ブクステフーデの名前が挙げられる。
 バッハの同時代人のうち、2人がバッハと同い年である。即ち、ヘンデルとスカルラッティである。他に同時代人としては、ヴィヴァルディ、ラモー、テレマン、ペルゴレージ等が挙げられる。

(1) ヘンデル
 ジョージ・フレーデリック・ヘンデル(1685〜1759)。
 ヘンデルはイタリアへ修行に行ったり、晩年はイギリスで過ごしたりで、バッハとかなり違った人生を送っている。ヘンデルはハレの生まれでバッハの生地とも近く、生涯で2度出会うチャンスが有ったが結局すれ違いで終わっている。ただ、この2回とも会おうとしたのはバッハの方でヘンデルの方はあまり関心がなかったようでもある。
 従って2人の音楽の間でどういう影響を与え合っているかということについては定説はない。
 ヘンデルも多くの宗教音楽を書いているがバッハほど礼拝に密着したものではない。“ハレルヤコーラス”で有名な「メサイヤ」や表彰式で活躍する“勇士は帰りぬ”を含む「マカベウスのユダ」などのオラトリオを書いているが、バッハの受難曲のように福音書に忠実に従うのではない。また、旧約聖書を題材としているものも多い。
 バッハとまったく違うのは多くのオペラも書いたことであり、オペラが今はあまり上演されることがないが、我々に馴染みが深い曲が1曲だけある。それは音楽の教科書に登場する“オンブラ・マイ・フ”である。これは元々「セルセ」というオペラの中の1曲である。

(2) スカルラッティ−
 ドメニコ・スカルタッティ(1685〜1757)。
 スカルラッティーも同じ年の1685年に生まれている。生まれたのはナポリで、父親はオペラで名を残したアレッサンドロ・スカルラッティー。音楽家を職業とする家系に生まれたと言う点ではバッハと共通している。
 ローマで活躍し、亡命中のポーランドの王妃のもとで宮廷音楽家として活躍後、1713年にはヴァチカンのジューリア礼拝堂の楽長となり、教会音楽家としての仕事をすることとなる。
 ところが1719年、ヴァチカンの職を辞してしばらく消息不明となり、1723年にポルトガルの王室に雇われる。王室の礼拝用の音楽を書くことも仕事の重要な部分であったが、王族の音楽教育にあたる事も重要な任務で、その王族の一人にマリア・バーバラがいた。彼女は後に政略結婚でスペイン王室に嫁ぐが、時のスペイン王室のイザベラ女王が嫁ぐに当たってポルトガルからのお付きは一人に限定した。その一人に選ばれたのがスカルラッティーで、結局彼は王女のそばで、敵地に嫁いだ寂しさを癒す役割をになう事になる。そういう目的で書かれた作品が500曲にものぼるというチェンバロソナタで、今でもピアニストの重要なレパートリーの一つになっている。

(3) ヴィヴァルディー
 アントニオ・ヴィヴァルディー。1678年にヴァネツィアで生まれ、1741年にヴィーンで客死した。
 生存当時からヴァイオリンの演奏家として高い評価を得ており、活躍の舞台はイタリア全土からアムステルダム、プラハ、ウィーン等広範囲にわたり、その各地で王侯貴族のパトロンを得ている。この点ではバッハよりも華やかな人生を送っている。
 作品は良くご承知のように器楽曲、しかもヴァイオリンを中心とする独奏協奏曲が多く、器楽曲の総数は900曲を超えている。
 宗教面ではヴィヴァルディーはカトリックの聖職者でもあり、「赤毛の司祭」と呼ばれていた。このため、声楽作品はカトリックの礼拝音楽が中心になっている。カンタータは60曲を作曲しているが、その全てがイタリア語の世俗カンタータである点は、教会カンタータが大半を占めるバッハとは対照的なものとなっている。
 さて、バッハとの関係となると、バッハはヴィヴァルディーの作品を編曲したりしているのでその存在と、音楽の価値を知っていたのは間違いないが、ヴィヴァルディーの方は、バッハの存在は知らなかったであろうと言うのが定説である。当時はイタリアが音楽の最先進地域とみなされていたので、こういう関係も当然なのかもしれない。

(4) テレマン
 ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681〜1767)。
 バッハと生きた時代も活動した地域もほぼ重なっており、二人の間にはかなりの行き来があった。また、当時ではバッハよりも断然知名度が高かった作曲家である。非常な多作家だったようで、作曲した数は数千曲に及ぶと言う説もあるが、現存しているのは器楽曲を中心にごく一部である。
 バッハが就任する20年程前にライプツィッヒのカントールをつとめ、教会音楽は勿論、当時生まれたばかりのオペラも作曲した。また、「コレギウム・ムジクム」という演奏団体を創設し、演奏は教会か王侯貴族の内輪の演奏会のように特定の聴衆を対象にしていた当時としては画期的な公開演奏会の端緒を開いたのである。なお、バッハ自身もライプツィッヒに就職してから、この「コレギウム・ムジクム」の指揮者をつとめており、ライプツィッヒ時代の中期は、教会音楽よりも「コレギウム・ムジクム」のための世俗曲の方を数多く作曲している。
 さて、二人の関係であるが、次男のカール・フィリップ・エマヌエルの名付け親(代父という)になっている。エマヌエルはこの縁あってか、父親よりもテレマンに教えを請い、テレマン最後の職の、ハンブルグのヨハネ学校のカントールを引き継いでいる。
 なお、バッハの音楽にテレマンがどういう影響を与えたかはあまり論じられていないが、4歳年上の先輩として憧れの眼差しで接していたのではないかと言う説もある。

(5) ラモー
 ジャン・フィリップ・ラモー(1683〜1764)。フランスの大作曲家。
 ルイ14世の時代にリュリ(1632〜1687)等を中心にして確立したヴァルサイユ宮殿を中心とするフランスのバロックを音楽を発展させた。
 前半生はフランス各地の教会でオルガニストをつとめ、この間に「クラヴサン曲集」を発表するとともに「和声論」、「音楽技法の新しい体系」等の理論書も書いている。後半は劇のための音楽、さらにはオペラを作曲するようになった。
 バッハとの間には直接の関係はなく、同時代に離れた場所で活躍していたと言う関係である。フランスはドイツに比べれば先進地域と思われていたのが、バッハはリューネブルグでまだミハエル学校の給費生だった頃に、近くのツェレの町でフランス音楽に触れている。この時触れたフランス音楽がやはりルイ14世のヴァルサイユ文化であり、そういう点から言えばバッハとラモーは兄弟弟子ということになろうか。バッハは色々なところでフランス音楽の要素を取り入れている。

(6) ペルゴレージ
 ジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710〜1736)。
 非常に夭逝しているので、死んだ年はバッハより早いが、生年は遅く、いわば1世代後の作曲家である。音楽史の上ではバロックではなく前古典派と分類されている。「奥様になった女中」を代表作としてオペラ・ブッファ(わりに滑稽味を含んだ題材のオペラ。モーツァルトの「フィガロの結婚」はその代表作)の確立に決定的な役割を果たしたと言われている。
 そのように時代的には自分よりも後の様式を持った作曲家であるが、日本でも有名な「スターバト・マーテル」が何事にも貪欲と言うか前向きに取り入れて行くバッハの目に止まり、元来ラテン語の歌詞を詩篇第51篇に基づくドイツ語の自由な翻案に差し替え、「2つの歌声部のためのモテット」(BWV1083“消し去りたまえ、いと高き者よ、わが罪を”)に編曲している。これは1700年頃から北イタリアを中心に育ちつつあった新しい音響感覚を取り入れた証左といわれている。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「J.S.バッハ」 辻 壮一、1982年、岩波新書
  2. 「新世界史図説」(年表) 1992年、帝国書院
  3. 「誰も言わなかった『大演奏家バッハ』鑑賞法」 金澤正剛、2000年 講談社
  4. 「カンタータ研究」 樋口隆一、1987年 音楽の友社
  5. 「ハプスブルグ家」 江村 洋、1990年 講談社現代新書

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
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時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
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ヨハネ受難曲の物語      

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