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ローマ史の中のイエス受難



前書き
 イエスの受難の物語が起こった頃のエルサレムはローマの統治下にあったことはご承知のことと思いますが、聖書に書かれていること、ヨハネ受難曲の歌詞が史実そのものではないとしても、それなりの歴史の反映であり、当時の歴史と照らし合わせてみるのも参考になるかと思います。
 実は、こういうことを書いてみようと思いついたのは、ヨハネ受難曲の練習を始めるに当たって行枝貴子さんが書かれたキリストに関する資料のなかで、塩野七生さんの「ローマ人の物語」に触れられており、あの大著を大変多忙な彼女が読まれたというので、「面白かったですか?」と聞いたところ、「すごく、面白かった。」という御返事で、読んでみたところ、イエスの受難の物語にも繋がっていくことが多々あるので、一度纏めてみようと思いついたものです。
 そこそこ書いたところで、ほぼ一年前に配布してもらった、行枝貴子さんの力作「私の中の聖書」を読み返してみたところ、既に触れられていることが多いことを再認識しましたが、筆の勢いでそのまま書かせていただきました。

1. イエスの時代のローマ帝国
 イエスが生まれたのは正確には紀元前4年というのが定説だそうですが、この時代のローマ帝国がどういう状態だったかと言いますと、皇帝は初代のアウグストゥス(前63〜後14)の終わりごろです。この皇帝は、自分の誕生月の8月を31日の大の月に変え、自分の名前を付けたとしてもお馴染みの皇帝です。皇帝としての業績は高く評価されており、後にパクス・ロマーナと呼ばれる安定した繁栄時代を築いたといわれています。
 ローマ帝国の帝政の基礎を築いたのは、かのユリウス・カエサル(前100〜前44)ですが、ローマ皇帝というのは後のヨーロッパの皇帝や、中国の皇帝とはその成り立ちがことなります。ヨーロッパや中国では、王が神から位を授けられていると主張するのとは違い、元老院に承認されて始めてその地位が認められると言う存在で、当時の言葉では、軍の最高指揮官を意味するインペラトールと、市民の第一人者を意味するプリンチェスという名称を有する統治者でした。このため、比較的安定していた2世紀前半くらいまでは、養子を含めれば世襲制でしたが、2世紀後半辺りから混乱期に入り、血縁も何も無い人が実力だけで自ら皇帝を名乗って既成事実を作り、元老院には追認させると言う事例が多くなってきます。
 この時代のローマ帝国がどれだけの広がりを持っていたかということですが、支配力が及ぶ範囲は、ローマ本国、属州、同盟国と区分できます。その全てを含めて見ると、今で言うイタリアは勿論、イベリア半島(スペイン、ポルトガル)、フランス全土、ライン川以南のドイツ、ベルギー、オランダ南部、ルクセンブルグ、スイス南部、バルカン諸国、ギリシャ、トルコ、アルメニア、シリア、レバノン、イスラエル、エジプト北部、アフリカ北部(リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ)等に及んでいます。
 その中で、イエスが生まれ、活動したユダヤ、今のイスラエルは、紀元前は同盟国でした。この頃は、ヘロデ王が強権を振るっていましたが、その分、統治が行き渡っており、ローマ皇帝も彼に任せると言うか、利用することによりユダヤの地を統治しました。しかし、紀元前4年にヘロデ王が死んでからユダヤの地は、ローマとの関係を巡って国内で対立が生じ、ヘロデ王の後継者にはこの対立を収集する能力が無いと判断したローマ皇帝は紀元6年に属州にしました。
 属州にも3種類あります。統治の難しさで分かれていたようですが、一つは、元老院属州、もう一つは皇帝属州、最後が特殊な事情で皇帝の個人所有となったエジプトです。
 元老院属州と言うのは、ローマの属州になって歴史が長くローマの統治が行き届いていて安定し、治安維持のために軍団を常駐させる必要もない、即ち、文官だけでも統治できる州です。皇帝属州と言うのは、反対に軍隊を常駐させて治安維持に当たる必要がある州です。皇帝は軍の最高指揮官でしたので、そのような州は皇帝の直轄地とする必要がありました。エジプトが特殊な地位になったのはクレオパトラ(前69〜前30)が関係します。初代皇帝アウグストゥスの地位が安定したのは、アウグストゥスが、クレオパトラとエジプトを統治したアントニウス(前83?〜前30)を紀元前30年に「アクティウムの海戦」でやぶり、その翌年クレオパトラ自身を自殺に追い込こんだ結果でした。エジプトの統治者は神でなくてはならず、元老院が任命した総督では収まらないとみて、神になったカエサルの息子として、アウグストゥス自らが統治者となったのだそうです。
 ユダヤは皇帝属州となりましたが、皇帝の直轄ではなく、北側に位置する属州シリアの総督が統治するという間接的な属州でした。

2.ローマ文化の特徴
 著者の塩野さんが、大作の中で繰り返し述べておられるのは、ローマ文化は現実的で、ケース・バイ・ケースで柔軟に対応すると言うことです。その流れにあるのでしょうが、属州や同盟国では、その国固有の統治組織、宗教を尊重し、自治に任せました。塩野さんは、現代に置き換えれば、海外の企業を買収しても経営は現地人に任せるのに似ていると表現されています。
 今ひとつの大きな特徴であり、イエスの受難の問題と密接に関連するのは宗教の問題です。ローマ文化はギリシャ文化と同様多神教である点が、ユダヤと真っ向から対立する点です。
 多くの神の中で頂点に立つのは、ギリシャではゼウス、ローマではユピテルです。そして日本とも似たところがあるのですが、ローマでは、死後、神として祀られる人も多く、ローマにも皇帝とその后を祭った神殿がありますが、その他にも色々な人が神となり、30万にも及んだそうです。また、専門の神官がおらず、皇帝が最高神祇官の役割もはたしていました。

3.国勢調査(チェンスス)
 聖書によれば、イエスは、臨月のマリアが夫のヨゼフと共に国勢調査のためにエルサレムに上る途中、マリアが産気づき、厩で生まれたことになっています。
 では、当時のローマで国勢調査が行われていたのかと言うのが一つの疑問になります。答えは Yes であり、No です。なぜ、こんな変なことを書くかと言いますと、ローマの政治制度では、市民権を有する(逆に言うと奴隷ではない)男子は兵役の義務を負っていましたので、戸籍簿を作ることは重要だったのです。このため、時々、国勢調査が行われていました。そういう点からは答えが Yes になります。しかし、現代の日本のように頻繁かつ定期的に行われるのではなく、初回が紀元前28年、2回目が紀元前8年、3回目が紀元後22年で、イエスが生まれたといわれる紀元前4年或いは紀元元年には実施されていません。
 ということで、聖書と史実とは合わないということになりますが、むしろ、このような制度があったからこそ、聖書にあのような物語が書き込まれたというべきでしょう。
 ついでに国勢調査の結果を書いておきます。
    紀元前28年: 406万3千人
紀元前 8年: 423万3千人
紀元後14年: 493万7千人

4.ユダヤ問題
 ローマ帝国の同盟国、属州の中でもユダヤは特殊だったようで、「ローマ人の物語」でも紀元前50年位200年間位の既述の中で、ユダヤ人問題に焦点を当てた章が何度か出てきます。
 何が特殊かというと、筆者が理解した範囲では、国民性と宗教です。
 国民性というのは、ユダヤ人はユダヤの地に留まるのではなく、各地に進出して行く性向があり、かつその地で土着の住民と溶け合うのではなく、ユダヤ人だけで一つのコミュニティーを形成し、自分達の文化を守ったことです。当然、このことは周囲の住民との間で摩擦を引き起こす可能性を秘めていました。
 もう一点の宗教は、前述したようにローマ文化が多神教であったのに対し、ユダヤ人はユダヤ教であれ、そこから派生した後のキリスト教であれ、1神教であったことです。ローマ人の方は、エホヴァの神が増えたところで、何十万の神が1人増えるだけですから受入に抵抗はありません。ローマ皇帝は、ユダヤ人がエホヴァの神を信仰するのは自由で、それを周辺のユダヤ人以外に強制しなければ問題にしないと言う統治方針でした。ローマがエホヴァの神を受け入れた話は、丁度、古代の日本で仏教が伝わった時の話に似ています。即ち、元々日本で信仰されていた八百万の神が一つ増える程度の気軽さだったとか。
 ところが、ユダヤ人の方は、エホヴァの神以外には信仰できませんから、ローマの神や宗教的な行事に参加することが許されません。また、ローマ皇帝は最高神祇官も兼ねていましたから、皇帝に税金を払うこともユダヤの神に奉げ物をすることにもなり、属州民に課されていた税金も払わなかったそうです。このことが、後々3世紀頃にローマ帝国が周辺の民族の侵攻で脅かされている時に、ユダヤ人というかキリスト教徒が軍務にも着かなければ、税金も払わないと言うことから摩擦が生じ、キリスト教徒の迫害にも繋がったと書かれています。この辺り、キリスト教文化の人が書いた歴史書と、ローマ人の立場に立って書かれたものとで好対照です。
 ついでに書くと、ユダヤ教の根本思想をなしているとも言えるモーゼの十戒では、偶像崇拝を禁じていることは御承知と思いますが、貨幣に神とされる人物像を刻むことも禁じられていました。このため、属州となった後もユダヤではローマの通貨が用いられませんでした。というのは、ローマの貨幣は皇帝等の顔が刻まれるのが通常だったからです。
 さらにこのことから派生して、法律と言うものに対しても基本的な考え方が異なりました。ローマ人は、法律は、人間が作ったもので、現実的に変更を加えていけば良いと言うのに対し、ユダヤ人は、法律は神から授かったもので、人間が変えるなどと言うことはとんでもないという考え方でした。

5.「お前達の律法によって裁くが良い」「私達に人を殺す権限は無い」
 ヨハネ受難曲は第2部に入ると、コラールに続いて《ピラトの尋問》の場面に入り、第16c曲のピラトのレチタティーヴォで「お前達の律法によって裁くが良い」という言葉が出てきます。原則的に統治を、その土地の法律に委ね、その中でも文化の違いを十分認識して、例外的に宗教者が裁判まで係わってくることを認めていた当時のローマの統治の考え方から言って、不思議な発言ではありません。それでも、ローマ側は、死刑だけはローマの長官の承認が必要としていたため、ユダヤの律法では死刑に該当すると考えた司祭達が、ローマの統治責任者の承認を得るために総督邸にきて、群集(合唱)から「私達に人を殺す権限は無い」という言葉が発せられることになります(第16b曲)。

6.「私の国はここにはない」
 この言葉も第16e曲のレチタティーヴォで、ピラトとイエスが渡り合う中で出てくる言葉ですが、元々ユダヤの民は神に選ばれた存在で、当時のようにローマに統治されると言うのは仮の姿で、やがて自分達が主となる国の到来が約束されていると信じていましたので、こういう言葉も出てきます。ユダヤ教の一派であるイエスの主張は、エホヴァの神がその怒りを礎として統治する国ではなく、神の愛が全てを包み込む世界を主張していたわけですから、二重の意味で今の世界は自分の世界ではないという言葉になったのでしょう。

7.「私は彼に何の罪も見出さない」
 第18a曲の福音史家のレチタティーヴォに出てくる言葉です。似た言葉が第21e曲のピラトのレチタティーヴォにも出てきます。
 ユダヤ人たちや祭司達は、イエスが神の子だと言ったことが罪だと訴えたわけですが、当時のローマには何万と言う神がいて、その神も実在の人物が死後神に祀られたわけですから、神(になった人)の子供が居ても不思議ではありません。
 実際に子供でなく、世間を騒がせたということではローマの法律でも罪に問われることはあったようですが、死刑と言うような厳しい刑には当たらず、「ローマ人の物語」によれば精々居住地からの追放くらいだったであろうとされています。

8.「勝手に連れて行って十字架に架ければ良い」(ピラト)
 この言葉は、ローマ派遣のユダヤ長官が、ユダヤの祭司達が行った裁判の結論を追認したことになり、ピラトは、手を洗うという象徴的なジェスチャーで、自分には係わりの無いことだとの態度を示しますが、一応、手順は踏まれたことになります。
 もし、ここでピラトが、飽くまでローマの法律に従って死刑に該当しないとして祭司達の結論を認めず、世間を騒がせた罪くらいで追放刑位を与えていたら、キリスト教がこのように広まったか大いに疑問とされています。
 もし、イエスが、己が身を犠牲にしてまでましてまで、イザヤ書の預言の実現を意図していたとすると、ピラトが責任放棄してくれたお陰で達成できたことになります。しかし、中世になってキリスト教の広がりがローマ帝国に引導を渡したわけですから、このピラトの責任放棄の罪は大きなものだったと「ローマ人の歴史」にも書かれています。もっとも、ピラトにしてみれば、1人の大工の倅の命と、目の前に迫って今にも暴発しそうになっているユダヤ人の暴動を抑えることとどちらを取るかを迫られた苦渋の決断だったのかも知れません。

9.ピラトの位置づけ
 この点も既に行枝さんがかなり書かれていますが、再掲させていただくのと若干付け加えて書いてみます。
 第2項で書きましたように、ユダヤは紀元後6年に皇帝属州になりましたが、皇帝直属ではなく、隣接するシリアの総督の統治の下に置かれるB級の属州でした。この間接統治としたのは、ユダヤを軽視したためではなく、機会が来ればユダヤ人の統治に戻すための配慮との見方も示されています。ただ、直属の属州であれば貴族から選ばれる長官も、ユダヤの場合は、B級属州であったことから、第2階級と言える騎士階級から選ばれました。
 ピラトは、紀元後27年頃にユダヤの長官に任命されたようで、イエスの処刑後数年たった、紀元36年にユダヤ長官の職を解かれ、職務不履行として裁かれるためにローマに送還されます。この解職の理由は、この時のローマ皇帝ティベリウスが、ユダヤ、特にエルサレム地区の社会的な混乱を抑えられなかったことを見逃さなかったということだったようです。イエスを巡る一連の騒乱も、統治力不足と判断された一因との見方もされています。

10.千人隊長
 ヨハネ受難曲第6曲でイエスが捕らえられる場面で、福音史家が語るレチタティーヴォの中に、「この大勢の兵士と千人隊長、ユダヤ人の従者たちはイエスを捕らえると縛り上げ…」という言葉が出てきます。この「千人隊長」という言葉も、当時のローマの軍隊の編成を正確に反映した言葉のようです。
 ローマ帝国の軍隊には2種類あり、一つはローマ市民権を持つ兵士で構成される正規の軍団(レジオス)と、ローマ市民権を持たない属州の兵士で構成される補助軍(アウジリアリス)です。当時エルサレムに駐留していたのは属州からなる補助軍でした。軍の編成も正規軍団と補助軍で異なります。イエスの時代から少し後の時代の軍団編成表がやはり「ローマ人の物語」で紹介されていますが、正規軍の1軍団は約6千人で構成され、それが10の大隊に分かれ、1大隊は6個の百人隊に分かれていました。百人隊といっても第1大隊の百人隊は160人、その他の大隊の百人隊は80人でした。一方、補助軍団の方は4,500〜6,000人で構成され、騎兵隊、歩兵隊、騎兵・歩兵混成部隊がそれぞれ1,500人程度の人員で構成されていました。
 従って、ヨハネ受難曲に出てくる「千人隊長」はこのいずれかの部隊の隊長であったとすれば、話は合ってきます。

11.まとめ
 筆者が読み取れる範囲で、ローマの歴史とヨハネ受難曲で描かれているイエスの受難を照らし合わせてみました。もっと深く読み込めばまだまだ背景理解の助けになることが見つかるかもしれません。皆さんも一度挑戦してみませんか。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「ローマ人の物語」 塩野 七生著 文庫版14〜19、34、2005年、新潮文庫
  2. 「キリスト教の歴史」 小田垣 雅也著、1995年、講談社学術文庫

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