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バッハの時代(その2)--


 今回はバッハとは直接関係ないことを書いてみます。
 バッハが活躍した時代、ロ短調ミサが誕生した時代は、バッハの暮らしたドイツを初め、周辺諸国、そして日本ではどんな時代だったのか、文化面ではどんな人達が活躍していたのか、横並びで比較してみるのも面白いのではないかと思います。対象が広範囲になるため、素人には手に余ることになるかもわかりませんが、書ける範囲だけ取り上げてみたいと思います。

1. ドイツの政治・社会情勢
 バッハの生きた時代、先に述べたように神聖ローマ帝国は形骸化し、各地の領主が独立国のように支配していた。国全体としては、周辺諸国とは違って絶対君主制を経験していないようにも見えるが、各々の領主はその支配する領地において絶対君主制のような統治形態をとっていたと言われている。
 そのような分割された地域の中で北部(ベルリン、ポツダム等を含む地域)を支配していたプロイセンが次第に力を着け、ブランデンブルグ伯の支配地域を合わせてその影響範囲を広げ、1701年にはプロイセン王国となる。なかでもフリードリッヒ大王と呼ばれるようになるフリードリッヒ2世は1740年(バッハ55歳)に即位し、オーストリアからシュレージエン地方(ポーランド国境に近いオーデル川流域)を奪うなどして領土を広げていく。このフリードリッヒ2世は自らフルートを演奏するなど音楽にも感心が高く、バッハも息子のカール・フィリップ・エマヌエルが王のお抱えのチェンバリストとして雇われていた関係もあって、1747年には王から招待を受けている。この時に王から提示されたテーマを発展させたのが「音楽の捧げ物」である。

 この頃、オーストリアでフリードリッヒ大王と対決していたのが女帝マリア・テレージア(在位1740〜1780)である。彼女は後のフランス王妃マリー・アントワネットの母親としても馴染み深い。彼女の父親カール6世は、長子相続法を定め周辺の国にも認めさせて世を去ったが、カールが死ぬと周辺の国は異を唱え始め、マリア・テレージアを後継者と認める代わりに領土の一部を頂戴すると言うような挙に出たのである。その先頭を切ったのがプロイセンのフリードリッヒということになる。結局この領土侵犯がオーストリア継承戦争と呼ばれる大きな戦争(1740〜1748)に繋がっていく。
 なお、音楽の面ではハイドンやモーツァルトがマリア・テレージアとは係わりがあり、ハイドンには「テレジアミサ」というミサ曲がある。モーツァルトに関しては幼少の頃に父親に連れられて御前演奏をしたという記録があり、その際、これもまだ小さかったマリー・アントワネットを捕まえて「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる。」といったという逸話が残っている。

2.欧州の政治状況
 ドイツを除いて、大まかに言えば絶対王朝から啓蒙思想が頭をもたげ、民主制の萌芽が見られるようになる時期と言える。国では、神聖ローマ帝国とスペインの勢力が大きく後退し、イギリスとオランダが力を持ってくる時代にあたる。

(1) イギリス
 イギリス絶対王朝の代表的人物と言えばエリザベス1世が思い浮かぶが、その治世は1558年から1603年で、バッハから見れば生まれる80年程前で、我々団塊の世代と明治維新との関係くらいである。
 バッハが生まれる1世代前に既に清教徒革命(1642〜1649)が起こり、時の国王は処刑され共和制となる。クロムウェル独裁を経て、1660年には王政復古となり、チャールズ2世が即位。チャールズ2世は次に述べるフランスのルイ14世と従兄弟の関係にあり、ルイ14世のような絶対君主制の復活を理想としたと言われているが、議会との関係でそうも行かず、議会との妥協のもとでその地位にあり、丁度バッハが生まれた1685年に世を去った。
 後を継いだのがジェームズ2世で、専制色をより強く出したため議会や国教会の反発が強まり、1688年(バッハ3歳)から、反ジェームズ派がジェームズ2世の娘婿オランダ総督オラニエ公ウイレムを打ち立てて、後に名誉革命と呼ばれる動きに出る。
 1689年に英国議会は権利章典をまとめ、これを認めさせた上で、ウイレムと婦人(先王の娘)の共同統治という形での即位を認める。ここに王位よりも議会が優位にたつ立憲君主制が確立する。
 要するにイギリスでは17世紀の100年ほどの間、君主制と共和制の間を揺れ動いて、バッハが生まれる頃には、現在も続き、わが国の手本ともなっている立憲君主制が確立したと言うことである。
なお、この時代のイギリスの出来事として特筆すべきことは、1707年にイングランドとスコットランドが合併し、グレート・ブリテンが成立したことである。

(2) フランス
 フランスでの絶対王朝と言えばルイ14世(太陽王)、15世とヴェルサイユ文化が思い浮かぶが、ルイ14世の治世が1643年から1715年でバッハの年齢で言えば生まれてから30歳まで、ルイ15世の治世が1715年から1774年、バッハの年齢では30歳から死ぬまでということになる。
 ルイ14世の統治時代の前半は宰相がすべての権力を握っていたが、1661年にルイ14世の親政が始まる。親政開始とともに絶対権力確立に努め国内においては成功する。その一つの象徴が宮廷のルーブルからヴェルサイユへの移転である。工事は1668年に始まり、一応の完成をみたのは1682年頃で、この年、ルイ14世がルーブルから引っ越している。なお鏡の回廊が完成したのが1684年でほとんどバッハと同い年である。
 ルイ14世と続くルイ15世の治世時代は、ヴェルサイユ宮殿が文化の中心であり、音楽の面でもリュリ等の音楽家が輩出し、バッハも間接的ながらそのような音楽に接して処々に取り入れている。そういう点からはフランスの政治情勢とバッハの音楽も無縁ではない。
 ルイ14世は国外に対しても積極的と言えば聞こえは良いが、領土欲を露骨に表し、結局全ヨーロッパを敵に回して戦うような形になり、スペイン継承戦争(1701〜1713《バッハ16歳〜28歳》)で敗北して、墓穴を掘る形となる。

(3) スペイン
 スペインの絶対王朝の最盛期は16世紀後半で、1588年にスペインの無敵艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊に破れてから凋落が始まり、1640年にはポルトガルが独立するなどの動きもある。

(4) ロシア
 ロシアではロマノフ王朝の時代ということになるが、年表を見ると、ステンカラージンの反乱が1670〜71年でバッハが生まれる15年程前のこと、1682年にピョートル1世の治世(1682〜1725)が始まっており、1703年(バッハ18歳)にペテルブルグの街の建設が始まった。
 かの有名なエカテリーナ2世は1762年〜96年まで在位しており、バッハの時代よりは少し後になる。

(5) アメリカ
 アメリカでは勿論絶対王朝と言う時代はないが、バッハの時代は大西洋沿岸にイギリスの植民地が、五大湖からミシシッピー川沿いにフランスの植民地が設けられた時代で、イギリスとフランスが植民地を巡って争いを続けるとともに対する不満が高まり独立への機運が醸成されつつある時期でもあった。
 なお、イギリスがニュー・アムステルダムを占領し、ニューヨークと改名したのはバッハが生まれる20年程前の1664年である。

3.周辺諸国の文化
(1) 哲学・思想
 概括的には啓蒙思想が芽生えてきた時代であるが、具体的に生存年代がバッハと重なっている人として次のような名前が挙がる。
 ドイツでは、カントが(1724〜1804)活躍を始めた頃にはバッハは死んでいた年である。ゲーテ(1749〜1832)は生年でぎりぎり重なっている。シラー(1759〜1804)は完全に離れている。いずれにしてもこれらの人達はバッハ時代から見れば新しい時代の人であろう。
 フランスでは、「法の精神」で有名なモンテスキューが1689年生まれ、1755年没なのでバッハとほぼ同世代と言える。また、「社会契約論」等のルソーが1712年生まれ、1810年没なので、バッハの子供の世代ではあるが、活動期間はわずかに重なっている。なお、ルソーも音楽にも造詣が深いといわれており、「結んでひらいて」の旋律はルソーの作曲と言われているが真偽の程は? 
 さらにヴォルテールも1694年生まれ、1778年没で、バッハと同世代と言える。彼はフランスの旧制度に批判的な立場をとってイギリスの逃れたり、フリードリッヒ2世に招かれてプロイセン宮廷に仕えたが、ルイ15世の死後フランスに戻っている。
 イギリスでは、激動の時代、ジョン・ロック(1632〜1704)が活躍している。

(2) 自然科学
 バッハの活躍したライプツィッヒ生まれの数学者にライプニッツがいる。1646年生まれ、1716年没なのでバッハの1世代上であり、大学を卒業してライプツィッヒを離れているので、バッハとライプツィッヒに居た期間は重複していない。
 イギリスでは、万有引力の法則で名を残すニュートンが1642年生まれ、1727年没なので、1世代上ではあるが、活動期間は重複している。ニュートンが万有引力の法則を思いついたのは1665年と言われておりバッハより一寸古いだけである。自然科学の聖書とも言われる「プリンキピア・自然哲学の数学的原理」にまとめたのは1687年である。なお、1703年にはロイヤル・ソサイティの総裁に就任し、死ぬまでの間約20年間この地位にあった。
 他には避雷針を発明しまた米国大統領にもなったフランクリンが1706年生まれでかなり重なっている。

(3) 文学・美術
 フランスでは古典文学の最盛期といわれており、いずれもバッハよりは2世代位上ではあるが、生存期間は重なっている。
 悲劇のラシーヌ(1639〜1699)、寓話のラ・フォンテーヌ(1621〜1695)、『クレーヴの奥方』を残したラ・ファイエット婦人(1634〜1693)、『眠りの森の美女』の作者シャルル・ベロー(1628〜1703)等が挙げられる。
 ところで、フォーレが作曲した混声合唱曲に「ラシーヌ讃頌」があり、ヴォーチェでも最初の演奏会で取り上げたが、この日本語題名はラシーヌを讃えるような誤解を与えかねない。これはラシーヌが書いた「神を讃える歌」である。
 イギリスでは「ガリヴァー旅行記」のスウィフトが1667年生まれ、1745年没でバッハとかなり近い世代である。
 美術の方では、ブーシェが1703年生まれ、1770年没でバッハとかなり近い。代表作としてルイ15世の愛人ポンパドゥール婦人の肖像画が挙げられる。そういう点ではヴェルサイユ宮殿そのものがこの時代の美術品の代表作とも言えようか。

4.さて日本では
 バッハが生きた時代は日本ではどういう状態だったのだろうか。どういう状態でも地球の反対側で交流のない時代だからバッハの音楽には関係ないのだが、頭の体操に考えてみるのも面白いと思う。

(1) 政治・社会情勢
 日本では当然江戸時時代である。
 将軍でいうと5代将軍綱吉(治世1680〜1709)、6代家宣(治世1709〜1712)、7代家継(治世1712〜1716)、8代吉宗(治世1716〜1745)、9代家重(治世1745〜1760)と5人の将軍に渡る時代である。
 政治的な話題としては、綱吉の時代は、1687年(バッハ2歳)に悪名高き「生類憐れみの令」が出ている。その後、6代将軍の時に新井白石が登場したり、8代将軍吉宗が享保の改革で幕政建て直しに頑張ったりしたが、大きな流れとしては武家社会から貨幣経済に向かっていく大きな流れには逆らえなかったと言う時代だろう。
 社会を賑わせた事件として、忠臣蔵の元ネタとなった赤穂事件(江戸城松の廊下の刃傷と赤穂浪士の吉良邸討ち入り)が1701年と1702年に起こっている。バッハの年齢で言えば16歳〜17歳である。
 この時期は自然現象でも大きな事件があり、1703年に関東地方に巨大地震「元禄地震」(推定マグニチュード8.0〜8.2《阪神淡路大地震の10倍近いエネルギー》)が発生し、大津波も伴って甚大な被害が発生。さらに1707年10月には関東から四国にかけての太平洋岸で巨大地震(推定マグニチュード8.7)と大津波が発生、その余波もおさまらない11月に富士山が620年ぶりに大爆発し、東南側地域に甚大な被害をもたらした。その噴火口は今でも宝永山という名でその名残を留めている。バッハの年齢で言えば、18〜22歳の頃である。

(2) 文化
 文化面では元禄文化の時代である。
 日本史の教科書で必ず出てくるのは、文学の井原西鶴(1642〜1693)、俳諧の松尾芭蕉(1644〜1694)、戯曲の近松門左衛門(1653〜1724)が代表的な人である。芭蕉が奥の細道を辿ったは元禄2年(1689)年なのでバッハ4歳の時ということになる。西鶴の代表作を見てみると、「好色一大男」が1682年、「好色一大女」が1686年に刊行されているので、バッハの生まれた頃ということになる。
 美術の方では、菱川師宣(?〜1695)が出て、それまでの挿絵から1枚刷りの版画が広まり、浮世絵の形が固まってきた時期である。

 音楽面では、どのような状況だったのかを簡単に書いてみたい。
 まず、この時期にバッハの音楽が日本に入った可能性があるかといえばまずないと断言して間違いない。この時代は鎖国時代だから、西洋との唯一の接点は長崎出島でのオランダとの交流だけで、西洋音楽はオランダ商館員や船乗りがもたらすもののみ。それでもカピタンが定期的に江戸の将軍のもとに出向いた際には簡単な楽器を携えていって演奏したこともあるようだが、バッハの音楽が当時はあまり評価されていなかったことや楽譜が出版されていなかったことでオランダのアマチュアに知られていたとは考えにくい。

 では、日本古来の音楽はどうだったか。
 今日まで大きな影響を与えていることとして、三味線と琴が普及したことが挙げられる。
 三味線は室町時代に伝来したものであるが、江戸時代17世紀前半に江戸で小唄の伴奏に用いられるようになったのを初め、浄瑠璃、長唄等幅広く活躍するようになる。一方、琴の方は伝来は古く雅楽でも用いられていたが江戸時代になって、江戸時代初期の八橋検校(1614〜1685)に続いて京都に生田検校(1665〜1715)が、それまで三味線だけの伴奏であった地歌に琴を取り入れたことから隆盛を向かえる。生田検校がバッハと比較的近い世代である。
 三味線を用いる音楽を少し細かく書いてみる。
 浄瑠璃の系統では、大阪に竹本義太夫(1651〜1714)が現れ、バッハが生まれる前の年の1684年、大阪の道頓堀に「竹本座」を旗揚げし「新浄瑠璃」と呼ばれる時代に入る。竹本義太夫の成功は近松門左衛門との協力によるところが大きいのは良く知られている。
 この他に、浄瑠璃の系統でバッハの晩年に成立したのが「常磐津節」(18世紀中頃)、「富本節」(常磐津節成立直後)である。
 もう一つの流れとして長唄の系統がある。
 長唄は歌舞伎との関係が深いが、この歌舞伎の方は徳川家康が活躍した慶長時代に出雲の阿国が始めたものである。それ以降、女歌舞伎から若衆歌舞伎に移って行くが、それらが風紀上の理由で取り締まりの対象となる17世紀前半までは、三味線伴奏の舞踊という形であった。この取り締まりの結果、バッハが生まれる17世紀後半には野郎歌舞伎になり、台詞劇に変わり、元禄期末(18世紀初期)までに本格的な芝居芸能への道を歩む。この時期に長唄が加わり、現代まで続く形が整って行く。「長唄」という名称は芭蕉門下の俳諧師多賀朝湖(たがちょうこ)、後の画家英一蝶(はなぶさいっちょう)、が、「古今和歌集」の長歌形式の歌にヒントを得て当世風の歌詞を作り、これを長歌(ながうた)と呼び、さらに盲人音楽家の佐山検校という人が曲をつけたのが長唄の初めと言われている。この先、発展の経緯はややこしいので省略する。
 因みに我々が良くその名を耳にする小唄、俗曲が発生するのは19世紀中頃で、西洋の音楽史では前期ロマン派に入った時代である。
 ということで、現在我々が伝統芸能として耳にする機会の多い日本音楽も、基本的な形はこの時代に確立されたものが多いのである。

 なお、最後に、多才故にわが国のダ・ヴィンチと言われる平賀源内は1728生まれであり、ほぼこの時代に活躍した人物である。(1779年没)

 以上、バッハの生きた時代のドイツおよび周辺、わが国の状況を覗いてみようと書いてみたが、書き終えてみるとバッハの1〜2世代上の事柄の記述が多くなってしまった。素人が調べる程度の資料に記述されている事項では18世紀前半は少ないようである。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「私の日本音楽史」 團 伊玖磨、1999年 NHKライブラリー
  2. 「J.S.バッハ」 辻 壮一、1982年、岩波新書
  3. 「富士山宝永大爆発」 永原慶二、2002年、集英社新書
  4. 「新世界史図説」(年表) 1992年、帝国書院
  5. 「世界の歴史13 絶対君主の時代」 今井 宏、1989年、河出文庫
  6. その他、広辞苑、美術全集等

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
作品番号 ロ短調ミサ-1 ロ短調ミサ-2 演奏習慣 生活
時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
息子達 ミサとミサ曲 CD 礼拝 教会暦と音楽
受難曲の歴史 ライプツィッヒ-1 ライプツィッヒ-2 バッハの受難曲 ローマ史
ヨハネ受難曲の物語      

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