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バッハの息子達


 バッハはマリア・バーバラとの間に7人、アンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけた子沢山であった。男子が11人、そのうちの5人は夭逝しているので6人が成人したことになる。
 そのいずれもが音楽的才能に恵まれ、また父親であるヨハン・セバスチャン・バッハの息子達が音楽家としてよりよい地位を得るように、親ばか丸出しで有力者への働きかけ等を行ったようである。中には親の期待に押しつぶされるようにして若くして世を去った者もいた。
 今回は、バロック時代と古典派をつなぐ一つの時代をなしたとして評価が高まりつつあるバッハの息子達について紹介する。

1.総論
今回取り上げるのは、長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710〜84)、次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜88)、七男のヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・バッハ(1732〜95)、九男のヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜82)の4人である。他に成人した男子が二人いたが、そのうち、三男のヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト(1715〜39)は父親の期待の重さに耐え切れないように24歳で急死し、他の一人、五男のゴットフリート・ハインリッヒ(1724〜63)は音楽的才能はあったが知恵遅れで、終生姉の世話になっている。
 今回取り上げる4人が活躍した時期を音楽史の観点から見ると次のようなことが言われている。
 彼らが生きたのは、バロック音楽が大バッハがまだ活躍中であった1730年台には終焉を迎え、それに代わる新しい音楽の胎動がイタリアを中心に起こってきた時代であった。しかし、ウィーンを中心に古典派音楽が花開くのは1780年代以降即ちハイドンやモーツァルトが本格的に活躍する時代であり、その間の数十年間は、色々な様式が混在する時期で「ロココ様式」、「ギャラント様式」、「疾風怒涛の時代(シュトゥルム・ウント・ドランク)」等々と呼ばれてきた。しかし最近ではこの半世紀を一つの統一した音楽時代として認める音楽史家が多く、その統一性の根拠を「多様性」、「複雑性」に求めるという一寸矛盾するような見方が定着しつつある。
 そして、この時代を担った中心的な音楽家がバッハの4人の息子達だといわれている。
筆者も、息子達の作品を数多く聞いたわけではないが、聞いた最初の特徴は、通奏低音がその役割を終えていることだろう。非常に荒っぽい表現を許して頂けば、モーツァルトやハイドンの初期の器楽曲、特に交響曲に合い通じる印象を受けるものである。
 以下に、音楽家として大成した4人の息子達について概説する。

2.長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710〜84)
  (ハレのバッハ)

 大バッハが最も愛し、高く評価していたといわれる息子である。「あれは私の心にかなったせがれだ。」といっていたという。それは最初の男子であるからどこの父親も同じなのであろうが、期待通り音楽的才能にも恵まれていたことが一層拍車をかけたのであろう。
 バッハはフリーデマンのために幾つもの作品を書いており、その作品からも少年時代から才能を発揮していたことがうかがえる。最初は1720年、フリーデマンが9歳の時に一冊の音楽帳を書き始め、フリーデマンと一緒に数年かけて完成させた。後に「インヴェンション」を構成する諸作品や「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の一部となる作品の初稿が含まれている。
 彼はライプツィッヒ大学で法律を学び(大バッハは自分が大学に進めなかったことから、息子達には大学教育を受けさせることにこだわった)、1733年に、父の後押しを得てドレスデンのゾフィア教会のオルガニストとなった。
 当地でオルガニストとしての職務の他に弟子を育てたりしていたが、作曲家としてはドレスデンでは受け入れられず、丁度ハレのオルガニストが亡くなって空席となったことから、1746年から、ハレの聖母教会オルガニストになった。この時も父親の運動が効を奏している。ハレで活躍したことからフリーデマンはハレのバッハとも呼ばれている。
 しかし彼は性格的な難しさが原因して職場上の折り合いが悪く、1764年にこの職を辞任してしまう。以後は定職にも就かずに、荒れた、貧困の晩年を送った。
 フリーデマンは、五線紙上での作曲よりも即興演奏の方を好み、またそれに卓越していたと伝えられる。このため、残されたそう多くない作品からの彼の天分のほどを完全に知るのは難しいが、「ファンタジー イ短調」、シンフォニア「不協和音」といった作品には、孤独な情熱に燃える霊感の、一種取りとめのない飛翔を聴くことができるといわれている。偉大な父親の期待を受け、完璧な教育を施されて育ったフリーデマンではあったが、結局はその重圧を支えきるだけの人間的な強さを見につけることができず、大きな才能に見合うだけの大成を果たせずに、飲酒へ、放蕩へと落ち込んでいった。さらに貧困な状態になってからは父親から相続した楽譜の多くを売り払ってしまったといわれている。

3.次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜88)
  (ベルリンのバッハ→ハンブルグのバッハ)

 カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは大バッハの息子達のうちでも、音楽家としてもっとも優れた業績を残した。わが国においても発売されているCDの量や演奏される機会においては4人の中で群を抜いている。
 彼は、ライプツィッヒとフランクフルト・アン・デア・オーダーの大学で法律を学んだ。二度も法学を学んだのは、一度オルガニストの座に挑戦したが失敗したため、法学でも身を立てられるように再度入学したものである。ただ、この間も大学で音楽活動は続けている。
 当時プロイセンの皇太子であったフリードヒッヒ二世は、幼い頃から芸術に興味を持ち、自分の宮廷にもオーケストラを持ちたいとの夢を持っていた。また良く知られているように自身もクヴァンツについてフルートを学んでいた。エマヌエルは1738年に伴奏者として雇われた。ただ、正式採用となったのは1740年にフリードリッヒ二世が即位(後に「大王」と呼ばれる)してからである。
 エマヌエルはフリードリッヒ二世に仕えて、ベルリンとポツダムの宮廷で活躍することになるが、単に伴奏だけではなく早い段階から作曲にも手をつけている。その作品は父親の様式を離れて新しい時代を予感させるものと評されている。なお、父親のバッハも1747年にベルリンにいた息子を訪ねてフリードリッヒ大王にも謁見し、この時、大王がテーマを示してフーガに展開することを求め、その場で即興演奏したほか、後に本格的なフーガに展開して献呈したのが有名な《音楽の捧げもの》(BWV1079)である。
 エマヌエルは当初ベルリンで活躍したことから「ベルリンのバッハ」と呼ばれているが、1768年からは、名付け親テレマンの後を継いでハンブルグの音楽監督となったことから、今度は「ハンブルグのバッハ」と呼ばれて、栄光の晩年を送っている。なお、エマヌエルは父親の死に際して《ロ短調ミサ曲》の楽譜を相続しており、ハンブルグ時代にその一部を初演している。
 エマヌエルは、兄と同じく豊かな想像力と個性的なファンタジーの持ち主であったが、同時に、それをコントロールするだけの勤勉さと知性に恵まれていた。このため彼は、北ドイツの前古典派音楽を代表する人物としてハイドンやモーツァルトに大きな影響を与え、「クラヴィーア奏法試論」(1753年)のような著作で理論家としても功績をあげた。余談であるがこの時期ドイツで演奏論の出版が続き、エマヌエルに先立ってクヴァンツがフルート奏法について、アマデウス・モーツァルトの父親のレオポルト・モーツァルトがヴァイオリンの奏法論を出版している。また、エマヌエルは、大バッハの遺産や伝記的な事実を正しく後世に伝えるために尽力した。彼が弟子のアルトニコルとともに残した「故人略伝」は生前の大バッハのことをしるための貴重な一次資料となっている。
 代表作としては「トリオ・ソナタ ロ短調」(W143)、「チェンバロ協奏曲 ニ短調」(W23)、「シンフォニア ロ短調」(W182〜185)などが挙げられている。
 ただ、父親はこの息子をあまり高く評価しておらず、「あいつはベルリン色に染まっている。メッキがはげるさ。」といったという証言も残っている。

4.七男ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ・バッハ(1732〜95)
  (ビュッケブルグのバッハ)

 ヨハン・クリストフ・フリードリッヒは、4人の息子のうちでは、やや影の薄い存在であるかも知れない。しかし、フリーデマンの言によれば、彼は兄弟のうちでもっともクラヴィーア演奏に優れ、父のクラヴィーア曲を達者に演奏したという。彼は、ハイドンと同じ年の生まれ。トーマス学校に通ってしかるべき音楽教育も受けた後、ライプツィッヒ大学に入学して法学を学び始めたが、1年程でビュッケブルグのシャウムブルク・リッペ侯の楽団員の口が見つかり、学業なかばでその地位に就く。例によって「ビュッケルブルクのバッハ」と呼ばれることになる。この就職に当たっては兄のカール・フィリップ・エマヌエルが仲立ちしたという見方が有力である。父親は既に力が無く、父親名の推薦状が残っているもののそれは妻のアンナ・マグダレーナが代筆したものである。
 彼の場合、成長した頃は大バッハは晩年に差し掛かって、《フーガの技法》、《音楽の捧げもの》、《ロ短調ミサ曲》などの大作に取り組んでいた時期であり、バッハ自身がヨハン・クリストフを直接教える機会は無く、実際に教育に当たったのはバッハの弟子達だろうとみる研究者が多い。
 ビュッケブルグでは音楽活動の中心人物は2人のイタリア人で、音楽もイタリア趣味の音楽が中心で、ヨハン・クリストフも当然その影響を受けた。これらのイタリア人たちは7年戦争が始まる年にビュッケブルグを離れたため、ヨハン・クリストフが彼らの分まで仕事を引き受けることになった。1759年にはコンサート・マスターに昇格し、さらに7年戦争も終わって再び音楽活動が盛んになった。彼自身の創作活動も盛んになり1765年から1772年の間には10曲の交響曲が作曲されている。
 彼の創作活動に新たな刺激を与えたのは、当時文学界に新風を吹き込んでいたヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744〜1803)がビュッケブルグにやってきたことである。二人はオラトリオ《幼きイエス》を皮切りに、代表作といわれる《ラザロの蘇生》など相当数のオラトリオやカンタータを共同で製作することになる。
 ヘルダーは5年程でビュッケブルグを離れるが、その後、ヨハン・クリスタフは弟のいるロンドンを訪れ、今で言う古典派の音楽に触れて作風が大きく変わることになる。その後もビュッケブルグで過ごすことになるが、音楽の新潮流には必ずしも乗り切れず、やや寂しい晩年であったといわれている

5.九男ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735〜82)
  (ミラノのバッハ→ロンドンのバッハ)

 ヨハン・クリスティアンは1735年の生まれなので、父親が50歳の時ということになる。老いてからの子なので父からはずいぶん可愛がられたらしいが、音楽面では父から決定的な影響を受けるということはなかった。彼は、早くから時流にふさわしい才能というものを示していて、このため父は、彼の将来をこう予見していたという。「私のクリスティアンは馬鹿なやつだ。だからきっといつかは、この世の中で成功するだろう。」
 父親が死んだ時にはまだ15歳であったので、ベルリンのエマヌエルのところに引き取られた。このことが、エマヌエルからクラヴィーアの奏法を学んだ他、ベルリンという文化の先進地域で当時最先端のイタリア・オペラに触れるなど、彼の音楽家としての人生に大きな影響を与えたといわれている。
 彼は、20歳頃から兄のもとを離れることを志し、いつかはっきりしないがイタリアのミラノに移る(「ミラノのバッハ」)。ここで、後にモーツァルトも教えを請うことになる対位法の大家、マルティーニ神父にも教えを受ける。その結果、ラテン語の教会音楽を相当数作曲し、さらに1757年には彼自身がカトリックに改宗する。
 しかし彼の関心は当初からオペラの方により強く向いており、教会音楽家として活動するのはある意味では生活のためであったと言われている。1760年に初めてオペラを作曲し成功を収めるなど時代の先端をゆく優雅な作風をみにつけた。この評判をきいて、ロンドンから誘いがかかり、1762年にかの地にわたって(「ロンドンのバッハ」)、劇場やサロンでイタリアでの最新の様式を身につけて、オペラにより花形音楽家として活躍した。その後、ヘンデルの死後後任が決まっていなかった王室の音楽教師の地位に就いた。
 また、1764年にはロンドンを訪れたモーツァルト一家と合い、ヴォルフガングの才能に気づいた。モーツァルト一家のロンドン滞在中、ヴォルフガングはクリスティアンの家を訪ね、一緒にクラヴィーアを弾いたり、作曲の手ほどきを受けたりした。《ロンドン小曲集》として40曲ほどの小品が残されている。当然、ヴォルフガングはクリスティアン・バッハの影響を受けることになる。

6.余禄=娘達
 タイトルを「バッハの息子達」としたので、娘のことには触れなくても言い訳はできるとは思うが、男尊女卑と思われないためにも釈明を。
 要するに息子達と違って記録がほとんど残っていないのである。例えば、長女のカタリーナ・ドロアーテは、ずっと父と同居していたと思われているのだが、父の家を手伝っていた親戚の書簡にも登場していない。
 唯一結婚した娘はエリーザベト・ユリアーナ・フリーデカ(1726〜81)で、弟子のヨハン・クリストフ・アルトニコルの妻となった。アルトニコルの名前は随所に登場するが、妻については詳しいことは判っていない。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「バッハの息子達」 (音楽選書55) 久保田慶一著、1987年、(株)音楽の友社
  2. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅著、1985年、東京書籍

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
作品番号 ロ短調ミサ-1 ロ短調ミサ-2 演奏習慣 生活
時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
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ヨハネ受難曲の物語      

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