今回は《ロ短調ミサ曲》の個々の曲について、曲の構成、曲の成り立ち、色々な人が言っている評価等書いてみたいと思います。
1.序.パロディーについて
個別論に入る前に、《ロ短調ミサ曲》の各曲を論じる過程で避けることが出来ない「パロディー」について概説する。
「パロディー」というのは、今でも広く使われているのと同じ意味で、何かの元ネタを利用して新たな作品を生み出すことで、バッハはパロディーを非常に上手く活用した作曲家である。ただ、単純に同じメロディーに違った歌詞をつけたわけではなく、新しい歌詞に相応しい楽想に作り変えている。
《ロ短調ミサ曲》においては、27曲中、はっきりとパロディーと分かっているものが8曲、パロディーの可能性が否定できないが原曲が特定できていないものが11曲、残りの8曲だけが当事のオリジナル楽譜などから新作であることが確認されているに過ぎない。なお、新作といってもテーマはグレゴリオ聖歌等から取ってきているものもある。(筆者注:曲分割は現在使っているベーレンライター版による)
ではなぜ、このようにパロディー作品が多くなったのか。
ライプツィッヒ時代の初期に、毎週のように教会カンタータの作曲を行っていた頃には効率的に曲数をそろえる必要から既存のものを流用したことも当然あったであろう。しかし、作曲数はうんと少なくなった頃に作曲されたクリスマスオラトリオもほとんどがパロディーから出来ており、時間的制約では説明がつかないのである。
一方、パロディーの原曲と改作後の関係をみると、ヴァイマール時代に作曲されたいわゆる「世俗カンタータ」を原曲として、ライプツィッヒ時代の「教会カンタータ」やその他の教会音楽に改作されており、その反対は確認されていない。このことから、磯山雅氏は次のような考え方を呈示している。
「世俗曲、とくに世俗カンタータが、何らかの慶祝の機会に使われる、原則として1回限りの作品であったのに対し、宗教曲は、教会暦が巡ってくればまた使うことが出来た、というところにある。したがって、力をこめて書いた世俗カンタータの音楽を再使用したいとすれば、教会用に作り変えるのが手っ取り早かったわけである。だがそれは、神を汚すことになりはしないであろうか。人間である領主を讃えた音楽をそのまま、神を讃美するために使うというのは、…。
ルター派は伝統的に、この点について寛大な考えをもっていた。それはルター自身が、音楽は神のすばらしい賜物であって、本来神に発するものであり、優れた音楽は様式の如何を問わず神を讃え得る、と考えていたからである。
(中略)
よい音楽を書くことは神への讃美でもあるとバッハは考えていたと、私は思う。当時の音楽理論書をひもといてみると、音楽の目的として、二つが挙げられている。神の讃美と、心の慰めである。これは必ずしも、宗教音楽の目的が神の讃美で、世俗音楽の目的が心の慰めであるということではない。どちらの音楽も究極においては神を讃えるべきものであり、神の心にかなう音楽によってこそ人は真に心の慰めを得ることができる、という考え方が、その背後に存在する。問題となるのは、音楽の良し悪しだけである。
バッハにとっては、宗教音楽も、世俗音楽も、ひとつのものであった。どちらに対しても、バッハは、職人的な良心をもって、最善を尽くした。だからこそバッハは、どちらの楽譜にも、冒頭に“Jesu Juva”(イエスよ、助けたまえ)、末尾に“Soli Deo Gloria”(神のみに栄えあれ)というサインを、おりおりに書き込んだのだろう。スメントによれば、バッハの遺産において、世俗音楽と宗教音楽に何らかの区別が行われていた形跡はまったくない。それを区別するようになったのは、19世紀のなかばに旧全集楽譜の出版が始まってからである。」
(筆者注:これに対してルターと並ぶ宗教改革の指導者として世界史で必ず出てくるカルヴァンは、礼拝に音楽を用いることに消極的で、カルヴァン派では教会音楽は発達していない。バッハが一時期奉職していたケーテンの宮廷はカルヴァン派を信仰していたため、この時期教会音楽はほとんど書いていない。)
ただし、「聖」と「俗」を区別していなかったかどうかについては異論もあり、辻壮一氏は、以下のように述べている。
「バッハは自作の転用にあたって、世俗用曲あるいは教会用曲を教会用に転用するが、教会用曲を世俗用に転用した例は皆無である。このことはバッハの脳裏には聖俗を区別する観念があったことを証明するもので、聖俗の区別がまったく無かったと決めてかかるのは危険である。一般にこの時代には聖俗を区別する観念が極めて弱くなっているが、多数の例を見ると、この問題は必ずしも簡単に答えられない。」
また、パロディーはどのように行われたかという点について、小林義武氏によれば、ライプツィッヒ時代初期のカンタータ多作時代とロ短調ミサ曲の時代では方法に差が見られるという。
「バッハがパロディーの原曲を選び出すときの基準としていたものは、ライプツィッヒの初期の時代には、歌詞の韻律的一致や、類似したひとつひとつの言葉によって惹起される情緒(アフェクト)といったものであった。それに対し、晩年の作品であるミサ曲においてはまったく別の方法が採られた。ここでは、バッハは、音楽的にも歌詞の上でも当該のミサの楽章に最も適したカンタータの楽章をパロディーの原曲として選び出し、そして手の込んだ改作を行ったこともまれではなかったのである。これらのミサの楽章とその原曲との間には緊密な関連性が見られ、原曲にもともと存在した内容が、パロディー手法による改作にもかかわらず、本質的には保持されることが珍しくなかった。この最もよい例は『ロ短調ミサ曲』の中の「われら汝に感謝し奉る(Gratias agimus tibi)」という楽章である。
(筆者注:この具体的な内容については、当該の曲の解説において触れる)
(中略)
ミサ曲においては、手の込んだ改作によって作り出された作品のほうが、原曲よりも質において向上しているとさえ言えるのである。古い素材の持っていた可能性を汲み尽くし完成の域に高めるということは、バッハの晩年の作品に多く見られる特徴である。たとえば一連のミサ曲のほか、『平均率クヴィア曲集』第2巻、『18のコラール』(BWV651〜668)、『コールドベルク変奏曲』そして『14のカノン』(BWV1087)はいずれも晩年の作品であるが、その原形もしくは主題はすでに青壮年期にまでさかのぼるものである。晩年のバッハはこれらの曲において最高の完成度をしめしたのであり、まさに一分の隙も見せない作曲技法をうかがわせるのである。」
と言ったところが目に付いた解説である。具体的にどの曲がどのような曲から引用されているかは以下の曲毎の解説で記していきたい。
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(Bass 百々 隆)
参考文献
- 「カンタータ研究」 樋口隆一著、1987年、音楽の友社
- 「バッハ−伝承の謎を追う」 小林義武著、1995年、春秋社
- 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山雅著、1985年、東京書籍
- 「バッハ(下)」 アルバート・シュヴァイツァー、1958年、岩波書店
- 「J.S.バッハ」 辻壮一著、1982年、岩波新書
- 「バッハ事典」 磯山雅他編、1996年、東京書籍
- 「作曲家別名曲解説ライブラリー J.S.バッハ」 1993年、音楽の友社
- ミニチュアスコアー「J.S.バッハ ロ短調ミサ曲」 音楽の友社
- 「新音楽辞典」 1977年、音楽の友社
- CD解説書
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