メニューバー

トップページ > バッハ研究 > 受難曲の歴史

受難曲の歴史



はじめに
 前回は、復活祭を中心にその前後の祝日と、聖金曜日以外の祝日に因む音楽を簡単に御紹介しましたが、今回は、聖金曜日に演奏される受難曲の歴史について紹介したいと思います。正直に告白しますが、このテーマ、書き始めてみるとその歴史の重さに圧倒されています。受難曲の歴史を書くということは、キリスト教の信仰の歴史を書くことにも相当し、筆者の知識の範囲では書きつくせるものではありませんが、今回は、音楽面からの変貌を中心に紹介したいと思います。

1.典礼劇
 前回も書きましたが、バッハの時代の完成された受難曲に至る源流の一つといわれるものです。
 とはいっても、典礼劇のそのまた源流は教会の典礼から発したもので、ミサの中でトロープスがその源というのが定説です。
 最初にこのトロープスの説明から入ります。
 ミサの形の基礎を整えたのはグレゴリウス1世(在位:590〜604年)といわれており、現在のミサ通常文が典礼に用いられるようになったのが7世紀と言われています。ミサの通常文の随所に解説をするような新たな言葉を挟み込むことが行われました。インターネットで見つけた一例を書きますと、 'Kyrie fons bonitatis eleison'(主よ、善の泉よ、あわれみたまえ)という調子のようです。この例は非常に短い挿入句ですが、次第に長いものが表れ、この部分にグレゴリオ聖歌と違った新しい旋律をつけて歌うというか朗誦することが盛んに行われました。だいたいこういう決められたことから少しはみ出て新しいことが出来るとなると、競争的に長く、華麗になっていくのが世の常らしく、10〜11世紀頃には修道院で盛んに新しいトロープスが生み出されたようです。
 書き加えられる言葉は次第に具体性を帯びて視覚的要素も加え、その場面の行為そのものを克明に描くようになります。ここまでくると動作をつけて芝居仕立てになって行くのも自然の成り行きとも言えるでしょう。さらに、受難から復活にかけての聖週間では、福音書を3人の聖職者が役割(キリスト、福音史家、その他)を決めて歌うやり方が10世紀頃からあり、これも典礼劇に発展していく原動力の一つだったといわれています。
 トロープス起源の典礼劇の題材としては、キリスト降誕の物語、受難物語、復活物語、色々な預言者や聖人の物語などが取り上げられたようです。そして演じられる場も教会内部だけではなく、教会の前庭、さらには街の中心の広場にまで広がります。それでも最初の間は演じるのは聖職者だったようですが、次第に市民も出演者となり、近隣の人々も集まって楽しむ年中行事の大パーフォーマンスに発展していきました。
 街に出て行ったせいでしょうか、修道院や教会の内部での新たなトロープスの作曲?は下火になり、宗教改革に対抗して開かれたトレントの公会議(1545〜1563)では、「淫らなものや不純なものが混入した音楽はすべて教会から取り除かなければならない」と決定され、トロープスは全面禁止となり、教会での役割には終止符を打ちました。
 「典礼劇」は、15〜16世紀には神秘劇と言われるさらに大規模な演劇に発展します。このころは専門の俳優ではなく市民が演じる形でしたが、16世紀以降は本職の俳優による世俗的な創作劇に関心が移って神秘劇も表舞台から消えていきます。音楽の面で言えば、オラトリオやオペラにもつながる動きであり、バッハの受難曲は、ヘンデルのオラトリオのような劇場での演奏を前提にしたエンターテイメントとは明らかに違ってあくまで礼拝での演奏を前提にして書かれているので、オラトリオの流れの中で捉えるべきか否か、議論の分かれるところですが、典礼劇の流れもどの程度かは別にして、流れ込んでいると考えて良いのではないでしょうか。
 また、典礼劇、神秘劇の幾つかは今日にまで伝わっており、旧約聖書の預言者の一人ダニエルを主人公とした「ダニエル物語」が最も有名で、少し詳しい音楽史の解説書ではよく紹介されています。筆者はまだ聞いたことがありませんがCDも出ているようです。また、今でもドイツバイエルンの田舎町では民間の伝承行事としてこのような劇を演じられているそうです。
 「受難曲」につながっていくトロープスの例を最後に挙げておきます。
それは10世紀頃に作られた 'Quem quaeritis in sepulchro(墓場で誰を探しているのか)' という天使と3人のマリアたちの対話形式のものです。
 「墓地で誰を探しているのか」
 「ナザレのイエスです」
 「その方はここにいない。予言されたように復活したのだ。さあ、行ってこのことを皆に告げよ」
 「アレルヤ、今日、主は復活されたのだ―――」
 というような歌詞で、最初は復活祭のミサの入祭唱の前に歌われていたものが、次第に歌われる場面が変り、最終的には朝課(深夜から未明にかけての礼拝)の終わりに、聖職者達によって祭壇の横で音楽を伴った“寸劇”として演じられるようになり、これが典礼劇の始まりの一つと言われています。

2.ミサの福音書朗読
(1) 概説
 キリスト教のうち、カトリックのミサ次第についてはアンサンブル・ヴォーチェのホームページに載せてもらっている「バッハ研究」の17番目の「ミサとミサ曲」に概説を載せていますし、バッハが活躍した頃のルター派の式次第とカトリックの比較表は同じ「バッハ研究」の最後の「プロテスタントの礼拝−ロ短調ミサの構成と絡めて−」という拙論に比較表を添付していますので、そちらをご覧いただくことを前提に以下の考察を進めます。
 カトリックにしてもルター派にしても、典礼の一つの山場は「信仰宣言」(カトリックのミサ通常文では 'Credo' )ですが、その前に福音書朗読があります。これは、その日に因んだ聖書の部分を朗読するというものです。従って、イエスが十字架につけられた聖金曜日の礼拝では、聖書の受難の場面が読まれることになります。当初は司祭が多少の抑揚をつけるものの延々と聖書の受難の場面を読み上げましたが、やがてこの部分に音楽が付けられるようになり、受難曲へと発展していきます。

(2) 中世の受難曲
 歴史をさらに戻し、そもそも礼拝の中でイエスの受難を想う事が何時頃から行われていたかということに触れて見たいと思います。中世とは何時から何時までかという議論を始めるとますます手におえなくなりますので、ここではアバウトに捉えてください。
 キリスト教の根幹を成す三位一体の考え方は4世紀のニケアの公会議によって確立したとされていますが、ジャパン・コレギウム・ジャパンの指揮者の鈴木雅明氏が書かれた資料によれば、4世紀のエルサレムの礼拝の記録の中に既に聖書の中の受難の部分を朗読することが行われていたそうです。その後、4世紀から5世紀頃にはアウグスティヌス(354〜430)の影響力が強くなります。アウグスティヌスによるとイエスの受難は単なる悲劇を描いたのでなく、神がそのような出来事とその摂理を望まれたと説き、受難の摂理を淡々と説くことを求めました。この頃から礼拝で聖書を読むことが定着し、毎年の受難週になると聖書のうちの受難の記事が読まれることになりました。
 御承知のように福音書にはマタイ、ルカ、マルコ、ヨハネの4書がありますが、5世紀のレオ教皇によって、どの祝日にどの福音書を読むかが定められました。即ち、復活祭の1週間前の主日(棕櫚の主日)にはマタイ福音書、イエスが十字架上に死んだ聖金曜日にはヨハネ福音書ときまりました。この週間は20世紀半ばの第2バチカン公会議まで続きます。ヨハネ福音書が聖金曜日に読まれるようになったのは、弟子のうちでヨハネが最後まで十字架の下に留まったからだといわれています。
 さらに7世紀になると、聖週間のうち水曜日にルカ福音書を、火曜日にマルコ福音書ときまりました。ただ、受難週といえども平日に福音書を読む習慣はカトリックとプロテスタントのうちルター派だけだそうです。

(3) 朗誦される受難記事

 中世の礼拝では、助祭が受難記事の朗誦を担当しました。朗誦というのは、朗誦定式と呼ばれるパターンに従い、一定の音を繰り返す形で、旋律的な動きがあるのは初めや終わりのわずかな部分だそうです。こうした朗誦は口伝で伝わってきましたが、11世紀頃から少しずつ文字で伝わるようになります。といっても楽譜があるわけではなく、役割毎に「S」(高く)、「C」(エヴァンゲリスト)、「G」(イエスの言葉、低くあるいは厳かに)とか言った文字が記されているそうです。さらに12世紀頃になると音程を明確に定めた写本が現われてきます。
 12世紀というのは神学的な観点での転換点に当たると言われています。
 それは11世紀から13世紀にかけて十字軍が派遣されますが結果的にはすべて失敗に終り、エルサレムを回教徒から奪回することが出来ませんでした。このことから、それまであった「勝利の教会」という自信が崩れ「苦しみの教会」という認識に変ったといわれています。さらに、「十字架とイエス・キリストが意味するのは、痛みと苦しみにまみれたイエス」という認識につながり、さらに血に染まったイエスとともに苦しむという考え方が生まれ、その背景には、「イエス・キリストが苦難を受けたのは私達の罪のためである。私達の罪はそれほど深いのだ。」という思いがあるといわれています。

(4) 多声化の始まり
 話を15世紀に進めますが、この時代には、信仰の流れとしては、「共に感ずる、共に苦しむ」がさらに募って、「イエス・キリストを真似る、あるいはその後に従っていく」という変化が生じたといわれています。また、ある歴史家によると、この時代は歴史上、イエス・キリストの苦難と死の問題を最も切実に追い詰めた時代だそうです。
 音楽面では、音楽史上のルネサンス到来(15世紀)とともに、多声化が現われてきます。
 今の感覚で考えると、複数人物の発言だけが多声化されるのかと思われますが、当時の作例を見ると、必ずしもそうではなく、個人(ペトロ、ユダ、女中など)の発言や、イエスの言葉まで多声化するもの、さらに、福音記者の語りの一部(とくに最後の部分)をも多声化するものなどがあります。つまり、テキストのすべてを多声化した受難曲もあらわれます。最後のようなタイプを「通作thorough-composed」受難曲と呼んでいます。

(5) ルネサンスの応唱風受難曲
 朗誦定式の語りを合唱が中断する形の受難曲を「応唱様式」と呼び、15世紀のイギリスで作曲されたそのような形の受難曲が残っています。しかし、その後、宗教改革の影響もあってか、イギリスでの受難曲の作曲例が減ってしまいます。
 15世紀後半から16世紀へかけて受難曲の発展を担ったのは、イタリアで、その多くが、応唱風受難曲でした。それらに共通した特徴は、多声合唱が和声的な様式で書かれていることです。つまり、全部のパートが歌詞シラブルの進行に合わせて、同じリズムにより協和音を重ねて進み、バスは主として、四度と五度の音程で歩んでゆきます。その結果、言葉はとらえやすいが、音楽的には素朴で短調な音楽となりました。
 ルネサンスの巨匠オルランド・ディ・ラッソ(1532〜94)が、バイエルン選帝侯の礼拝のために書き、1575年にミュンヘンで出版した《マタイ受難曲》も、シンプルな応唱風受難曲でした。このような応唱風受難曲では、楽譜に書かれているのはやはり多声部分のみですが、群衆は五声、単独発話者はニ声と、多声内でめりはりがつけられています。

(6) ルネサンスの通作受難曲
 福音書記者(語り手)の言葉を含めて、すべてのテキストを頭から多声で作曲してしまうというのは、われわれには奇妙にみえますが、当時の音楽家にとっては、聖典としてのテキストを尊重する態度の一つだったとみえて、「通作受難曲」は、アルプスの北を中心に、かなりの数作曲されました。
 このタイプの受難曲の有名な、おそらくもっとも古い例は、アントワーヌ・ロングヴァルの《マタイ受難曲》(1538年出版)で、この曲は、「マタイによるわれらの主イエス・キリストの受難」という題句で開始されますが、テキスト中には、他の三つの福音書からの引用が随時見られ、正しくは《マタイ受難曲》というより、後述の「調和受難曲」の系列に属するものといえます。ロングヴァルの受難曲は、カトリックの作品であるにもかかわらず、むしろルター派の作曲家たちに大きな影響を与え、一連のドイツ語による通作受難曲の先駆となりました。
 なお、通作受難曲は、以前は「モテット風受難曲」と呼ばれていましたが、多声楽節の多くが今で言うホモヴォニーの様式をとっており、モテットの複雑な対位法的スタイルとは異なるため、近年では、「通作受難曲」という呼び方が一般化しています。

(7) 宗教改革初期のルター派受難曲

 16世紀前半にカトリックと袂を分かっかルター派では、さまざまなタイプの受難曲の創作が試みられました。中でも重要で、長期にわたって権威を維持したのが、ルターの友人ヨーハン・ヴァルター(1496〜1570)の受難曲です。これは、ルター訳聖書のドイツ語に合わせて作り直された朗誦(グレゴリオ聖歌の朗誦定式の面影を残しており、朗誦音上でさかんにシラブルを反復する)に、ホモフォニー様武の素朴な合唱を添えたもので、ヴァルターの受難曲はバッハ時代のライプツィヒにおいてもなお用いられていました。
 ヴァルターの朗誦パートは、その後、グレゴリオ聖歌の朗誦定式にあたる役割をルター派圈において果たし、作曲家たちはこれを受け継ぎながら、新しい多声部分を加えていきました。16世紀の半ばからは、「われらの主イエス・キリストの受難」という題句と「われらの主に感謝しよう」という結句(いずれもドイツ語)を、多声で作曲する習慣が生まれました。続いて、キリストの言葉を多声で作曲する方法が、イタリアの作曲家アントーニオ・スカンデッロ(1517〜80)を通じて、ドイツに入ってきました。
 イタリアには見られないドイツの受難曲の特色は、四つの福音書の記述を混合して一つのストーリーにまとめた「調和受難曲」(総合受難曲summa passionisとも呼ばれる)の存在です。これは、福音書の受難記事が互いに補い合い、それによって一つの真理を指し示すという、「福音書の調和 Evangelien harmonie」の考えを前提としています。
 このような調和福音書に対してルターがどのような考え方を持っていたかは、今回参考にした文献では、磯山雅さんと鈴木雅明さんでかなり見解が分かれています。以下には鈴木雅明さんの資料に沿って書いて行きます。

(8) ルターと受難曲
 ルターは、十字架上のイエス・キリストとは、まさに私達の罪のために身代わりとして処刑された人間イエスで、イエスは受難によって神の子としての職務をまっとうされたという考え方をとっています。ルターにはイエス・キリストの十字架上での苦難を追体験したり、それを深く瞑想することでキリストと同化しようという考え方はありません。
 ルターは1523年にラテン語の礼拝式文を作り、翌24年には「8つの歌」という初めてのドイツ語の讃美歌集に序文を書きました。25年には初めてドイツ語の礼拝が行われ、26年にドイツ語のミサが制定されました。このミサには楽譜もついているそうです。また、序文には調和福音書を歌うことに批判的なことも書かれているそうです。
 ルター自身は最初は受難に関する特別の礼拝を予定しませんでしたが、協力者がルター派の典礼を定めていく過程で受難のための礼拝が定められていきます。このような中でも前述のヨハン・ヴァルターが重要な役割を果たしました。
 ヴァルター以外にもルター派の多くの作曲家が受難曲やモテットを書いていますが、その多くがヨハネ福音書によっています。鈴木雅明氏によれば、その理由は、ヨハネ福音書が、イエスが処刑された聖金曜日に朗誦されるということ以外に、ヨハネが福音書の記者として受難の物語をもっとも教義的な面から捉えており、神の計画というか、イエス・キリストの受難から復活の全体像のなかに受難を位置づけるヨハネ福音書の内容が、ルター派の考え方と合致するために、ルター派の作曲家がヨハネ受難曲を数多く作曲したということです。

(9) 応唱風受難曲のバロックにおける発展
 ここからは、先のお二人の意見を筆者なりに咀嚼して書いていきます。
 17世紀、すなわちバロックの時代に入ると、受難曲の新作は、ドイツのブロテスタント地域に集中する傾向を見せ姶めます。我々にとって重要なのは、ドイツ音楽の父と称されるハインリヒ・シュッツ(1585〜1672)が晩年ドレスデンの言廷礼拝堂のために書いた《マタイ受難曲》(1666年)と言われています。これは、4福音書によるシュッツの受難曲の、最初の作品にあたります。
 応唱様式によるシュッツの《マタイ受難曲》は、一見渋く抑制されていて、古風な作品に見え、17世紀も半ば過ぎに作曲されたにも拘わらず楽器は用いられず、聖句はヴァルターのそれのように、リズムをもたぬ形で書かれています。しかしよく見ると、朗誦は、ドイツ語にいっそう密着した新しいものに変えられており、そこではいわゆる音楽修辞フィグーラ(歌詞の意味を音型で表現する)を用いた、語と音の緊密な一致が図られている等、新しい傾向も見られます。また4声部の合唱は、生き生きした、ポリフォニーヘと変貌しています。歌詞の内容を音楽で直接にあらわしたいとするバロック的な表現要求をかなえるためには、単調な合唱の様式は、どこかで乗り越えられなくてはならなかったもので、シュッツはここで、それを実現したといえます。
 全曲の中でも、冒頭合唱と終結合唱は、しみじみとした趣の、とりわけ美しい音楽になっています。結びの歌詞は、次のようなものである。「十字架の幹で苦難を受け、私たちのために苦い死を忍びたもうたあなた、キリストに宋光あれ。あなたがかの世で、父とともに永遠に支配し、哀れな罪人である私たちを助けて、至福ヘと至らせて下さいますように。キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン、キリエ・エレイソン。」結句のこうした拡大には、聖書と信徒とを橋渡しする新作部分を受難曲に含めてゆこうとする意図が認められます。なおシュッツは、福音書による受難曲に20年も先立つ1645年頃(推定)に、調和受難曲《十字架上の七つの言葉》(ブーゲンハーゲンのテキストの当該部分を歌詞としたもの)を作曲しました。ここでは器楽が採用され、題句合唱の後と結句合唱の前に、ヴィオラ・ダ・ガンバが深沈としシンフォニアを奏でます。そして聖句の語りには通奏低音が加えられ、イエスの言葉には、「光背」を思わせるヴィオラ・ダ・ガンバが伴っています。この作品は、その進歩的なスタイルの上でも、また音楽の感動的な内容においても、受難曲史上、重要な意義をもっています。(筆者注:シュッツの作品のCDは比較的安価で手に入りますので一度聞いて見られることを薦めます。)
 また、この時期には賛美歌の歌詞に重要な変化が見られるそうです。それは、この時代までは主語が“Wir(我々が)”であったものが、この時代から“Ich(私が)”に変っていくそうです。即ち、「私が信じます、私が告白します、‥」というように変っていき、音楽もより個人的な表情をたたえることが出来るようなものに変化していきます。

(10) オラトリオ受難曲の成立と発展

 17世紀の半ばに、北ドイツのハンザ同盟都市で、声楽のみによらず楽器を用い、聖句に含まれない自由詩讃美歌を挿入するタイプの受難曲が書かれ始められました。このタイプを「オラトリオ受難曲oratorio passion」と言います。ヴォルフェンビュッテルのマルティン・コレールスという作曲家が作曲した《マタイ受難曲》(1664年)が、その最初だといわれています。
 その後、何人かの作曲家の作品が伝わっていますが、ツェレのヨハネス・ゲオルク・キューンハウゼン(?〜1714)の《マタイ受難曲》(1700年頃、ただし1676年以前とする説もある)はバッハの受難曲と同じ、二部分構成となっています。器楽はオルガンのみに制限され、合唱も簡素な様式ですが、福音書記者(テノール)とイエス(バス)の語りはオペラのレチタティーヴォを思わせる自由なものとなっており、コラールと、コラールに基づくアリア風の二重唱が、曲中に採用され、同一コラールの反復によって統一を図る手法が注目されます。
 北ドイツの音楽家、ヨーハン・ブァーレンティン・メーダー(1649〜1719)には、《マタイによるオラトリオ受難曲》という作品があり、レチタティーヴォは朗誦調を完全に脱し、オペラ的に身振りの大きなもので、たとえばイエスが十字架を予告するくだりには、バッハを彷彿とさせる十字架音型があらわれています。聖書の場面をおりおり抒情的なシンフォニア、アリア、合唱が中断しますが、その歌詞は自由詩ではなく、ヨーハン・ヘールマンやヨーハン・リストらのコラールからとられています。
 こうしたオラトリオ受難曲の発展が、バッハが成長期および青年時代に足をのばすことのできた地域範囲で起こっていたことは、バッハの受難曲に取り組む我々にとっても係わりの深いことといえます。バッハがやがて書く受難曲は、このような土壌の上に生み出され、受難曲の歴史に、偉大な一歩を進めたことになりますが、「オラトリオ受難曲」が作られた期間は以外に短く、残されている作品も、そう多くはありません。
 聖書にコラールを加え、自由詩をはさみ、という流れから、次の一歩として、受難記事そのものを新たに詩作するという試みが生まれてきました。こうした新たに執筆された台本に基づく受難曲を、「受難オラトリオ paasion oratorio」と呼びます。中でも有名なのは、バルトルト・ハインリヒ・ブロッケスの作詞による《世の罪のために苫しみを受け、死にゆくイエス Der fur Sunden Welt gemarterte und sterbende Jesus》(1712年)です。この台本には、テレマン(1716年)、ヘンデル(1716〜17年)、マッデゾン(1718年)といった有力作曲家によって、バッハの受難曲に先立って曲づけされています。したがって、バッハの《マタイ受難曲》と《ヨハネ受難曲》は、上記の受難曲の流れからすれば―――それがどれほど強力な発展を示すものであれ―――保守的なものであったと言うことができます。バッハの死後、彼の受難曲が忘れられ、その一方で受難オラトリオが大きな人気を博して演奏され続けたことは、18世紀の歴史における趣昧の変化が、意外に急速であったことを物語っています。
 オラトリオ的受難曲から受難オラトリオに移行して行ったということを言い換えると、演奏の場が、教会から市中の劇場へ、聞かせる対象が神から市民に変わっていったということを意味するともいえます。

(11) 18世紀初めのライプツィヒにおける受難曲
 前述した通り、ドイツにおける「オラトリオ受難曲」は、オペラのさかんな北の港町、ハンブルクから始まり、リューネブルク、ゴータ、ルードルシュタット、ヴァイセンフェルスといった都市が、そのあとを追います。これらの都市に比較すると、ライプツィヒにおける受難曲の発展は、遅れていたようです。しかし、1717年に新教会がかつての在学生テレマン(当時フランクフルトに在住)の野心作、《ブロッケス受難曲》を演奏したことが引き金となって、新様式導入への機運が一挙に高まりました。そして、1712年にバッハの前任カントル、ヨーハン・クーナウ(1660〜1722、着任は1701年)が、聖トーマス教会で《マルコ受難曲》を演奏し、この流れが定着しました。この《マルコ受難曲》は不完全な形でしか残っていませんが、翌年も再演されて、1723年に着任したバッハの受難曲創作の、直接の模範になったものと思われます。
 ライプツィヒにおける受難節の期間は、復活節前第六(インフォカーヴィト)日曜日に始まり、以後は断食期となって、音楽や結婚式、宴席が禁止されました。このいわゆる「四句節」の期開を通じて、晩課礼拝では、受難記事の講解と説教が行われました。棕櫚の日曜日がやってくると、その午前に行われる主要な礼拝では、福音書の朗読に代えて、マタイ福音書の受難章句が朗誦されました。その際、トーマス学校生徒のひとりが福音書記者を、主席肋祭がイエスの言葉を受け持ち、他の役柄は、別の生徒たちによって分担されました。これらは単声でしたが、トゥルバ(群集)は合唱隊によって多声で歌われました。用いられた楽譜は、1682年にゴットフリート・ヴォペーリウスが出版した『新ライプツィヒ讃美歌集 Neu Leipziger Gesangbuch』 で、そこには、前述したヨーハン・ヴァルターの受難曲(マタイおよびヨハネ)が収められていました。教会の記録によれば、その朗誦を「会衆は起立して祈りの思いをもって傾聴した」ということです。また、当時こうした素朴な受難曲の間にコラール(賛美歌)を挿入する習慣が生まれていたことが、バイエルン国立図書館の所蔵する楽譜への書き込みから知られます。
 聖金擢日の主要礼拝では、福音書章句に代えてヨハネ福音書の受難記事が、同じ讃美歌集の楽譜によって朗誦されました。しかしわれわれにとって重要なのは、この日の午後に行われる、晩課礼拝で、この礼拝がバッハの受難曲演奏の場となったからです。晩課の説敦はもともと聖トーマス教会のみで行われていましたが、1723年からは聖トーマスヒならぶ主要教会である聖ニコライ教会でも行われるようになり、1724年には、バッハの受難曲が、そのクライマックスをなすことになりました。その後、受難曲の演奏は、両教会で交代に行われました。ライプツィッヒにおけるバッハの受難曲にかかる活動に関しては、次回以降に新ためて纏めてみます。

(12) バッハ以降の受難曲
 バッハの次の世代では、バッハの次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ等が受難曲を作曲していますし、ハイドンは、「十字架上の七つの言葉」をテーマに、まず弦楽四重奏曲を、後に管弦楽を伴った声楽作品を作曲しています。ベートーヴェンのオラトリオ「オリーブ山のキリスト」もイエスの受難をテーマとした点から言えば受難オラトリオの範疇と捉えられます。
 ドイツ以外でも、イタリアや英国で多くの受難曲が作曲され、中でもイタリアのピエートロ・メタスタージョ(1698〜1782)の台本に、サリエリ等複数の作曲家が曲をつけています。
 このような曲も、分類上は受難オラトリオの流れにあり、19世紀頃まで続きます。20世紀に入ると再び福音書の言葉を引用した受難曲が書かれるようになります。中で有名なのは、ペンデレツキの「ルカ受難曲」(1955年)、ベルトの「ヨハネ受難曲」(1982)などが上げられます。また、2000年にはバッハ没後250年を記念して斬新な受難曲が初演されました。それは、異なる作曲家がそれぞれ、《マタイ受難曲》を英語で、《ヨハネ受難曲》をロシア語で、《マルコ受難曲》をスペイン語で、《ルカ受難曲》をドイツ語でというものです。

3.あとがき
 今回は、現在、日本を代表するバッハ研究家であり演奏家である磯山雅氏と鈴木雅明氏の資料を中心に、受難曲の歴史とその背景となる信仰の歴史にも触れてみました。冒頭にも書きましたように非常に奥の深いテーマであり、不十分なものとは判りつつも何かの参考になればと皆さんのお目にかけることとしました。お気づきの点等、御指摘頂ければ幸いです。
 恥ずかしげもなく、次回以降も続けたいと思いますが、ヨハネ受難曲が演奏された頃のライプツィッヒでのバッハの音楽生活、バッハの受難曲等について挑戦してみたいと思います。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「マタイ受難曲」 磯山 雅著、1994年、東京書籍(株)
  2. 「キリスト教と音楽」 金澤 正剛著、2007年、(株)音楽之友社
  3. 「宗教音楽対訳集成」 井形ちづる・吉村恒著 2007年、(株)図書刊行会
  4. 「歌うドイツ語ハンドブック」 三ヶ尻 正著、2003年、(株)ショパン
  5. 「バッハへの道〜バッハ以前の受難曲〜」[Lecture Report NEC EARLY MUSIC LECTURE VOL.9]、
    鈴木雅明氏講演記録、2001年、NEC社会貢献部、バッハ・コレギウム・ジャパン

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
作品番号 ロ短調ミサ-1 ロ短調ミサ-2 演奏習慣 生活
時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
息子達 ミサとミサ曲 CD 礼拝 教会暦と音楽
受難曲の歴史 ライプツィッヒ-1 ライプツィッヒ-2 バッハの受難曲 ローマ史
ヨハネ受難曲の物語      

フォーレ研究 モーツァルト研究 バッハ研究 ヘンデル研究 ブラームス研究
トップページ EnsembleVoceとは これまでの演奏会 練習スケジュール