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バッハの家系と家族


 ヨハン・セバスチャン・バッハの家系はかなりのご先祖から音楽関係で身を立てていたということをご存知の方も多いと思いますが、改めて紹介するとともに、二人の妻についても書いて見たいと思います。

1. バッハの家系と音楽への道
 バッハの先祖がドイツ中部の小州チューリンゲンに住み着いたのは1580年ごろといわれている。バッハ自身が家系図を書いた事実が残っており、その家系図そのものは現代に伝わっていないが、孫娘が書き写し、ヨハン・セバスチャン・バッハ以後の家系も加えたものが伝わっている。
 その家系図によれば、一番古いのは、1550年ごろに亡くなったハンスで、ヨハン・セバスチャンから数えると5代前、つまり祖父のそのまた曾祖父にあたる。
 音楽との関わりがはっきりして来るのはその1代あとのファイト・バッハからである。かれは本職はパン屋でツィターを弾くのが好きで、水車小屋で粉を挽く際にツィターをつま弾きながら仕事をしたと伝えられている。また、この人も敬虔なルター派の信者であったことが判っており、そのことが理由で住んでいたハンガリーを追われ、故郷のドイツに戻ってきたといわれている。後々、ヨハン・セバスチャンが音楽的才能を示すとともに、敬虔なルター派のクリスチャンとしての生活を送る源流となったのである。
 個別に書き始めるとくどくなるので、ヨハン・セバスチャン・バッハの書いた家系図から数だけを示す。
 この家系図には53名の男子の名前が6世代に渡って示されている。(女声には申し訳ありませんが女子のことには触れられていません。)そのうち、何らかの形で音楽に関する職業に従事している事が明記されているのは以下のとおりである。
  1. ヨハン・セバスチャン・バッハと同世代:15名中11名、
  2. 遡って父親の世代:9名全員、
  3. さらにその上の祖父より上の計3世代:6名全員
  4. 反対にヨハン・セバスチャンの子供の世代:23名中21名
という非常な高率に上っている。
 どのような職種かというと、街音楽師、教会のオルガニスト、カントル、音楽教師、様々な楽器の奏者等多岐に渡っている。
 このように代々に渡って音楽に関する職業についているものが多いので、後世の間隔から言えば特異な遺伝的素因でもあるのかと思われがちではあるが、16〜18世紀頃の音楽家の置かれていた立場から言うと、芸術家というよりは一種の職人であり、もちろん音楽的素養がなくては勤まらないであろうが、それぞれ家業を継ぐという感覚で音楽関係の職業に従事していたものと考えられている。
 ヨハン・セバスチャン・バッハもその例外ではなく、ゆくゆくは音楽をなりわいとすることが自他ともに当然の諒解であった。そしてヨハン・セバスチャン自身がこのことを誇りに思いこそすれ、少しも疑ったことはなかったようである。
 このようにして音楽の道に進んでいった事は後々の音楽に対する考え方に対しても大きな影響をもってくる。この辺は別の機会に少し詳しく書いてみたいが、バッハの晩年になって、「バッハの音楽は彼自身ができるからといって高度な技術を全ての演奏者に求めているので演奏が難しい。」という主旨の批判が書かれたことがある。これに対して、間接的ではあるがバッハが答えた事として、「私のようなものでさえ勤勉と訓練とによってここまでこぎつけることができたのだから、そこそこの素質と才能をもっていさえしたら誰でも私と同じくらいになれるはずだ。」という趣旨のことを言ったとされている。つまり、素質より勤勉を重んずるということは、音楽においても、旋律の着想よりも構成的な仕上げを優位に置くということに繋がるといっている音楽学者もいる。
(ロ短調ミサ曲のような様式には不慣れで戸惑っておられる方も多いかと思いますが、作曲者自身が少しの素養と努力で誰でも演奏できるといっていますので頑張りましょう。)
 なお、蛇足であるが、バッハ一族には似通った名前が非常に多い。特にファーストネームがヨハンである男子が、この家系図に示されている男子53名中41名に上っている。クリスチャンネームも同じという同姓同名の人も何組かあり、例えば、ヨハン・クリストフ・バッハという人が10名もおり、親子ともヨハン・クリストフというのが4組あるという具合である。
 ちなみに、ヨハン・セバスチャン・バッハという名前はこの系図ではいわゆる大バッハだけであるが、その孫に同姓同名がいた。

2. 二人の妻
 バッハの子供たちについては別の機会に音楽史上での評価も含めて書いてみたいと思うので、ここではヨハン・セバスチャン・バッハの二人の妻について書くこととする。

(1) マリア・バーバラ
 最初の妻は、マリア・バーバラ・バッハといい、父親同士が従兄弟という親戚筋の結婚である。
 出会いは、バッハが1703年7月に18歳という若さでオルガニストの地位を得たアルンシュタットである。バッハは既に両親をなくしてから、14歳年長の長兄ヨハン・クリストフの世話になっていたが、早く独り立ちしようとして大学への進学を諦めてこの地位についたのである。一方、マリア・バーバラの方も1694年に父親を、1704年に母親を亡くし、当時はいわば孤児となって、伯父にあたるアルンシュタットの市長、マルティーン・フォルトハウスの世話になっていた。ヨハン・セバスチャンも親戚筋にあたることから、この市長の館に身を寄せており、そこで恋仲になったものといわれている。そして1707年にヨハン・セバスチャンがミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストに就任するに及んで婚約し、同年10月17日に結婚した。
 二人の間には男子5人、女子2人の計7人の子供が生まれたが、そのうち3人は夭逝している。成人した男子3人はそれぞれ音楽家として活躍した。
 マリア・バーバラはケーテン時代の1720年、ヨハン・セバスチャンが君主レオポルト公のお供でボヘミアに旅行中の留守中に、36歳で急死してしまう。従ってヨハン・セバスチャンは妻の死に目にも会えなかったことになる。
 ところでマリア・バーバラについては以上のような客観的なデータの他には人となりを忍ばせるような記述は、次男のカール・フィリップ・エマヌエルが書いた父親の伝記「故人略伝」に「彼(ヨハン・セバスチャン)はこの最初の妻と13年間満ちたりた結婚生活を送った。」と記している以外まったく伝わっていない。そこで性格等は類推するしかないわけだが、彼女の二人の息子が残した音楽の性格から、内向的で感受性の強いバッハとも共通点の多い女性であったのではないか、ヨハン・セバスチャンとの関係は、年齢が同じであったこともあり、対等で、気心の通じた遠慮のないものであったのではないかと推定する学者もいる。

(2) アンナ・マグダレーナ
 マリア・バーバラの死後、1年半ほど後に再婚した相手がこの女性である。父親はヴァイセンフェルスの宮廷のトランペット奏者で、彼女自身子供のころから声楽を学んでいた。年齢はヨハン・セバスチャンより16歳若く、ヨハン・セバンスチャンと出会い、結婚した1721年では20歳で、ケーテンの宮廷お抱えのソプラノ歌手として勤めていた。
 二人の出会いがどのようなものであったのか記録は残っていない。出会ってから結婚するまでは非常に短期間であったといわれており、1721年12月3日に結婚式を挙げた。アンナ・マグダレーナは結婚後もケーテンに住んでいた間は宮廷の歌手としても活躍していた。しかし、1723年にヨハン・セバスチャンがライプツィッヒのカントルに就任するに際して宮廷歌手を辞し、新しい土地でもカントル婦人という地位と習慣から公的な音楽活動から離れざるを得なかった。その代わりとでもいうようにこの年から次々と子供が生まれ、1723年から29年までの7年間は毎年、さらに1731年から42年までの間に6人、合計13人の子供を出産した。幼児死亡率の高い当時のことであるから、結局成人したのは6人であった。
 彼女は前述のように音楽家としても専門の教育を受けていたので、ヨハン・セバスチャンの良きサポーターとしての功績を残している。その大きなものはヨハン・セバスチャンが作曲した曲の浄書を行ったことであり、後には筆跡が夫のものとそっくりなものになったといわれており、晩年ヨハン・セバスチャンの視力が衰えてからは非常に大きな力になった。また、ヨハン・セバスチャンも音楽の面でも良き伴侶となった妻のために、結婚の翌年と3年後に音楽帖を送っている。これがアンナ・マグダレーナ・バッハの音楽手帳と呼ばれる物で、この中にはヨハン・セバスチャンが作曲したものの他、彼女自身の作品、息子の作品などが含まれている。ピアノや縦笛の入門段階の教則本に良く載っている可愛らしいメヌエットもこれに含まれている。また、この音楽帖に載っている曲を集めたレコードも発売されており、これを聞いてバッハの家庭に思いをはせるのも一興かとおもう。
 彼女の性格について直接的に記述した記録は内容であるが、先の学者は、彼女はバッハ家の人々とは対照的に、外交的で天真爛漫であったのではないかと推定している。また、彼は、彼女と結婚してから、ヨハン・セバスチャンが外の人たちと接する機会が増えているともいっている。
 このように幸せな結婚生活を送ったアンナ・マグダレーナであったが、1750年にヨハン・セバスチャンが死んでからは不遇な人生を送ることとなった。彼女自身が仕事につくことはなかったし、夫の年金もわずかなものであり、その上、既に音楽家として一家を成していた息子たちが援助した形跡もあまりない。むしろ、遺品の自筆楽譜などもさっさと分けてしまい、当時わずかながらでも行われていた楽譜の出版で資金をえるということも出来なかった。夫の死後、10年間生きたが最後は貧民として援助を受けながらその人生を終えたといわれている。
 ちょっと余談になるが、この点ではモーツァルトの未亡人となったコンスタンツェはまったく違った人生を送っている。コンスタンツェが夫と死別した後、夫の知人の援助も得て夫の作品で演奏会を開いてその入場料収入を得たり、夫の楽譜を出版してその印税を得たりしてそれなりの人生を終えている。また、演奏会では彼女自身も出演している。このような人生が送れた理由としては、夫と死別した時はまだ30歳という若さであったということもあるが、彼女がある種の商才ともいえる才能を有していたこと、そして何より時代が音楽家を独立した芸術家として認めるようになって来たということがあげられよう。さらに、再婚した相手のウィーン駐在のデンマークの外交官、ゲオルク・ニコラス・ニッセンが、妻の先の夫の偉大さをよく理解し、妻をサポートしたことも見逃せないと思う。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. バッハ 「知の再発見」双書58 ポール・デュ=ブーシェ著 1996年 創元社
  2. バッハ=魂のエヴァンゲリスト 磯山 雅著 1985年 東京書籍
  3. バッハの息子たち 久保田 慶一著 1987年 音楽の友社
  4. コンスタンツェ・モーツァルトの結婚 ヴィゴー・ショークヴィスト著 1993年 音楽の友社

バッハ研究
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