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バッハの人物像
(語録、手紙、評論等から)



 今まで色々書いてきましたが、バッハはどんなおじさんだったのか、その言葉や手紙、バッハに詳しい学者の言葉などをもとにもう一度まとめてみることにしました。
 バッハの手紙、特に私的なものはほとんど残っていませんのでモーツァルトのように手紙から音楽観や生活状況をうかがい知るということは難しいのですが、わずかな手紙と公式の文書、弟子達に言ったとされる言葉から人となりの一片を推し量っていただければ幸いです。

1. バッハ語録
(1) 音楽に係わるバッハの言葉
 まず、弟子達に語ったと言われる言葉の中から、音楽に対する考え方が伺えるものを紹介する。概していえることは決して自分には人と異なる天賦の才能が有るとは思っておらず、誰でも努力によって自分と同じようなことができるという考え方がうかがえる。
  1. 「私は懸命に働かなければならなかった。私と同じように懸命に働く人間は、だれでも同じように成功するだろう。」
    (J.N.フォルケルによる最初のバッハの伝記からの引用)
  2. 「通奏低音の究極の目的は、ただ神の栄光と、精神の再創造であることを銘記しておかなければ、真の音楽はあり得ず、地獄の苦しみだけが残る。」
  3. 「君は靴屋にでもなるべきだった!」
    (ライプツィッヒの聖トマス教会でのリハーサルで、ミスしたオルガン奏者に向かって投げつけた言葉。この際、自分のかつらを投げつけたと言われている)
  4. 「わたしは自分の(音楽的な)部分を、あたかもそれらが選ばれた仲間のようにともに語り合う人間であるかのように考えている。」
    (フォルケルによる)
  5. 「特に際立ったことなどなにもありません。正しいキーを正しい指で押すだけでいいのです。そうすればオルガンは自然に鳴ります。」
    (彼のオルガン演奏をほめられたときの返事)
  6. 「ただ勤勉に練習しなさい。そうすれば上手くいく。君は私の指とそっくり同じの健康な5本の指が両手に有るんだから。」
    (ある弟子へのバッハの言葉)
  7. 「どんなことでも可能にしなくてはならない。」
    (成就できないことは何一つないことを教えて。かつての弟子J.F.キルンベルガーが伝えたバッハの言葉)
  8. 「わたしは、オルガンがいい肺を持っているかどうかまず知らなければなりません。」
    (新しいオルガンを試奏するに当たっての言葉)
  9. 「あなたは自分の好きなようにオルガンを調律なさるが、わたしは自分の好きな調でオルガンを演奏します。」
    (ピアノとオルガンの製造家ゴットフリート・ジルバーマンに言った言葉)

(2) 生活に係わる言葉
 バッハとて人の子。妻子を養うためには稼がねばならず、その疲れを癒すためにはワインが大好物。そんな雰囲気の言葉を紹介する。
  1. 「ライプツィッヒの空気が健康的な日には、葬儀はいつもより少ないのです。」
    (葬儀の司式収入の減収を嘆く友人宛ての手紙)
  2. 「神のかくも尊い賜りもののごくわずかなしたたりが、むだになったのはきわめて残念です。」
    (いとこがバッハに送ったワインの樽に、輸送中に穴があき、こぼれてしまったことを、当のいとこに知らせた手紙)

2. 識者のバッハ評
 いつも参考にしている文献をすべて当たって統計でもとるとそれなりに論文になるが、時間、能力の制約があるので日本の現在の代表的な学者、演奏家の言葉で代表する。
 樋口隆一氏は「バッハ探求」のなかで‘もてなし上手’と述べている。これはドイツ語では〈ガスト・フロイントシャフト〉というそうで、〈もてなし上手〉あるいは自宅にお客を招いて接待することが上手と言うことをさすとのことである。
 次に再三登場いただいている磯山雅氏は「J.S.バッハ」(岩波新書)の中で、‘洋服を来た勤勉’、‘なみはずれた頑固さ’、‘名誉心’、‘倹約の美徳’、‘金銭への執着’等の言葉を挙げている。
 3番目に、最近出版された本で、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いて精力的に演奏活動を続けている鈴木雅明氏が、バッハの研究家加藤浩子氏と対談している、「バッハからの贈り物」という本を取り上げる。その中では、‘アマノジャク’、‘勝気’、‘試行錯誤を繰り返すバッハ’、‘実験精神旺盛’、‘生活者としてのたくましさと創造者のバランス’、‘バランス感覚’、‘家庭的’、‘生命力’等の言葉が掲げられている。

3. 決闘未遂事件
 まだ若いアルンシュタット時代の1705年(20歳)、当時、オルガニストを努めていた新教会で、カントールの職務もかねざるを得ない状況にあったことから生徒達の資質の低さと素行の悪さで頭を悩ましいたある日に起こった事件である。
 妻となるマリア・バーバラの姉のバルバラ・カタリーナを伴って町を歩いていた時、ファゴット担当のガイアースバッハと言う男が、バッハが彼を侮辱したといって殴りかかってきた。これに対してバッハは剣を抜いて応戦したが、他の生徒達やカタリーナが割って入り、二人は引き分けられて事なきを得た。
 聖職会議がことを重視して二人を喚問し、その際、バッハに対して「人間はいろいろな欠点を抱えて生きているのだから、生徒達と妥協し、お互いにいやな思いをさせ合わないようにしなくてはだめだ。」という忠告を与えたと言う。磯山雅氏は「われわれ凡人にはしごく当然と思われるこの忠告をバッハが諒解していれば、のちの彼を苦しめた多くのトラブルは、起こらなかったであろう。だがバッハは、いいかげんな態度で音楽をする者を、どうしても許すことができなかった。それがバッハの、音楽家としての良心であり、そんなバッハから、数々の名作もまた生まれたのである。」と述べている。

4. バッハ語録
 冒頭にも書いたように、私信はほとんど残っていない。また、市等の当局に提出した文章は堅苦しく長いので、面白そうなところだけ抜き出して紹介する。

(1) ミュールハウゼンの市参事会に提出した辞職願い
 1707年(22歳)から1714年(29歳)までオルガニストして活躍し、また、最初の妻マリア・バーバラと結ばれた地であるミュールハウゼンを去るに当たって、当局に出した文書である。自分の理想とする音楽の実現に努力していることを訴えるとともに抵抗勢力にも苦慮していることを訴えた上で、経済的事情でより条件の良いところへ転職したいとしている。
「 (前略) 派手な暮らしを送っているわけではありませんのに、家賃の支払いやその他、必要欠くべからざる出費のため、私の生活は困窮をきわめているのであります。
 さて、こういった状況のなかで、神は私に思いがけない地位を与えてくださいました。私はそこでこれまで以上に生活を安定させ、自分の職務をまっとうできると思っております。 (中略) というのも、ありがたくもザクセン=ワイマール公殿下がこの私に宮廷礼拝堂及び宮廷楽団に入ることをお許しくださったのです。
 それゆえ、私は多大なる経緯をもって、恵み深き保護者の皆様方にこの件をお伝えするとともに、これまで私が教会のために果たしてきた慎ましい奉仕を考慮していただき、辞職の許可を与えてくださるようお願い申し上げる次第であります。(略)
ヨハン・セバスチャン・バッハ
ミュールハウゼン、1708年6月25日」

(2) 『整った教会音楽のために』
 1730年にライプツィッヒの市参事会に提出した有名な上申書である。一寸長くなるが、ライプツィッヒは、200曲を超えるカンタータ、ヨハネ、マタイ等の受難曲、クリスマスオラトリオそして《ロ短調ミサ曲》を書き、《ロ短調ミサ曲》を除き実際にバッハ自らが指揮していた地である。そのライプツィッヒの音楽事情、それに対してバッハ自身が求めていた音楽的環境を知る上で貴重な資料なので掲げてみる。なお、同じような教会音楽の理想像を求めて環境整備を求める文書は、ミュールハウゼン時代にも出されている。
 「(前略)教会音楽の合唱が適切に行なわれるためには、歌手たちはさらに、独唱者と合唱者のふたつの種類にわけられなければならない。独唱者は通常4人であるが,二重合唱の曲を歌う場合には5人、6人、7人、そして8人になることもある。合唱者のほうは各声部に2人で、最低でも8人必要である。楽器の演奏者のほうもいくつかの種類にわけられる。すなわち、ヴァイオリン奏者、オーボエ奏者、フルート奏者、トランペット奏者、ティンパニ奏者である。
 聖トマス教会付属学校の生徒の数は55人である。この55人は4つの教会に対応する4つの合唱隊にわけられカンタータやモテット、コラールを歌わなければならない。また、聖トマス教会、聖ニコライ教会、新教会の3つの教会では、生徒たちは全員音楽の素養がある者でなければならない。残りかす、すなわち、音楽の才能がなく、かろうじてコラールが歌えるくらいの者は聖ペテロ教会で用いられる。
 さて、歌手たちのひとりが病気になった場合のことを考えると(校医が薬剤師に送った処方箋を見ればわかるとおり、特にこの季節ではそういったことが起こりうる)、それぞれの合唱隊〔聖トマス教会,聖ニコライ教会,新教会の合唱隊〕には、3人のソプラノ、3人のアルト、3人のテノール、そして同じ数のバスがそろっていなければならない(注記:欲を言えば各声部に4人、したがって各合唱隊が合計16人のメンバーで構成されるようになるのが望ましい)。この結果、〔各声部を3人とすると、3つの教会の合唱隊で〕音楽の素養のある者は36人必要である。
 一方、楽器の演奏者は次のような構成になってしいる。第1ヴァイオリン2人から3人。第2ヴァイオリン2人から3人。第1ヴィオラ2人。第2ヴィオラ2人。チェロ2人。コントラバス1人。オーボエ必要に応じて2人から3人。ファゴツト1人から2人。トランペット3人。ティンパニ1人。
 したがって,楽器の演奏には最低でも18人は必要だということになる。(注記:もしその教会音楽がフルート〔ブロックフレーテ,またはトラヴェルソ〕を含む形で作曲されていれば〔変化を与えるため,そういった例はきわめて多い〕),さらに2人が加えられる。そうすると,必要な人数は20人ということになる)。
 ところで、現在、教会音楽のために雇われている楽器の演奏者は、町楽師が4人、弦楽師が3人、徒弟が1人の合計8人である。この人々の音楽的な知識や演奏の質については、礼儀上、ここで言うのは憚られる。しかし、そのうちのある者たちは引退が近く、またある者たちは必要な練習を行なっていないことを考慮に入れる必要がある。
 (略) こうしたことを考えると、必要な人員が不足しているのは明らかである。この不足は現在までのところ、大学生や学校の生徒たちによって補われてきた。大学生たちは喜んで協力してくれたが、その協力が給費にしろ、謝礼にしろ(かつてはそれが習憤であったように)、いつか見返りがあることを期待してなされていることは言うまでもない。しかし、そういったことは行なわれず、その反対に、以前はコルス・ムージクス(音楽隊)に支払われてきたわずかな寄付金さえなくなってしまった。そうなれば、大学生たちの熱意が失われるのも当然である。いったい、誰が無償で働いたり、奉仕したりするだろうか? また、このように有能な人材が不足しているため、第2ヴァイオリンについてはほとんどの場合、またヴィオラとチェロ、コントラバスの場合は常に、聖トマス教会付属学校の生徒を楽器の演奏にあてなければならない。その結果、合唱から多くの人員が奪い去られることは容易に想像できるであろう。
 −(中略)− さらに重要なことは、これまで聖トマス教会付属学校が、音楽の才能に乏しく、また教育にも向かない生徒たちを多数採用してきたために、必然的に音楽の質が低下してきたということである。
 −(中略)− ところが、当時とは音楽の状況がまったく異なり、技術ははるかに進歩し、趣味も変化しているというのに、また、旧来の音楽は我々の耳を楽しませることができず、その結果、私たちは少しでも現代の音楽を理解し、新しい分野の音楽に適応して作曲家とその作品を満足させることのできる演奏家を選ぶ必要に迫られているというのに、コルス・ムージクスに支払われてきた寄付金は増額されるどころか減らされているのである。
 −(中略)− ところが、当地では報酬については考慮されず、音楽家たちは日々の暮らしを心配しながら活動を行なわなければならない。これでは自分の音楽を完成させるどころか、腕を磨くことさえできないのも当然である。−(後略)−
ラィプツィヒ、1730年8月23日」

(3) エルトマンに宛てた手紙
 上の手紙の少し後に、かつてリューネブルクを目指した旧友で、ロシア皇帝の大使としてダンチヒに住んでいたエルトマンに宛てた手紙を紹介する。上のような事情もあってライプツィッヒでのカントールの職に嫌気が差し、さらに良い職場を求めて就職の斡旋を依頼しているのである。
 一時期はライプツィッヒ時代のバッハは福音史家の如く、ただひたすらに教会音楽に奉仕するかの如く理解された時期もあったが、最近ではこういった手紙やコレギウム・ムジクムで世俗音楽の面でも活躍したことから、1730年代以降は決してカントールの地位に満足していたわけではないという理解が一般的になっている。その見解をさらに進めて教会音楽そのものに否定的になったという学者もいるが、この時代に書かれた作品からみるとそうではないという見解が有力である。
 「−(前略)− 神は私に当地の音楽監督兼聖トマス教会付属学校のカントルになることをお望みになりました。しかし、最初のうち私は宮廷楽長からカントルになることに気が進まず、3カ月も決心を延ばしていました。ところが、この地位はたいへん条件がよいということを聞き、また息子たちも大学教育を望んでいるようでしたので、神の御名によってついに心を決めてライプツィヒに参り、試験を受けて、生活の変化を受け入れたのです。そして、今もなお神の御心によって、この地にとどまっております。しかしながら、現在、私は、(1)話に聞いたほど、この地位は経済的に恵まれていない、(2)多くの臨時収入が失われた、(3)当地の物価が高い、(4)当局者の態度は不可解で、しかも音楽を大切にしない、その結果、絶えず妬みと嫌がらせと苛立ちのなかで生活しなければならない、といった理由でやむを得ずほかの地に幸運を求めなければならないことになりました。そこで、もし閣下が御地で適当な地位をご存じでしたら、古き忠実な僕である私のために推薦していただけないでしょうか。そうしていただけましたなら、閣下の恵み深いご推薦にお応えすべく、私のほうは全力を尽くすつもりでおります。−(後略)−

   閣下の忠実で心なる僕
ヨハン・セバスティアン・バッハ  ライプツィヒ1730年10月28日」
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅、1985年、東京書籍
  2. 「バッハ探求」 樋口隆一、1993年、春秋社
  3. 「バッハ」 ポール・デュ=ブーシェ、1996年、創元社
  4. 「J.S.バッハ」 磯山 雅、1990年、講談社現代新書
  5. 「バッハとの対話」 小林義武、2002年、小学館
  6. 「カンタータ研究」 樋口隆一著、1987年、音楽の友社
  7. 「バッハ−伝承の謎を追う」 小林義武著、1995年、春秋社
  8. 「バッハからの贈り物」 鈴木雅明、加藤浩子、2002年、春秋社

バッハ研究
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