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バッハの生涯概観


 今回は大仰なタイトルを掲げましたが、居住地、職業、主な作品といった、文字通り概観を書いてみたいと思います。詳しく読んでみたいと思われる方は、末尾に示す文献を読んでください。残念ながらドイツにはほとんど行ったことが無いので、土地の状況等もすべて文献からの引用です。見てきたような嘘があってもご容赦ください。
 なお、家族のことを書くと「バッハ」だらけになるのですが、「バッハ」と書いている場合は、ヨハン・セバスチャン・バッハ、即ち我等の主人公と理解してください。

1. アイゼナハ(誕生から両親との死別まで;0歳《1685》〜10歳《1695》)
 バッハは、1685年3月21日、ドイツ中部の町、アイゼナッハで生まれた。このアイゼナッハという町は、後々ヴァーグナーの歌劇「タンホイザー」の歌合戦の舞台になるヴォルトブルク城を仰ぎ見る場所にある。
 父親ヨハン・アンブロジウス・バッハは、アイゼナッハの町音楽師でヴァイオリン奏者であったが、宮廷楽団ではトランペットも受け持ったと言われている。母親エリーザベトについての詳しい事は伝わっていないがその家庭環境や血筋から見ると音楽的素養は有ったようである。
 バッハはこの両親の末っ子、第8子として生まれた。子供の頃から母親に連れられて教会に通い、そこで父親や、父の従兄弟のヨハン・クリストフ・バッハの奏するオルガンも度々聞いた。特にこの父の従兄弟がバッハの音楽家としての生き方に大きな影響を与えたといわれている。
 1692年には教会のラテン語学校に入学するとともに、ボーイソプラノとして教会で歌うようになり、ここで数多くの多声音楽(ポリフォニー)に触れている。なお、バッハはボーイソプラノとして非常に綺麗な声の持ち主だったといわれている。
 1694年5月、バッハが9歳の時、母親が死亡する。父はその年の11月にアルンシュタットの市長家の出身であるバルバラ・マルガレータという女性と再婚するが、その父親も1695年2月に急逝する。
 義母バルバラは家を明渡してアルンシュタットへ帰らざるをえなくなったために、子供達はどこかに身を寄せる必要が生じ、存命中の兄弟では一番年長で、バッハからみると14歳年上のヨハン・クリストフ・バッハ(先の同名の親戚とは別人。1671〜1721)がオルガニストを勤めているアイゼナッハの当方の小さな村、オールドルフに向かう。

2.オールドルフ(長兄のもとでの勉学時代:10歳《1695》〜15歳《1700》)
 14歳も離れているとそもそもほとんど一緒に暮らした事がなかったようである。また、長兄は結婚したばかりで、その新婚家庭に居候する事になったわけで窮屈な思いも有ったと推測される。(一緒に移った弟は早々にアイゼナッハに戻ってしまっている)
 しかし、バッハは、ここでもレベルの高さで定評のあるラテン語学校に通い、ルター派正統派の宗教教育を受けるとともに、音楽も重要なカリキュラムとなっていたこともあって、合唱隊に属した
 また、ここで長兄と一緒に暮らす中で長兄からクラヴィーアの手ほどきを受け、こちらの方も長足の成長を見せたといわれている。当時のエピソードとして有名なのが、兄はフローベルガーやパッヘルベル等のクラヴィーア曲の楽譜を所有していたがバッハには自由に見る事を許さなかった為に、バッハは皆が寝静まった夜にこれらの楽譜を持ち出し、月明かりを頼りに写し取ったというのがある。この苦労して作成した楽譜も兄に見つかって取り上げられたといわれている。また、この時の目の酷使が最後になってバッハが失明する遠因であったという人まである。このエピソードの真偽の程は別として、バッハはこの兄に世話になったことには深い感謝の念を抱いており、後年クラヴィーア曲「《カプリッチョ ホ長調》『ヨハン・クリストフ・バッハを賛えて』」(BWV993)を書いている。
 このように兄の家の世話になっていたが1700年(15歳)には兄に3人目の子供ができることとなり、何時までも世話になっているわけにも行かず、新たな受け入れ先を探し、リューネブルクの聖ミカエル教会が給付付きの合唱団員を募集しているのに応募することになる。

3. リューネブルク(オアルガニストへの転機:15歳《1700》〜18歳《1703》)
 ここまでバッハが生まれ、活動してきた土地はチューリンゲン地方で、内陸部で、起伏にとむ土地柄であるが、リューネブルクは平原の海に近い土地で、バッハ15歳にして異なった文化風土の土地に移ったといえる。
 バッハが入ったのは教会附属のミカエル学校で、やはりルター派正統派の教育が行われていた。ここでバッハは、声は美しいが学費が払えない生徒15名ほどからなる合唱団に属し、修道院に寄宿するとともに、若干の生活費を受けるという生活を送ることになる。
 この教会には17世紀の教会音楽の楽譜がオールドルフよりもさらに豊富に所蔵されており、バッハの音楽体験を深める事となる。
 ところが、バッハがこの土地に移った時が15歳であり、間もなく変声期を迎えて合唱団では歌えなくなった。暫く器楽奏者として学校に留まる事が許され、この間にオルガニストとしての技術に磨きを掛けていったといわれている。
 このリューネブルクには、もう一つ聖ヨハネ教会という教会があり、当時高名であったゲオルク・ベーム(1661〜1733)がオルガニストを勤めていた。さらに、ハンブルクもリューネブルクに近く、バッハも訪れているが、この地の聖カタリーナ教会ではラインケン(1623〜1722)のオルガン演奏に触れ感嘆したといわれている。
 このようにリューネブルクで暮らした時期は、オルガニストとして成長した時期と言えるようであり、この頃からオルガン曲やクラヴィーア曲を幾つか作曲していたようである。ただ、この頃の曲は正確な作曲時期の不明なものが多い。
 さらにリューネブルクの隣にツェレという町があり、この地の領主がフランス風の文化生活を営んでいた事から、音楽面でもフランス人からなる宮廷楽団を擁してリュリ(1632〜1687)等の流れを汲む音楽家が活躍しており、バッハもここでフランス音楽に接して後々の音楽様式を広める事に繋がったといわれている。(因みに当時のドイツは音楽的には後進地域といってもよく、イタリアとフランスが先進地域であった。)

4. アルンシュタット(初めてのオルガニスト時代:18歳《1703》〜22歳《1707》)
 正確にはアルンシュタットに移るまでの間に半年ほどヴァイマールの宮廷楽団でヴァイオリンないしヴィオラを担当した期間があるが、煩雑になるので省略する。
 1703年、統一前には東独に属した古い町、アルンシュタットの新教会で新しいオルガンが完成し、バッハはその試験演奏の奏者の一人として招かれ、そこで見事な腕前を発揮して高給で同教会のオルガニストに任命された。
 職務は週3回礼拝に出て主としてコラールの伴奏をするという程度で、バッハにとっては軽すぎるようなものであったが、空いた時間をゆっくりと自分の勉強に当てることができた。ただ、本職のオルガニストとしての職務の他に、新教会のカントル(教会の音楽監督)が不在のため、日曜・祝日の礼拝にラテン語学校の生徒の合唱隊を指揮する必要があった。この教会がその地では3番目の位置づけであったため、回されてくる生徒の質はかなり悪く、バッハは何度か怒りを爆発させたといわれている。
 この地でのオルガンに関する有名なエピソードとして有名なものにリューベック旅行がある。
 当時、アルンシュタットから400 kmほど離れたリューベックでは音に聞こえたブクステフーデ(1637頃〜1707)が聖マリア教会でオルガニストを勤めており、バッハは、アルンシュタットでのいざこざに嫌気がさしていたこともあり、新たな刺激を求めて4週間の休暇をとって1705年初冬にリューベックに向かう。そこでブクステフーデの音楽に魅了され、滞在期間は4ヶ月に及んでしまう。また、この時、ブクステフーデから後継者にならないかとの誘いがあったが、30歳になる娘と結婚することが条件であったため断わり、1706年2月にアルンシュタットにもどる。(余談だが、この条件は他に複数の著名な音楽家も断ったとのことである。)
 バッハは、アルンシュタットに帰任後、直ちにリューベックでの体験を教会でのオルガン演奏に反映させたため、会衆はビックリ。それでなくても無断で休暇を延長したことで怒っていた教会から、激しい非難を浴びることになる。しかし、このリューベックでの経験は、その後のバッハのオルガン曲にもに大きな影響を与えたといわれている。この頃から本格的に作曲を行っており、オルガン曲が中心になっているが、中でも有名な「トッカータとフーガ・ニ短調」(BWV565)がこの時期に作曲されており、前述のブクステフーデの影響を強く受けた事例とされている。
 なお、こちらで紹介したとおり、この地でバッハは最初の妻、マリア・バーバラと出会うことになる。

5. ミュールハウゼン(本格的な教会音楽家として:22歳《1707》〜23歳《1708》)
 今回の転勤もオルガニストに応募したことによる。
 1707年の復活祭にミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストの後継者の試験に合格し、前任のアルンシュタット以上の好条件で採用される。そして、ミュールハウゼン着任後、マリア・バーバラとの結婚式を挙げる。
 音楽的に見て、ミュールハウゼン時代の意味は、教会カンタータの作曲を始めたことで、現在この時期に作曲されたといわれているものが数曲ある。
 しかし、より充実した教会音楽を確立したいとするバッハは市当局と相容れず、結局1年程で次の職場に移っていくことになる。

6. ヴァイマール(宮廷オルガニストとして;23歳《1708》〜32歳《1707》)
 1708年、ヴァイマール宮廷が新しいオルガニストを求めていたのに応募して、6月にミュールハウゼンの市当局に辞表を提出し、ヴァイマールで「宮廷音楽家兼オルガニスト」の地位に就く。当時ヴァイマールの君主はヴィルヘルム・エルンスト公(1662〜1728)で文化面の理解が深いとともに信仰心の篤い人物であった。ここでもさらに前職よりも良い報酬を得ることになる。
 職務の内容はオルガニストのほか、ヴァイオリン、ヴィオラやチェンバロの演奏も受け持った。こう書くと多忙のように見えるが実際にはかなり自由な活動が許され、他の宮廷や他の町に出かけていってオルガンを演奏することも可能で、このため、オルガニストとしての名声はドイツ各地に広く広まった
 また、この頃、ヨーハン・エルンスト公子がオランダで仕込んできたことから、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲がヴァイマールにも紹介され、公子が協奏曲を1台の鍵盤楽器で演奏することに興味を覚え、バッハや他の宮廷音楽家にヴィヴァルディ等の協奏曲を編曲することを命じ、その結果、バッハの場合には6曲のオルガン協奏曲、17曲のチェンバロ協奏曲が生まれている。
 1712年、またまた近くの町ハレでオルガニストに空席ができた。この町のオルガンはヴァイマールのものよりも立派で、バッハもオルガニストに応募し、当局側も採用を決めたが、収入面ではヴァイマールよりも悪く、バッハは迷うことになる。ところが、バッハが新しい職場を求めていることを知ったヴァイマールの宮廷側が引き止めを図り、昇給させるとともに楽師長(宮廷楽団のコンサートマスター)に昇進させるという措置をとった。コンサートマスターといっても今と違い指揮をする役割も持っており、加えて毎月1曲ずつカンタータを作曲するという義務も負っていた。
 この時期の作曲の中心はオルガン曲で、他にクラヴィーア曲とカンタータが数曲となっている。バッハのオルガン曲は作曲年代の特定が難しいものが多いといわれているが、この時期で特筆すべきものとしては、オルガン・コラールという様式が出てきたことで、これはプロテスタントの賛美歌(コラール)の旋律に、自由な発想による伴奏を付けたような比較的短い曲ではあるが、ある評論家によれば後々のドイツリートにも繋がっていくものとも言われている。
 カンタータの方は、後のライプツィッヒ時代のものに比べると独唱や重唱の占める割合が高いことと、一方で、歌詞は従来は聖書から直接とっていたものが、この頃から聖書に基づきながらも自由な作詞者の作ったものを用いるようになっている。
 この地ではヴァルター(母方の親戚、1684〜1748)やテレマン(1681〜1767)という良い友人を得たことが特筆される。なお、バッハの生前はテレマンの方がはるかに有名だったといわれている。

7. ケーテン(宮廷楽師長として。室内楽の全盛期;32歳《1717》〜38歳《1723》)
 ケーテンへの移籍についてもエピソードがある。
 そもそもヴァイマールの宮廷で老齢の楽長が死亡したため、バッハはそのポストを望んだが果たせずに失望していたところへ、ヴァイマール宮廷と親戚関係にあったケーテン侯レオポルト(1694〜1728)が楽長に招聘し、バッハも喜んでそれに応じることとし、ヴァイマール宮廷に辞表を出した。ところが、ヴァイマールのヴィルヘルム・エルンスト(1662〜1728)はそれを許さず、反対にバッハを拘禁するという挙に出たのである。1ヶ月足らずの拘禁生活の後漸く解任され、ケーテンに移ることができた。
 当時のケーテンの宮廷楽団(「コレギウム・ムジクム」と呼ばれた)には16人の優れた器楽奏者がおり、バッハはこのメンバーを自由に使える立場に立った。この結果、数多くの器楽曲が生まれることになる。その一方で、領主の誕生日や新年といった宮廷の祝賀の日等に演奏する目的で、世俗カンタータの秀作が多く生まれることにもなる。なお、これらの「世俗カンタータ」は現在当時のままでは伝わっていないものが多いが、後にライプツィッヒ時代に教会カンタータに転用され、これらの曲を通じて原形が偲ばれている。ところでロマン派辺りの感覚で言うと、「世俗音楽」を「宗教音楽」に転用するのは抵抗感が有るかもしれないが、そもそもバッハにとって「世俗音楽」と「宗教音楽」を区別することは意味があるのかという問いは、バッハの音楽を理解する上で重要なポイントであり、別の機会に触れたい。
 「コレギウム・ムジクム」は毎週バッハの家に集まって練習し、この関係もあって、この時期には協奏曲が数多く作曲された。一説には50曲に上るといわれているが、当時のままの形で残っているものは少なく、むしろ、次のライプツッヒ時代に違った形の協奏曲に編曲された形で残っている。この時期の協奏曲の代表作としては「ブランデンブルグ協奏曲」(BWV1046〜1051)が挙げられる。その他、2曲の「バイオリン協奏曲」(BWV1041,1042)、「2つのヴァイオリンのための協奏曲」(BWV1043)がある。また、4曲ある「管弦楽組曲」のうち第1番(BWV1066)と第4番(BWV1069)がこの時期の作曲の可能性があるといわれている。
 この時期には無伴奏の器楽曲にも多くの名作が生まれており、カザルスの演奏で蘇った6曲の「無伴奏チェロ組曲」(BWV1007〜1012)の他、ヴァイオリンソナタ、フルートソナタ等、また、通奏低音の伴奏つきのヴァイオリンソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバソナタ、フルートソナタ等、著名な室内楽曲の相当部分がこの時期に作曲されている。
 もう一つのこの時期の作品として、音楽史上忘れられないのが、この時期から子供たちの教育のために書かれたクラヴィーアの練習曲で、やがてそれらはクラヴィーア曲集として記念碑的な名作に発展していくことになる。
 まず、1720年にバッハは1冊の音楽帖を書き始める。これは長男のフリーデマンが9歳になってクラヴィーアの練習を始めさせるために書かれたもので、長男の成長とともに充実されていったが、やがて「インヴェンションとシンフォニア」(BWV772〜801)と「平均率クラヴィーア曲集第1巻」(BWV846〜869)に発展していく。この他に、クラヴィーア曲としては「フランス組曲」(BWV812〜817)等がこの時期に書かれている。
 ケーテン時代はバッハにとって最初の妻のマリア・バーバラの突然の死とアンナ・マグダレーナとの再婚という大きな出来事が起こっているが、音楽の面から見ると、この2番目の妻のために書いた「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽手帳」も家庭人としてのバッハ、教育者としてのバッハを知る上で貴重な資料であるとともに、それ自身聞くものの心を和ませる珠玉の作品となっている。
 「世俗カンタータ」として、現在も当時の形で伝わり、よく演奏されるものとしては、「結婚カンタータ」(BWV202)、「狩のカンタータ」(BWV208)が挙げられる。(私事で申し訳ありませんが、202番のカンタータは小生が35年前、高校生の頃に初めて聞いたバッハのカンタータで、この頃からバッハの声楽曲に興味を持ち始めたのです。)

8. ライプツイッヒ前半(カントルとして多作の時期;38歳《1723》〜45歳《1730》ころまで)
 このように充実した時を過ごしたはずのケーテンもやがてバッハは去りたいという気持ちを抱くようになる。それは、バッハがアンナ・マグダレーナと再婚した直後に、レオポルト公が結婚したが、この相手の奥方が音楽にはまったく興味を示さず、それに影響されてか公自身も今までほど音楽に関心を示さなくなったことが原因である。
 1722年にライプツィッヒ・トーマス教会のカントール、ヨーハン・クーナウ(1660〜1722)が亡くなり、一旦はテレマンが後任に決まったが、テレマンが辞退したことからバッハが応募することになる。
 決定するまでには若干時間を要したが、1723年5月にカントールへの就任が決定した。
 カントールというのは前にも書いたように、聖トーマス教会付属学校の教師と市の音楽監督という二つの性格をもっており、非常に多忙な職務であった。
 教師としての職務は生徒たちの声楽と器楽の指導のほかに生活指導も含まれていた。一方、市の音楽監督としては、市内の主要教会の音楽を司るのが職務で、当時ライプツィッヒには、聖トーマス教会の他、これに匹敵する格の聖ニコライ教会、それに新教会、聖ペテロ教会の計4つの教会があった。これら4つの教会の日曜・祝日の礼拝のために、聖トーマス教会の55名の生徒を能力別に派遣した。バッハ自身は一番能力の高いメンバーで構成された聖トーマス教会のメンバー(第1聖歌隊)を指揮してカンタータを演奏するのが主要な任務であった。この第一聖歌隊は選り抜きのメンバー12〜16名の合唱団とこれよりやや多い人数の器楽奏者が伴奏した。ただ、専任の器楽奏者は必要数を満たさず、上級生を器楽に廻すとか大学生の応援を得る等のやり繰りで演奏していた。合唱団の方はこの人数であるから、それぞれのパートは3〜4名で、ソロも合唱団の中の誰かが担当していた。
 バッハは就任後5年間はそのカンタータを毎週作曲したと言われている。従ってこの間に作曲された教会カンタータは約300曲あったことになり、このうち現在も約140曲が残っている。現在残っている教会カンタータの総数は約200曲なのでその7割を占めることになる。
 このような頻度で作曲する必要があるので以前に作曲した声楽曲のみならず、器楽曲から転用したものもの数多くある。しかし、転用(パロディー)は決して手抜きではなく、それぞれ、その曲が歌われる日の宗教的な内容の歌詞をつけるに相応しい音楽が選ばれている。CDで立て続けに聞いていても決して飽きさせない多様性に満ちた曲が次々と登場し、感嘆させられるものが多い。(著名なものを10曲程度集めたCDも出ているので、バッハの音楽に取り組むのを機会に是非一度聴いて見られることを勧めます。)
 また、この時期のカンタータはいわゆるコラール・カンタータが多くなる。これはルター派の賛美歌、即ちコラールに題材をとり、全曲が一つのコラールの歌詞と旋律から導き出されるというもので、ある意味では作曲の効率化のために考え出した方式かもしれない。
 それに合唱が活躍する曲として、数は少ないがモテットもこの時期に書かれている。モテットはトーマス・カントールの任務の一つであった葬送のための音楽として作曲されたもので、現在、我々がロ短調ミサ曲とともに取り組んでいるコラール「Jesu, meine Freude」も、このような目的で作曲された「モテット第3番」(BWV227)の一部である。
 さらにこの時期には大規模な声楽曲も書かれており、落とせないのが受難曲である。ミサでは聖職者が福音書のその日に関連する部分を朗読するが、受難週のミサでは、イエスがエルサレムに入場してから、ゴルゴダの丘で十字架上に死ぬまでの様を朗読することになる。この部分に作曲したのが受難曲で、1724年に「ヨハネ受難曲」(正式には「ヨハネ伝による受難曲」、BWV245)が、そして1727年に「マタイ受難曲」(「マタイ伝による受難曲」、BWV244)が初演されている。どちらの曲もその後、何度か手が加えられている。これらの大曲も基本的には先に書いたような人数の編成で演奏されたのである。当時の演奏者のレベルがよほど高かったのか、礼拝での演奏としてはある線で許容されていたのか、今となっては分からないが、昨今の演奏をバッハが聞いたらどんな反応を示すだろうか。
 バッハは他にも「ルカ受難曲」(BWV246)「マルコ受難曲」(BWV247)をこの時期に書いているが、前者は他の作曲家に加筆したもの、後者は歌詞しか残っておらず、今日では普通の形で演奏されることはない。
 この他に、「クリスマスオラトリオ」(BWV247)と「復活祭オラトリオ」(BWV249)もこの時期の作品であるが、これらは他の作曲家(例えばヘンデルやハイドン)が書いたストーリーのあるオラトリオ「メサイヤ」、「天地創造」等とは異なり、カンタータの形式をもつものである。ただ、「クリスマスオラトリオ」は、クリスマスから新年にかけての6日間の礼拝で用いられるように6曲のカンタータからなっている点が他のカンタータにない特徴である。
 1720年代の後半になると、カンタータの数がめっきりと減る。この原因は、協会の監理者といざこざがあったことと、学生団体の「コレギウム・ムジクム」から指揮者に招かれ、いわゆる世俗曲へ力を注いだことが挙げられている。この団体との活動の中で、管弦楽組曲第2番と第3番が生まれている。
 また、この時期、ドレスデンへも何度か出かけ、新しい音楽に触れて世俗カンタータに反映し、少し後のことにはなるが「コーヒーカンタータ」(BWV211)や「農民カンタータ」(BWV212)等、今もよく知られた曲が誕生することになる。

9. ライプツィッヒ後半(ラテン語に傾倒する時期、ドレスデンの宮廷作曲家も兼ねる;45歳《1730》頃〜65歳《1750》)
 ライプツィッヒ時代を区分する明確な定義があるわけではない。また、記述している内容も相互に時期が重なっているものもある。
 しかし、声楽曲に関して非常に注目すべきことはドイツ語の作品が影をひそめ、数は少ないがラテン語の作品が出てくることを特徴として、大きく傾向が変わるので筆者が勝手に区分したものである。
 ラテン語の作品が増えてくることについて定説はないが、一つには、1720年代の終わり頃からライプツィッヒで教会の監理者や市参事会とのいざこざが増え、いわば、箔をつけるために、ザクセン侯の「宮廷作曲家」の称号を望んでおり、ザクセン侯がカソリックであったことからラテン語の曲を書いたという現実的な見方がある。
 音楽的な見方としては、バッハは大量生産によって同じような曲を作ることを嫌っており、そういう点からはドイツ語のカンタータの作曲に行き詰まりを感じていたのではないかとか、ドイツ語が時代の影響を強く受けるのに対しラテン語は時代の影響を受けにくく恒常的なものであることに惹かれたとか、バッハ自身が時代とともにルター派とカソリックという区別をあまりしなくなって来た等の理由が挙げられている。
 ラテン語の作品として残っているものでは、1723年に書かれた「サンクトゥス」(BWV238)と「マニフィカト」(BWV243a)があるが、後者は後に書き直された形で、今でもバッハの代表的な声楽曲の一つとして有名なものである。
 この辺で「ロ短調ミサ曲」の原型も登場することになる。バッハは、「ロ短調ミサ曲」に発展する『キリエ』、『グローリア』を1733年にザクセンの新選定侯フリードリッヒ・アウグスト2世に献呈し、「宮廷作曲家」の称号を賜ろうとするが、この時は不首尾に終わる。その後もいろいろと機会を捉えてカンタータを献呈する等の努力の結果、漸く1736年ザクセン侯宮廷作曲家となる。
 引き続き4曲のミサ曲(ルター派の礼拝用なので、いずれも「キリエ」と「グローリア」のみ。BWV243〜246)がこの時期に作曲されるが、かつて作曲された教会カンタータからの転用がほとんどの部分を占める。なお、「ロ短調ミサ曲」でもかなりの部分が過去に作曲したカンタータからの転用である。
 ライプツィッヒの後半に作曲された曲には今日も有名なものが多く、「ゴールドベルグ変奏曲」(BWV988)、「音楽の捧げもの」(BWV1079)、「フーガの技法」(BWV1080)といった大作がある。これ以外にもオルガニストではなかったが再びオルガン曲が書かれるようになり、「シュープラーコラール」(正確には「種々の技法による6つのコラール」(BWV645〜650))、「17のコラール集」(BWV651〜667)等が残っている。

 さて、いよいよ晩年になったが、それではバッハの最後の作品は何か。この点については学者の間でも結構議論が行われてきたことで、従来は未完に終わっている「フーガの技法」という説が有力であったが、最近は、「ロ短調ミサ曲」の後半、即ち、「クレド」以降の「サンクトゥス」を除く部分であろうとの説が出ている。
 研究の結果、「フーガの技法」の作曲はもっと早い時期の終わっており、バッハが衰えていく視力と戦いながら、当時としては高齢といえる60歳を超える年齢に達して、おそらく死期が近づきつつある事も意識しながら書き進めたのではないかとの説が出ている。このように考えると、年齢はずいぶん違うにしても、モーツァルトが死を意識しながら「レクイエム」を書き進めたのと会い通じるものがあるのかもしれない。
 現在我々が演奏している形の「ロ短調ミサ曲」の成り立ちについては諸説あるので、別の機会に詳述したいと思うが、掻い摘んで言えば、晩年になってカソリックのミサ通常文全体を通した形のミサ曲を完成させたいと思い立ち、その「キリエ」と「グローリア」に1733年にザクセン選定侯に献呈した「キリエ」と「グローリア」を取り入れ、その他の曲も過去のカンタータ等から転用しながら一部に新作を入れて纏め上げたということのようである。
 いずれにしてもこのあたりについては、まさに我らのレパートリーであり、機会を改めて書いてみたい。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. バッハ=魂のエヴァンゲリスト 磯山雅著 東京書籍 1985年
  2. バッハ―伝承の謎を追う 小林義武著 春秋社 1995年
  3. バッハ 「知の再発見」双書58 創元社 1996年
  4. J.S.バッハ 磯山雅著 講談社現代新書 1990年
  5. J.S.バッハ 辻荘一著 岩波新書 1982年
  6. バッハ事典 磯山雅、他編 東京書籍 1996年

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