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バッハその後


 今回は1750年にバッハが死んだ後、我々が取り組んでいるロ短調ミサ曲がどのような歴史を辿ってきたのか、即ち、演奏の歴史と、少し話題を広げてバッハの音楽がどのような形で現代まで伝えられてきたのかを宗教音楽を中心に書いてみたいと思います。

1. ロ短調ミサ曲の初演
 演奏された歴史をたどるに当たって、ロ短調ミサ曲の作曲経緯を再度掲げる。
 “Kyrie”と“Gloria”は1733年に作曲され、ドレスデン選定侯に献呈された。
 “Sanctus”が最も早く1724年のクリスマス用に作曲された。ただし、カトリックのミサ曲では、“Sanctus”という場合、‘Sanctsu-Hosanna-Benedictus-Hosann’の一連の曲となっている場合が多いが、《ロ短調ミサ曲》に取り入れられた“Sanctus”は、プロテスタントの礼拝の習慣に従って、‘Sanctus’だけである。
 その他の部分は、1740年代の終わり頃にミサ曲の形に整えられた。ただし、その相当部分は過去に作曲された教会カンタータの転用である。
 こういう作曲経緯なので、“Kyrie”、“Gloria”、“Sanctus”以外はバッハの生前に演奏された可能性は無い。“Sanctus”は作曲目的から言って1724年のクリスマスに演奏されたことは間違いない。
 問題はドレスデン選定侯に献呈された“Kyrie”と“Gloria”で、2曲あわせると1時間近い大曲であり、ソロの部分には声楽のソリストの他に独奏楽器にも相当な力量の演奏家を必要とするものであり、貰った選定侯の宮廷にそういうメンバーが揃えられたかどうか。いずれにしても、演奏されたという明確な記録は残っておらず学者によって意見も分かれている。なお、“Gloria”の数楽章がカンタータ第191番に転用されたので、この部分が演奏されたことは確かである。
 それではバッハの死後、何時演奏されたかということになるが、記録が残っているものとしては、1786年にバッハの次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがハンブルグで〈Symbolum Nicenum〉を演奏したのが最初である。全曲演奏はベルリン・ジングアカデミーの会長であったカール・フリードリッヒ・ツェルター(1758〜1832)がジングアカデミーにおいて非公開で行ったのが最初である。
 全曲演奏が一般化するのは1830年代に入ってからといわれており、やはりベルリンのジングアカデミーで1834年に演奏されたという記録が残っている。
 なお、日本での初演はかなり遅く、1958年にW.ロイブナー指揮、NHK交響楽団、国立音楽大学の合唱団、三宅春恵他のソロで、日比谷公会堂で行われている。
 また、楽譜の方は、1833年にいわゆる〈ミサ〉の部分、即ち“Kyrie”と“Gloria”がチューリッヒのネーゲリ社から、〈ニケーア信経〉以下は1845年にボンのジムロック社から出版され、全曲が纏まった形で出版されたのは、1856年の旧バッハ全集が最初である。長い間この旧バッハ全集版が標準になっていたが、1950年から新バッハ全集の出版が始まり、《ロ短調ミサ曲》は1957年に出版された。これが今我々が使っている版であるが、以前にも書いたようにこの出版の校訂にはいろいろ問題点も指摘されており、それを補うような形で自筆総譜とオリジナル・パート譜のファクシミリ版(言わば写真版)が出版されている。また、1995年にペータース社から新校訂版が出版されている。

(2) バッハの教会音楽の伝承
 上で述べたように《ロ短調ミサ曲》が一般に演奏されるようになったのはバッハの死後80年ほど立ってからである。それでは、この間どうやって伝承されてきたのか、突然、倉庫の奥から楽譜が発見されて演奏されたというわけでもないので、少し範囲を広げてバッハの教会カンタータを中心とする教会音楽がどのようにして後世に伝承されてきたか述べてみたい。

a.楽譜の相続
 何度も言うように生前に楽譜は出版されていないので、伝承されるのは手書きの楽譜しかない。つまり、実際に演奏に用いられた楽譜か、《ロ短調ミサ曲》の“Kyrie”や“Gloria”のように献呈された楽譜だけが頼りになる。
 バッハの場合、生存中は献呈したものの写しを含めてほとんどが手元に残っていたようであるが、本人の死によって楽譜も財産分与の対象となり、息子達と未亡人のアンナ・マグダレーナの間で分割相続された。この時、誰に引き継がれたが各々の曲のその後の運命を決めることになる。
 教会カンタータのかなりの部分は、当時ハレの教会のオルガニストを勤めていた長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710〜84)に引き継がれ、彼の教会での礼拝にも用いられていた。しかし、後に彼は経済的困窮に陥った際、父親から相続した楽譜を次々に売り払ったため、教会カンタータのかなりの部分が失われたといわれている。
 同じように経済的困窮に陥った相続者として、未亡人のアンナ・マグダレーナ(1701〜60)があるが、こちらは困窮ゆえにライプツィッヒ市当局に買い上げを求めたため、ある程度纏まった形で保存されることとなった。
 さて、《ロ短調ミサ曲》の楽譜の方は、次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714〜88)が相続した。彼は長男に比べ堅実な生活を送ったため、相続した楽譜の喪失は少なく、《ロ短調ミサ曲》は、現在、東ベルリンの国立図書館に自筆総譜が残されている。エマヌエル・バッハが死んだ時にはやはり楽譜が売りに出されているが、こちらの方はある程度纏まった形で、しかもその値打ちの判る人に買い取られたものが多いようで、今日に伝わっている。言わば、大作曲家の自筆譜を収集しているコレクターのような人が居たということである。

b.演奏の継承
i. バッハゆかりの地での伝承
 まず、バッハの死の直後から教会カンタータの演奏が行われたのは、長男のフリーデマン・バッハがオルガニストを勤めていたハレの町と、次男のエマヌエル・バッハが勤めていたハンブルグの教会においてであった。
 また、バッハが後半生を送ったライプツィッヒでも、バッハの直後の後任者であったハラー(1703〜55)が時々演奏した。これは未亡人からライプツィッヒ市が買い取った楽譜によったものである。しかし、彼の死後はライプツィッヒでもバッハのカンタータが演奏されることは無くなった。ただ、ライプツィッヒの楽譜出版者ブライトコップが筆写楽譜の販売の際に、そのカタログにバッハの教会音楽もふくめていたためこのルートでかなりの量が流通し、今日に残っている。(この販売方法は、言わば受注生産であり、カタログに載った曲の楽譜の注文があればそこで、1部づつ筆写して販売すると言うものである。なお、最近国内の合唱の楽譜がこういう受注した分だけ印刷すると言う方式が現れてきて居る。)
 その後は、2〜3の片田舎の町で細々とカンタータが演奏されていたが、音楽の中心的な町で、バッハの音楽が見直されたのは、ウィーンとベルリンである。

ii. ウィーンにおける伝承
 ウィーンにおけるバッハの伝承で第一に挙げられるのは、ヴォーチェの前回のレパートリーのモーツァルトのハ短調ミサ曲の作曲経緯の中でも登場したゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733〜1803)である。彼の父親はマリア・テレジア女帝の侍医で、彼自身は外交官にもなっている。その外交官生活がバッハの音楽とのつながりに深い関係が有り、ベルリンに7年間駐在した。当時は音楽好きで有名だったフリードリッヒ2世の時代で、流石に本人は政治・軍事に感心が移り、音楽の方は妹のアンナ・アマーリアを中心とするサロンが出来ていた。このアンナ・アマーリアの音楽顧問がヨハン・フィリップ・キルンベルガー(1721〜83)というバッハの弟子で、キルンベルガーはバッハの音楽的財産もベルリンに集め、アマーリアの図書館に数多くのバッハの楽譜が集まることとなった。(なお余談であるが、キルンベルガーはバッハの4声コラールの整理もしており、キルンベルガーのコラール集として纏まっている。これに従った演奏のCDも出ていて、同じような曲とは言いながら実に聞き飽きない、心が洗われるような曲集である。)
 スヴィーテン男爵は、ベルリンでバッハの長男のフリーデマンと知り合った他、次男のエマヌエルとは親交を結んでいる。ウィーンに帰任後1777年に宮廷図書館長に就任し、死ぬまでこの地位にあった。
 スヴィーテン男爵はバッハの楽譜の相当な量をコレクションしていたようであり、その全貌は必ずしも明らかになっていないが、《マタイ受難曲》等、現在ウィーン楽友協会に伝わるものもスヴィーテン男爵を通して皇帝の手に入り、今日の形になったのではないかと言われている。
 少し、スヴィーテン男爵のことに深入りしたが、18世紀の後半、スヴィーテン男爵の邸宅では定期的にバッハの音楽が演奏され、その席にモーツァルトやハイドンが顔を出していたのである。
 他にウィーンでバッハの音楽を継承するのに功績が有った貴族として、カール・リヒノフスキー公爵(1761〜1814)の名前が挙げられている。彼は、モーツァルトの弟子であり友人でもあったが、若い時にゲッティンゲン大学の音楽監督フォルケルのもとを訪れ、フォルケルのバッハコレクションの中から幾つかの作品をコピーしてウィーンに持ち帰った。彼は、モーツァルトの他、ハイドン、ベートーヴェンとも親密な関係にあったことから彼らにもバッハに触れる機会を提供したものと想定されている。
 ベートーヴェンも当時数少ないバッハ崇拝者の一人と言われており、既にボン時代に《平均律クラヴィーア曲集》を知っており、《平均律》をピアノ学習の教材として使用する伝統を築いたと言われている。なお、この伝統はチェルニーからリストへと引き継がれている。
 その後、19世紀になると官吏で音楽史家のラファエル・キーゼヴェッター(1773〜1850)が家庭音楽会でバッハの作品を取り上げ、この音楽会にはシューベルトも出席していたといわれている。19世紀後半にはブラームスがウィーン楽友協会の総監督となり古い時代の作品も演奏会で取り上げるようになった。その中ではカンタータも取り上げられていたが、ブラームス自身バッハの作曲技法を修得し、交響曲第4番等に取り入れるに至っている。
 このように、ウィーンでのバッハの音楽の継承は、我々に馴染みの深い古典派の大作曲家に大きな影響を与えたことが特徴と言われている。
 ハイドンやベートーヴェンは《ロ短調ミサ曲》にも着目しており、ハイドンの遺品の中に《ロ短調ミサ曲》の筆写譜が含まれていたことが確認されているし、ベートーヴェンも同様に購入し、作曲中であった《荘厳ミサ曲》に取り入れたといわれている。
 モーツァルトはヴォーチェで前回と前々回の演奏会で取り上げた中でもあるので、次項でモーツァルトとバッハの関係について少し詳しく書いてみたい。

iii. バッハとモーツァルト
 モーツァルトの生年は1756年なのでバッハが死んで6年経過している。当然のことながら直接の接触はない。しかし、親の職業を継いで音楽家として活躍していたバッハの息子達とは重なっている。
 モーツァルトが最初に接したバッハの家族は、一番下の息子で当時ロンドンで活躍していたヨハン・クリスチャン・バッハと言われている。出合った時は、モーツァルトはまだ8歳。父親に連れられてヨーロッパ各地を旅行していた時で、一方のクリスチャンは29歳。可愛い坊やという接し方であったらしいが、そこは神童モーツァルトのこと、クリスチャンから聞かされたバッハの音楽から、しっかりと影響を受けたらしい。
 その後15年ほどして、ザルツブルグの大司教と決定的な決裂をしてウィーンで暮らすようになってから、上で述べたようにスヴィーテン男爵のもとでバッハの色々な作品に接するようになる。1782年4月10日付けの父親宛てに書いた手紙の中で、「日曜日毎に12時になるとスヴィーテン男爵のところへ行って、ヘンデル、バッハばかりを弾き、バッハのフーガのコレクションを作っている。」と書いている。もちろんモーツァルトは若い頃から宗教音楽を書く際にはフーガを用いていたわけだが、これはイタリアから学んだものであった。ウィーンでバッハのフーガに触れることにより目から鱗が落ちたようにフーガの中に、芸術的な新しい精神を伝える可能性を本能的に見出したと言われている。
 1782年と言えばモーツァルトがコンスタンツェと結婚した年、即ち、ヴォーチェの前回のレパートリーであった《ハ短調ミサ曲》が作曲された年でもある。《ロ短調ミサ曲》と両方歌ってみると、《ハ短調ミサ曲》の‘Cum Sancto Spiritu’の壮大なフーガ等バッハの影響といわれても納得できるのではないだろうか。
 また、モーツァルトはバッハのフーガ作品の編曲も行っていた。5曲のフーガからなるKv.404aの3声のフーガと、やはり5曲のフーガからなる弦楽四重奏曲Kv.405が残っている。ただし、スヴィーテン男爵のもとに出入りしていた色々な音楽家がこういった編曲を試みており、Kv.405はモーツァルトの作品であることは確実視されているが、Kv.404aはモーツァルトではなくハイドンの手になるものではないかと言う見方が有力になっている。
 モーツァルトの死の2年前の逸話を紹介する。
 1789年、モーツァルトは弟子で友人のリヒノフスキー公爵とベルリンへ旅行する途中ライプツィッヒに立寄った。ここで聖トマス教会の聖歌隊の歌うバッハの2重合唱のモテット《主に向かって新しい歌を歌え》(BWV225)を聞いて「これは何だ?我々が学ばなければならないのはこれだ!」と叫んだと言われている。そして、総譜を見せてくれと頼んだところ、バッハの遺産を分けた時に総譜とパート譜が別々に相続され、トマス教会にはパート譜しか残っていなかった。そこでパート譜をもらって部屋中に広げて直ぐに勉強したと言われている。残念ながらこの後、モーツァルトは2重合唱のフーガを書いていないので直接的な影響は窺い知れない。

iv. ベルリンにおける伝承
 この町でバッハ音楽の伝承と中心になったのは前にも名前を出したジングアカデミーで、特に2代目会長のツェルタ−の時代に運動の最盛期を迎えた。この時、使われた楽譜は、メンデルスゾーンの父親が、エマヌエル・バッハの遺産に含まれていたバッハの自筆譜を100点ほど購入し、ジングアカデミーに寄贈していたものであった。その他にもジングアカデミーの司書が多くの自筆譜を所有しており、これも復活演奏の大きな力となった。ただ、カンタータも数多く演奏されたが、その歌詞は当時の啓蒙時代には合わない陰鬱なものも多く、時によっては歌詞を変えて演奏されたこともあったといわれている。
 このような復活運動の中で、音楽史上で最も有名な演奏がメンデルスゾーンの指揮による《マタイ受難曲》の復活演奏で、ベルリンのジングアカデミーで1829年に行われている。この演奏によってそれまで鍵盤作品の作曲家として知られていたバッハが、声楽作品の作曲家としても一般社会に広く認められるようになった。また、この頃からバッハの声楽作品の演奏場所が、従来の教会を離れて一般のコンサートホールにも広がり、演奏そのものにも変化がもたらされるようになった。

 以上、代表的な都市での状況を紹介したが、19世紀前半にはフランクフルト等の他の町でもバッハの復活演奏が始まり、カンタータや受難曲が見直されるようになってきた。逆に言えば、鍵盤作品などはバッハの死後も忘れられることなく伝えられていたのに対し、教会音楽は時代背景、音楽様式の変化等から、忘れ去られたともいえるような状態であったので、当然の成り行きと言えるのかも知れない。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「バッハ事典」 磯山雅他編、1996年、東京書籍
  2. 「バッハ(「知の再発見」双書58)」 ポール・デュ=ブーシェ 1996年、(株)創元社
  3. 「ガーディナー指揮ロ短調ミサ曲CD解説書」
  4. 「バッハ探求」 樋口隆一、1993年、(株)春秋社
  5. 「バッハとの対話」 小林義武、2002年、小学館
  6. 「カンタータ研究」 樋口隆一著、1987年、音楽の友社
  7. 「バッハ−伝承の謎を追う」 小林義武著、1995年、春秋社
  8. 「基本はバッハ」 ハーバート・クッファーバーグ、1992年、(株)音楽の友社

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
作品番号 ロ短調ミサ-1 ロ短調ミサ-2 演奏習慣 生活
時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
息子達 ミサとミサ曲 CD 礼拝 教会暦と音楽
受難曲の歴史 ライプツィッヒ-1 ライプツィッヒ-2 バッハの受難曲 ローマ史
ヨハネ受難曲の物語      

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