はじめに
アンサンブル・ヴォーチェの第4期のレパートリーとして、バッハのロ短調ミサ曲を取り上げた際に、バッハという作曲家に関して、また、ロ短調ミサ曲について解説資料を19回にわたって書かせて頂きました。一連の記事は、ホームページに掲載してもらっていて、全国の音楽ファンからも相当数のアクセスをして頂いているようです。第7期で再びバッハの大作を取り上げることになりましたので、前回書ききれなかったこと、初めて取り組む受難曲に関すること等を纏めて見たいと思います。皆さんの御参考になれば幸いです。
今回は第1回として、受難曲が歌われる「聖金曜日」、そしてキリスト教徒にとってクリスマス以上に重要といわれる復活祭とその準備期間とも言える謝肉祭、最後にキリストが天に帰る昇天祭について、そして、そのような教会暦と音楽の関係についても簡単に書いて見たいと思います。
1.教会暦
教会暦という言葉は聞かれたことがあると思います。キリスト教では年間を通じて特に記念すべき日を定め、祝祭日として礼拝やその他の行事を行う習慣があります。この祝祭日を決めた暦を協会暦と呼んでいます。その協会暦には2通りあるそうで、一つはイエス・キリストとその使徒達の布教の歴史を1年に見立てて定めた季節の部、もう一つはそれぞれの聖人の誕生日や殉教した日を記念する聖人の部です。カトリック教会では両方を祝いますが季節の部が重要とされています。バッハが活躍したプロテスタントの教会では、イエス・キリストだけが重要と言うのが基本的な思想ですので、前者だけを祝っています。
祝祭日といっても当然重要度に差があり、今日のカトリック教会では、重要なものを祭日、それ以外を祝日としています。前者の例としては、クリスマス(降誕祭)、復活祭、聖ヨハネの誕生日、聖母マリアの被昇天の日等があります。
教会暦がどのように決まっていくかを見て行こうとすると、かなりややこしい計算が必要になります。キリスト教の日数の計算は、天地創造の時に創造主が7日目を安息日としたということに基づいて7日を単位とする週がひとつの基本単位になりますが、この週を単位とする考え方と太陽暦の周期が合わないことは毎年同じ日の曜日がずれて行くことでお分かりと思います。これだけであれば、今の日本で成人の日、敬老の日、体育の日等曜日で決めている祝日の月日が毎年変わるのと同じことなのですが、さらに月の運行を絡めて満月の日を計算に取り入れる祝祭日が多いため誠にややこしいことになるのです。
そういうことはさておいて、教会暦は何時から始まるかと言うことですが、キリスト教で最も重要な祭日は救世主の降誕を祝うクリスマス(12月25日)ですから、クリスマスからかというとそうでもなく、降誕を待ちわびる待降節の始まりが教会暦の始まりになります。そしてこの始まりが、降誕祭から遡って4回目の日曜日という決め方ですので、一番早い場合は11月27日、遅い場合は12月3日と幅が出ることになります。
2.復活祭と聖金曜日
降誕祭についで重要なのが「復活祭」です。
我々が現在取り組んでいる「ヨハネ伝による受難曲(通称:ヨハネ受難曲)」は、キリストが我々の罪を背負って犠牲となったといわれる受難を想う「聖金曜日」の典礼で歌われる曲です。この日はいつになるのかと言うことですが、ミサ曲のクレドで「聖書に在りし如く3日目にして甦り(Resurrexit tertia die secundum scripturas)」と歌われているように、復活した前々日に十字架に架けられたことになりますので、受難曲はこの日に歌われることになります。理屈から言えば、十字架上に架けられた日をまずきめて、その翌々日を復活祭としても計算は合うわけですが、キリスト教では、イエスの復活が非常に重要な事跡とされているため、復活祭が先にきめられます。
では、復活祭がどのように決められるかについて書いてみます。新約聖書のヨハネ福音書によればイエスが復活したのはユダヤ教でいう過越際の日であったとされています。過越しの祭りというのは、古代には遊牧民の春の祭りであったといわれていますが、イエスの時代にはエジプトからの開放を記念する日となっていました。これは長年エジプトに奴隷として捉えられていたユダヤ人が、モーゼの導きによりエジプトを脱出する際に、生贄の羊の血を塗ったユダヤ人の家は神が「過ぎ越し」、塗っていなかったエジプト人に災いがもたらされたといわれていることによります。その災いとは、出エジプト記によると、ユダヤ人の脱出を許さないエジプト王に対して、神がエジプトの民と家畜の初子をすべて殺すというもので、その際、ユダヤ人は生贄の子羊の血を家の鴨居に塗っておくように命じ、この血が塗られた家は「過ぎ越し」ていったというものです。
そして、この日を祝うために「過越しの食事」を取る習慣がありました。従って、イエスが弟子達と採ったいわゆる最後の晩餐も「過越しの食事」だったと伝える福音書もあります。福音書の中でも共観福音書といわれるマタイ、マルコ、ルカの3福音書では、イエスが貼り付けになったのは過越しの祭りの当日だったとされているのに対して、ヨハネ福音書では磔になったのは祭りの前日で、最後の晩餐も「過越しの食事」とは書かれていません。過越しの祭り当日の処刑は避けていたという見方が一般的で、ヨハネ福音書が伝える方が正しいだろうと言われています。「過ぎ越しの祭」は何日か続いたようですので、磔から3日目にして甦ったとしても「過越しの祭り」の期間中だったようです。
このような起源はあったようですが、キリスト教が広まる中で、復活の日を何時にするかは色々もめたようですが、325年のニカイア(ニケア)公会議において、ユダヤ教が使っていた太陰暦とローマ帝国が用いていた太陽暦の妥協の産物として、(1)春分の日の後の、(2)最初の満月からみて、(3)最初の日曜日、という複雑な決め方になったものです。これで復活祭が必ず日曜日となりますので、イエスが処刑されるのは足掛け3日前ですから、金曜日になります。この金曜日は聖金曜日と呼ばれています。
復活祭は、こういう複雑な決め方ですので、復活祭の日はその年によって大きく動きます。まず、春分の日が、今年(平成20年)のように3月20日のこともあれば、3月23日のこともありますので、ここで3日間、春分の日から満月までの日数も1日(翌日)から28日まで幅があります。そして、その満月が土曜日であれば翌日が復活祭になりますし、日曜日であれば次週まで7日間待つことになります。なかなかすべてが長い条件が揃うことも無いようですが、結果として3月22日から4月の25日までの幅で変動することになります。因みに今年は3月20日が春分の日で、その翌日が満月でしたので、復活祭は3月23日で、相当早い例だったようです。従って聖金曜日は3月21日で、NHK教育テレビで「ヨハネ受難曲」が放映されたのは、まさに教会暦に従ったものだったわけです。
3.復活祭と謝肉祭
少し話が前後しますが、復活祭前の準備期間について述べます。
40日前から準備期間に入り、この期間は四旬節と呼ばれています。これは10日間を一つの単位「旬」と呼ぶことから、40日が4旬となるものです。40日という日数は、イエスがエルサレムに入る前に40日間、荒野で苦悩の修行をしたといわれることから決められています。ただ、実際に40日前から始まるかというとそうではなく、土曜日、日曜日は断食の日から外されていますので、正味40日となるように、46日前の水曜日から始まり、この水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれています。これは、この日には信者は額に灰を塗って礼拝に行くことに由来します。
そして、キリスト教徒はこの期間、肉類を口にしないことになっています。このために、四旬節が始まる前にたっぷり肉を食べておこうというお祭りが「謝肉際(カーニバル)」です。
また、復活祭の1週間前の日曜日がカトリックでは「枝の主日」、プロテスタンでは「棕櫚の主日」と呼ばれています。これは、イエスが荒野での40日間の修行を終えてロバに乗ってエルサレムに入場した日で、そのイエスを民衆がナツメヤシ(日本語訳聖書では「棕櫚」と訳されている)の枝を道に敷いたり、手に持って歓迎したことに由来しています。この時に民衆が叫んだ言葉といわれているのが、ミサ通常文の‘Sanctus’に出てくる‘Hosanna’という言葉です。これはヘブライ語の「ホシア・ナー(救い給え)」のラテン表音です。当然、当時のユダヤ人が喋ったのはヘブライ語ですからラタン語の訳は、キリスト教がローマに伝わってからのものです。
そのほか、四旬節の間の日曜日は、それぞれ呼び名がありますが、時代とともに変ったりしていて話が複雑になりますのでここでは省略します。関心のある方は参考文献を読んでください。
4.昇天祭と聖霊降臨祭
今度は復活祭の後に話が飛びますが、キリストは復活後、40日間は地上に留まり数々の奇跡を見せた後、昇天し、神の右に座します。ミサ曲の‘Credo’に出てくる歌詞‘Et ascendit in caelum, sedet ad dexteram Patris’がこのことを歌っています。この昇天を記念する日が昇天祭で、日曜日の復活祭から40日目ですので、必ず木曜日になり今年は5月1日です。
この昇天祭から数えて2回目の日曜日が復活祭から50日目に当たり、聖霊降臨祭になります。この日は、降誕祭、復活祭に次ぐ3番目に重要なキリスト教の祭日です。この日は、使徒達に聖霊が下り、さまざまな言語を話せるようになった使徒たちが各地に散って、福音を伝える活動を始める日になります。
5.復活祭前後の宗教行事と音楽
(1) 謝肉祭
時間を追っていきますと、謝肉祭に関しては礼拝用の音楽ではなく、お祭り用の音楽やユーモラスな動物の謝肉祭など多くの曲が書かれています。15世紀後半頃からの謝肉祭の音楽が今に伝わっており、メディチ家が全盛期を迎えていたフィレンツェではお祭り好きの市民が山車を作って町を練り歩いたといわれています。メディチ家の当主、ロレンツォ本人の歌といわれているものも残っており、「バッカスの勝利」という長い歌の歌詞では次のような言葉が繰り返し現われます。
幸福を求めたい者は求めるがよい、
明日のことはなにも確かではないのだから。
塩野七生氏によれば、この歌は何百年も歌い継がれ、日本で言えば明治時代の人がそれをイタリアで聞いて帰り、帰国後に吉井勇に語ったことがヒントになって、ゴンドラの歌が生まれたのではないかと考えられています。即ち、
いのち短し 恋せよ乙女、
赤き唇 あせぬ間に、
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
という名曲です。
このような享楽的な時代は長くは続かず、厳格な修道士サヴォナローラによって、ロレンツォは追放され、謝肉祭のお祭り騒ぎも禁止となって厳しい節制の時代をむかえることになります。それでも、上の歌が伝わっていたということは、庶民はどこかでひっそりと楽しんでいたのでしょうか。
(2) 四旬節
続く四旬節は、救世主の苦行から最終的な受難に至る出来事を記念する期間であるため、一般の信者も悔悛の心を表して、節制された生活を心がけるのが習わしとなっています。このため、礼拝でもめでたい言葉や喜びの表現を含む華やかな音楽が演奏されることは無く、グレゴリオ聖歌を中心とした聖歌が歌われます。日本式に言えば「歌舞音曲停止」ということでしょうか。
このような状況はプロテスタントでも同じで、300曲に及ぶ礼拝用のカンタータを作曲したといわれているバッハでも、この時期のためのカンタータは残っていません。ただ、この時期、悔悛の心を込めたコラール(賛美歌)は歌われましたので、コラールの前にオルガン独奏で演奏されるコラール前奏曲は数多く残しています。それでも、毎週礼拝用のカンタータを作曲、練習指導、指揮をするという超多忙な生活を送っていたバッハにとっては、この期間は作曲に専念できる貴重な期間で、一気に作曲を進めたといわれています。
復活祭に先立つ1週間は「聖週間(Holly Week)」とか「受難週」(ルター派)と呼ばれ、イエスの受難と苦痛に思いをはせ、祈りを捧げる期間です。キリスト教ではこの間、特別な典礼が行われ、特に最後の三日間は、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日と呼ばれ、深夜から未明にかけて夜を徹して長時間の礼拝(朝課)が行われます。この朝課で歌われる音楽にも関係するので、この朝課で行われる独特の演出を先に御紹介します。それは、三角形に並べて点灯された15本のロウソクを順番に1本ずつ消し、最後の1本を祭壇の後ろに運んだ後に消してしまって、堂内を暗闇にするというものだそうです。このため、この朝課を暗闇を意味する「テネブレ tenebrae」と呼び、ルネサンス時代からバロック時代にかけて、作曲家はこの時に歌われる歌に力を注ぎ名曲が多く生まれています。
詳しく書き始めるとキリが無いので、関心のある方は、最近刊行された「宗教音楽対訳集成」をご覧ください。概略だけ書くと、3日間とも最初は旧約聖書の「哀歌」から選ばれた箇所が「朗読」されます。そして、必ず最初は、「預言者エレミアの哀歌が始まる。」という言葉で始まります。この「朗読」の後には「レスポンソリウム(応唱)Responsorium」が続きます。この組み合わせが3回あった後、レスポンソリウムが6回続き、合計12回の祈りの言葉が唱えられます。これが1日分で、同じようなことが3日間行われるのですがから、大変な分量です。なお、エレミアというのは旧約聖書に語られる紀元前7世紀頃の預言者で、歴史的には2度あるといわれている預言者が集中して現われた時期のうち、2回目の集中期の口火を切った人物といわれています。
15世紀頃からこれらの言葉にポリフォニーで曲を付けることが盛んになり、パレストリーナ他我々にも馴染みの深い作曲家が多くの名曲を残しています。聖週間では、この朝課に続く諸々の礼拝でも多くの祈りが捧げられますが、それらに曲をつけて一連の「聖週間の聖務日課集」というセットにして出版されるようになりました。面白いのは天文学者のガリレオ・ガリレイの父親も作曲したと伝えられているそうです。勿論曲は残っていませんが。
こういう曲の中で、現在有名なのは、タリスが作曲した「エレミアの哀歌」でしょう。ただ、タリスは宗教改革後の英国の人なので、典礼の様式は大分変わっていたようです。また、モーツァルトがローマ教皇庁を尋ねた際に秘曲とされていたアレグリの「ミゼレレ」を一度聞いただけで完全に記憶し音符に再現したという説話がありますが、この「ミゼレレ」というのも、聖週間の朝課の最後に唱えられた言葉です。
(3) 聖金曜日と復活祭
聖金曜日は、上で書いた朝課の他に昼間の礼拝で受難曲が演奏されるわけですが、歴史的に見ると二つの流れがあり、一つは、ミサの中で読み上げられる受難を語る聖書の言葉が、単なる朗読からグレゴリオ聖歌のような単旋律の音楽になってやがて劇的なものに発展した流れ、他の一つは、地域によっては礼拝とは別に聖書を題材にした受難劇が演じられる習慣があったもので、16世紀頃からの受難曲に影響を及ぼしているようです。いずれにしても今回のレパートリーそのものですので、次回以降に、受難曲の歴史、バッハの受難曲についてまとめて見たいと思います。
ここでは、一寸飛んで復活祭に話を進めます。
人類の罪を一身に背負って十字架上に死んだイエスが復活するこの日は、キリスト教徒にとってクリスマス以上に重要な日のはずで、当然この日も厳粛なミサが挙げられるので、それに対応した名曲が残っていても良い筈なのですが、あまり有名なものはありません。
16世紀に活躍したルネサンス時代の作曲家、すなわち、ハインリッヒ・イザーク、ウィリアム・バード、オルランドゥス・ラッススなどが「復活祭のためのミサ曲」を残しています。オラトリオのような様式をとった最初の曲は、ハインリッヒ・シュッツの「復活祭オラトリオ」と言われています。
バッハは「復活祭オラトリオ(BWV249)」を残していますが、受難曲に比べるとはるかに規模が小さく、カンタータとも呼べるような規模、曲の構成です。バッハの場合は「クリスマス・オラトリオ」も6日分のカンタータの集合体ですから、彼の頭の中ではオラトリオとはこういう形だったのかもしれません。
バロック時代の大作曲家の復活祭に関する音楽としては、曲名にその名前を冠していないのですが、ヘンデルの「メサイア」こそが最大の名曲でしょう。「メサイア」は我が国ではいつの間にか、3部構成のうちの第1部と第2部に関心が集まってクリスマスの音楽のように思われている節がありますが、ヴォーチェの第5期で取り上げた際にも書きましたように、むしろ第3部のキリストの復活により、人間が永遠の生命を得るというところがこの曲の本質で、ヘンデル存命のころには復活祭の頃に演奏されるのが常でした。
(4) 昇天祭と聖霊降臨祭
昇天祭と聖霊降臨祭は、教会暦上は重要な祝日である割には、有名な音楽は残っていません。
通年の祝日に合わせてカンタータを作曲したバッハの場合は、他の祝日と同様に数年分を作曲したようで、現在4曲のカンタータが残っています。ただ、200曲ほどあるカンタータの中での評価はあまり高くなく、BWV11のカンタータがその一部がロ短調ミサに転用されたことで有名な程度です。
聖霊降臨祭もバッハは一連の祝日のためのカンタータとして何曲かを作曲し、現在、9曲が残っていますが、これもあまり有名なものはありません。
6.結言
御存知のことも多かったかもしれませんが、「受難曲」を演奏するに当たって、まず、それが何時演奏されるものなのか、その時期に演奏されるようになった経緯などを知っておくことも必要かと思い、まとめて見ました。
次回以降、バッハがこの作品を作曲した頃の音楽活動の状況、作曲動機と作曲後の経緯等についてまとめて見たいと思います。
なお、バッハの生涯、人物などに関しましては、ロ短調ミサ曲を取り上げた時に書いたものが、アンサンブル・ヴォーチェのホームページに掲載されていますので、そちらも御参照ください。
(Bass 百々 隆)
参考文献
- 「キリスト教と音楽」 金澤正剛著 2007年 音楽の友社
- 「キリスト教文化の常識」 石黒マリーローズ著 1994年 講談社現代新書
- 「旧約聖書の預言者たち」 雨宮慧著 1997年 NHKライブラリー
- 「宗教音楽対訳集成」 井形ちづる・吉村恒著 2007年 (株)図書刊行会
- 「ルネサンスとは何であったのか」 塩野七生著 2008年 新潮文庫
- インターネットサイト
(1) http://homepage2.nifty.com/bachhaus/musik/kirchenjahr/kirchenjahr.html
(2) http://park14.wakwak.com/~sanbi/bible/pesach.htm
(3) http://hb5.seikyou.ne.jp/home/Kazuo.Saito/kazsan/music/topics/passion.html 他
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