はじめに
御承知のように、我々が、今、取り組んでいるヨハネ受難曲は、バッハがライプツィッヒ時代に作曲した曲ですので、この時代バッハがどのような生活を送り、どのような音楽活動を行っていたのかを簡単にまとめて見たいと思います。
1.バッハの生涯におけるライプツィッヒ
バッハの生涯については、アンサンブル・ヴォーチェのホームページに載せでもらっているバッハ研究シリーズのなかで、第3回の「バッハの生涯外観」に纏めていますので、詳しくはそちらをご覧いただくとして、ごく簡単に生涯を見てみます。
バッハは、1685年3月にドイツ中部のアイゼナッハという町で、町音楽師の8人兄弟の末っ子として生まれました。9歳の時に母親、10歳の時に父親と死別し、14歳年上の長兄、ヨハン・クリストフ・バッハの下に引き取られるため、オールドルフという村に移ります。ここで兄に鍵盤楽器の手ほどきを受けたり、合唱隊に属して声楽曲に触れることになります。
15歳の1700年に、兄の家を出ざるを得ない状況になったためリューネブルグに移り、教会附属のミカエル学校で、学費が払えない生徒15名ほどからなる合唱隊に所属します。間も無く変声期のために合唱隊で歌えなくなりますが、器楽奏者として引き続き活動し、オルガニストとしての腕も上げていきます。
18歳の時にアルンシュタットという町の教会で新しいオルガンの奏者に採用され4年間をそこで過ごします。ここで初めて正式の職業人となったことになります。次も同じようにオルガニストですが、1707年22歳の時、ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会で職を得ます。またこの時期、遠縁にあたるマリア・バーバラと結婚しています。
しかし、ここも2年ほどでやめてしまい、1708年、23歳の時にヴァイマールの宮廷に宮廷音楽家兼オルガニストとして移り9年程を過ごします。この時期、オルガン曲の名曲を多く作曲すると共に、教会カンタータも作曲を始めており、今回の主題であるライプツィッヒでの活動に繋がるものも生まれています。ただ、当時は作曲家としてよりもオルガニストとしての名声がドイツ各地に広がっていました。
次に移った先は、ケーテンの宮廷で、32歳から38歳までを過ごします。65年間のバッハの生涯のうちで、この期間だけが、いわゆる世俗音楽の作曲、演奏が中心の生活を送ります。この時期に室内楽や世俗カンタータの名曲を多く作曲しています。また、この間にマリア・バーバラが亡くなり、1年半ほど後に、アンナ・マグダレーナと再婚しています。
以上のようにドイツ各地を転々とした後、1722年にライプツィッヒの聖トーマス教会のカントールの席を埋めることとなります。結局1750年に65歳でこの世を去るまでライプツィッヒで過ごしました。今までの任地に比べると遥かに長いのですが、すっかり気に入って終生を過ごしたかというと、後半はそうでもなかったようで、今回はその辺りにも触れて見たいと思います。
2.ライプツィッヒ着任
1723年5月にライプツィッヒ聖トーマス教会のカントールに着任します。
このカントールという地位は、聖トーマス教会附属学校の教師と市の音楽監督という二つの役割をもっていました。
ケーテンの宮廷音楽家の地位を捨ててライプツィッヒに移った理由は、本人が明確に記した資料が残っていないため、研究家の間でも論争が絶えない謎の一つです。
バッハの就任はすんなり決まったわけでは有りませんでした。バッハの前任のヨーハン・クーナウが1722年6月に死去したあと、一旦テレマンが後任に決まりましたが、結局その年の暮に辞退し、バッハが志願しました。しかし、任命権のある市当局はバッハを余り評価していなかったこともあって乗り気ではなく、かなり検討に時間がかかりました。それでも他に候補者もなく、附属学校の教育や礼拝に責任のあるポストをいつまでも空席にしておくわけにもいかず、クーナウの死去から一年近くが経過して、1723年の5月に、止むを得ずという雰囲気で契約がきまりました。契約に当たっては、市当局から幾つかの条件がつけられ、バッハはそれを守るという誓約書に署名しています。その条件の幾つかを挙げると以下のようなものです。
1) 高潔でつつましい生活をし、生徒達の模範となるように努力する。
7) 音楽は長すぎないように配慮し、オペラまがいのものであってはならず、聴く者を信仰に導くようなものが望ましいという市議会の要望を尊重する。
12) 市長の許可なしに市街へ出ない。
13) 葬儀の時はできる限り生徒達に付き添って歩く。
14) 市議会の同意なしに大学での仕事を引き受けない。
このような窮屈に見える条件を飲んでもカントールの職に就いた理由については、古来色々な説が出されています。
まず、疑問を呈する面、即ち、宮廷音楽家として比較的自由に音楽活動が出来ていた立場から見れば、制約が大きくなるのではないかという側面です。
カントールの本務は附属トーマス学校の教師という立場ですので、音楽の他にラテン語を週に4回、教理問答を1回教える義務が有りました。さらに、寄宿舎内のカントール住宅に居住して寄宿生の監督に当たる必要がありました。上述した条件の中に「葬儀の時には…」という条項がありますが、葬儀が出た家の前でコラールを歌い、墓地まで付き添って埋葬の前にもう一度コラールを歌うというのがトーマス学校の生徒の役割でしたので、その監督者として付き添う義務が有ったのです。
教師が本務といっても一番重要な仕事は礼拝音楽の創作と演奏ですが、これも自由に作曲できるわけではなく、教会暦に縛られてその日の礼拝で読まれる聖書の部分に関連したものが要求されましたし、その様式についても、華美に流れないというような当局の厳しい要求がありました。礼拝は毎週行われますから、それに合わせて新しい曲を作曲し、練習を指導して当日は指揮をするという責任がありました。さすがに作曲は毎週ではなく、他の作曲家の物を取り上げたりすることも赦されていたようですが、演奏は、4旬節の期間を除けば毎週のことでした。
これを演奏するメンバーが宮廷音楽家のように優秀な専門家集団であればまだしも、トマス学校の生徒を中心にメンバーを組むのですから、資質的に多くは望めません。この生徒を選ぶのは、校長とカントールが半分ずつ選んだそうで、校長は学業優先で、音楽的な能力で選ばれていたのはバッハが選ぶ権利のあった半数ということになります。生徒は全部で55名で、この人数でライプツィッヒ市内の4ヶ所の教会の声楽部門全てと器楽の一部を受け持ったと言いますから、その苦労は押してしるべしでしょう。
バッハはこのような厳しい環境におかれることを承知の上でカントールに応募したわけですので、どのような魅力があったのでしょうか。
古来言われているその一つに、当時バッハが使えていたケーテンのレオポルト侯は音楽に理解が深かったのに、結婚した后妃が音楽に対する関心が低く、レオポルト侯の音楽に対する関心も冷めて行ったため、新たな活躍の場を求めたというのがあります。
次に挙げられているのは、ライプツィッヒの方が給与面での待遇が良かったからと言うのがあります。ところが、この比較が実はなかなか難しいのです。貨幣経済が今ほど発達しておらず、現物支給的な収入が有ったことや、待遇の一部として計算されていたような臨時収入が無視できない額あったことなどによります。
最後が、息子達に大学教育を受けさせたかったからというものです。
これらの理由は、友人のエールトマンに当てたバッハ自身の書簡の中に挙げられているもので、比較的最近まで信憑性の高い資料として額面通りに受け取られていましたが、最近は、本音が書かれているのか疑問を持つ研究者が増えてきており、嘘ではないだろうが、全面的に信用できないのではないかという見方が多くなっています。
では一体どうしてということになりますが、一つの見方として、川端純四郎氏は、宮廷では個性的、独創的な音楽を作ることが可能で、いわば芸術家としての活動が可能だったが、一方で、経済的には君主に完全に依存していて、バッハの家系に伝統的に流れていた伝統的な音楽職人の血に合わなかったのではないか、ライプツィッヒでは、束縛が多いとは言うものの、教会を中心として信仰と生活で結ばれた共同体が有り、そこに根をおろした音楽こそがバッハの魂のふるさとだったのではないかとの見方を示されています。
3.音楽活動(その1)−着任からヨハネ受難曲−
カントールに就任して、1723年5月30日に始めて新作のカンタータを演奏しました。着任早々の1723年は猛烈な勢いで作曲活動に精を出します。確認されているだけで40曲のカンタータを作曲しています。
カンタータはルター派のミサで演奏される音楽で、内容はその日の礼拝の主旨にかなったものでなくてはありませんので、少なくとも1年間の間は、毎日曜日とその他の特別な祝日の礼拝に異なった音楽が必要となります。流石のバッハもすべての祝日に新しいカンタータを当てることはせず、昔の作品の再演や他の作曲家の作品を演奏したこともあったようです。教会暦に沿った1年分のカンタータのセットをカンタータ年巻と呼んでいます。
しかし、多作は1年目だけではなく、3年間は続いています。バッハに関する研究において、ある時期までは、バッハの死の直後に弟子が書いたと思われる「故人略伝」という書物に書かれていた数字を信じて5年分を書いたということが信じられていました。その割には現在まで伝わっている曲数が少ないのですが、死後の相続の際に自筆譜が家族に分割されたために、身持ちの悪かった長男に相続された分が売り払われたりして散逸したのではないかといった推論がなされていました。その後、更に研究が進み、最近では「故人略伝」の5年分という記述そのものが誤っているのではないかという説が有力になり、最近では間違いが無いのは就任の年を含めて3ヵ年分だろうという説が有力になっています。
作曲も大変ですが、演奏の方も毎週のことですから、大変な仕事でした。まず、特別の行事のない時期のスケジュールを紹介します。
ライプツィッヒには、聖トマス教会、聖ニコライ教会、新教会、聖ペテロ教会の4つの教会が有りました。聖トマス教会のカントールはこの4つの教会すべての礼拝における音楽を司る役割を持っており、聖トマス教会附属学校の生徒55名がその能力に応じて派遣されました。
第1聖歌隊、第2聖歌隊はレベルが高く、手の込んだ多声音楽を歌う能力を有しており、聖トマス教会、聖ニコライ教会に交互に派遣されましたが、特に第1聖歌隊はバッハが直接指揮するより抜きのグループで12〜16名の構成でした。これに合唱隊よりも少し多い程度の器楽合奏がついて、カンタータや受難曲が演奏されました。器楽演奏者は市の音楽師が担うのが原則でしたがその人数は不十分で、残りは生徒の上級生、もしくは大学生の応援を得ていました。ということで、メンバーを揃えるのもバッハにとって重要かつ頭の痛い問題だったようです。こういう背景ですので、後にバッハは演奏者の増員を求めて、市当局に対して理想的な教会音楽についての上奏文を書きました。また、現代の研究者兼演奏者の中には、バッハの教会音楽は各声部一人ずつで歌ったと主張するリフキンのような人も表れ、あながちこの説を否定しきれない状況にもあるわけです。
第3聖歌隊は新教会でコラールと簡単なモテットという一応は多声の合唱曲を歌いましたが、第4聖歌隊は、聖ペテロ教会で単声のコラールを歌うのが精一杯というレベルで、バッハは「屑」と呼んでいたそうです。
当時のライプツィッヒでは平日でも各教会が交代で礼拝を行っていましたが、日曜、祝日になるとそれぞれの教会で礼拝が行われて、16もの説教が行われたといわれています。市民の方も複数の礼拝に参加する人が多かったようです。
朝の5時あるいは5時半から朝課が始まり、7時には聖ニコライ教会、聖トマス教会で主要礼拝が始まって10時ないしは11時まで続きます。さらにこの主要礼拝でカンタータが演奏された方の教会、即ちバッハが指揮した方の教会では、11時45分から昼礼拝が行われました。最後に13時45分から、晩課が行われるという1日でした。
当時の礼拝がどういう順序で行われ、音楽がどのように関与したかについては、拙文「プロテスタントの礼拝」(アンサンブル・ヴォーチェ ホームページ「バッハ研究」)にも書きましたが、一例を掻い摘んで再掲すると以下のようになります(その日の祝日の重要さによって変ってきます)。
- オルガン前奏
- モテット
- オルガン前奏とキリエ
- 祭壇の前での発唱(イントタツィオ)
- 書簡章句の朗読
- 連祷の詠唱
- オルガン前奏とコラール
- 福音書章句の朗読
- オルガン前奏と主要音楽(カンタータ)
- 信経の歌
- 説教
- コラール
- 聖餐設定の言葉
- オルガン前奏と音楽(カンタータ第2部があることも)(聖体拝領の終了まで)
この中で 1、2,3、7、9、10、12、14 は音楽の出番となりますので、バッハの忙しさもお分かりいただけるかと思います。
さて、このように多忙なライプツィッヒ着任一年目も終る頃に最初の復活祭を迎えます。このシリーズの第1回でも書きましたように復活祭の3日前が受難の金曜日で、その日には受難曲が演奏されました。着任一年目の意欲満々の中で作曲されたのが我々が取り組んでいる「ヨハネ受難曲」です。
「ヨハネ受難曲」の歴史については回を改めて詳しく書きますが、この1724年に演奏されたのが、今では第1稿と呼ばれているもので、その後、何度か演奏され、その度に改訂が加えられました。今年早々、練習を始めた頃に粕谷さんから配布された文書でも紹介されていますが、今日まで残っているだけで4稿を数えます。
4.音楽活動(その2)−コラールカンタータの誕生からマタイ受難曲−
1724年の受難週を終わり、暫くした6月からコラール年巻の2年目が始まりました。この年は、バッハはコラールカンタータという統一的な様式を採用しました。コラールカンタータというのは、ルター派の教会で歌い継がれてきたコラール(賛美歌)をテーマとして、カンタータ全体が、そのコラールの旋律と歌詞で導かれる様式です。ただ、それぞれの日曜や祝日に歌うコラールが固定されたのは比較的最近のことで、バッハの時代にはまだ固まっていなかったようです。ということは、どのコラールをテーマにするかは数多くのコラールの中から選ぶ必要があり、その選択はバッハ自身が行ったのだろうといわれています。この2年目に作曲されたカンタータの数は、年間の作曲数としては最多になっていますので、我々が耳にするカンタータは、このコラールカンタータが多くなっています。もちろん、3年目以降もコラールカンタータも作曲されていますが、違った様式のカンタータも書かれています。
この時期にコラールカンタータを取り入れた理由は明記された物はありませんが、作詞者の方からの提案も有ったのではないかと言われていますし、バッハにしても、毎週新しいカンタータを作曲する必要があったので、様式を決めてしまうということは、マスプロには適した方法だったのではないでしょうか。1725年の復活祭まで、コラールカンタータを毎週書き続けたそうです。
その1725年の受難週の聖金曜日にはヨハネ受難曲が第2稿で演奏されます。
1725年6月からはカンタータ年巻の3年目が始まるはずなのですが、実際には半年ほどブランクがあり、クリスマスの頃から漸く作曲が再開されます。このブランクが生じた原因の一つとしては、カントール不在の間、ゲルナーという人の手に委ねられていた、大学附属聖パウロ教会の礼拝音楽の監督権を取り戻そうとして大学当局と争っていたことが挙げられています。この件は大学当局には聞き入れられず、ザクセンの選帝侯にまで直訴しても不成功に終って、大学当局との溝が深くなっただけでした。
再開されたカンタータ作曲も8曲で暫く止まってしまい、翌年1726年の6月になって再開され、1727年の初めまで続きます。
そして登場するのが1727年の受難週のために書かれた「マタイ受難曲」です。そういう意味では、「マタイ受難曲」はライプツィッヒ時代初期の教会音楽の集大成といえるもかもしれません。なお、「マタイ受難曲」には、「ヨハネ受難曲」の第2稿で新たに加えられた曲が転用されていますが、この辺りも回を改めて整理したいと思います。
5.ライプツィッヒ時代前半のその他の曲
多少、蛇足的な記述になるかも判りませんが、この時代にも当然、世俗曲、器楽曲も作曲されています。その主なものを簡単に紹介しておきます。
この時期に書かれたカンタータ、受難曲以外の他の教会音楽としては、ラテン語の「マニフィカト」(BWV243、初稿は変ホ長調、後にニ長調に編曲)のほかに、葬儀の際や追悼式の際に歌われたモテット数曲があります。さらに、後にミサ曲ロ短調に転用された“Sanctus”(1724年作曲)を忘れることもできません。プロテスタントの礼拝でも、“Sanctus”はラテン語で歌われるのが当時の習慣だったために1724年に礼拝用にかかれたものです。他にも数曲単独の“Sanctus”が残っています。
鍵盤楽器用の曲としては、イギリス組曲(BWV807〜811)、フランス組曲第5、6番(BWV816、817)、オルガン用のトリオソナタ(BWV525〜530)、何曲かの前奏曲とフーガ等のオルガン用の曲等が挙げられます。
また、1725年の何時の頃からか、「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽手帳」第2巻(第1巻は断片のみ現存)への書き込みを始めました。その後15年間にわたって書き込みを続けましたが、いずれも小品ながら心和む美しいメロディーが遺されています。
6.一旦あとがき
今回取り上げている「ヨハネ受難曲」が、バッハの後半生を過ごしたライプツィッヒ時代の代表作の一つのため、そのバックグランドを理解していただく参考にと思って、こういうテーマで書き始めてみましたが、やはり簡単ではありませんでした。最後まで一気にはかけませんでしたので、まずは「マタイ受難曲」まで行き着いたところで、皆さんのお目にかけることにしました。
次回は、ライプツィッヒ時代の後半の活動の紹介と、最近の研究により大きく変ったライプツィッヒ時代後半のバッハの評価と、そういう評価がなされるようになった当時の時代に対する理解の変遷について書いて見たいと思っています。
(Bass 百々 隆)
参考文献
- 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅著、1985年、東京書籍(株)
- 「J. S. バッハ−時代を超えたカントール」 川端 純四郎著、2006年、日本キリスト教団出版局
- 「バッハ=カンタータの世界III 教会カンタータ ライプツィッヒ時代」 磯山 雅監訳 2002年、東京書籍(株)
- 「名曲解説ライブラリー J. S. バッハ」 音楽の友社編、1993年、(株)音楽の友
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