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ライプツィッヒ時代のバッハ(その2)



前書き
 今回取り上げている「ヨハネ受難曲」が作曲され、何度も手が加えられた、バッハのライプツィッヒ時代を御紹介しようと思い書き始め、前回、「マタイ受難曲」の作曲まで御紹介しましたが、今回はそれに引き続いて生涯を終えるまでの音楽活動の概略と、ライプツィッヒ時代に生じたバッハの音楽活動の変化の理由に関する考察についても御紹介したいと思います。

1.音楽活動(その3)−コレギウム・ムジクムでの活動など1730年代−
 「マタイ受難曲」作曲の後、作曲活動は暫く止まります。その一因は、ザクセン選帝侯妃が9月に死去し、国中が4ヶ月間喪に服したことが挙げられます。それでも、この間に亡くなった侯妃の追悼式典のためにカンタータ「侯妃よ、さらに一条の光を」(BWV198)を作曲しました。この曲は後に「マルコ受難曲」の原型になったといわれています。
 その後1728、1729年には教会カンタータは数曲が作曲されていますが、熱心に作曲した形跡はありません。むしろ、この頃は、久しぶりにオルガン曲の作曲に再び取組み、オルガン用の「トリオ・ソナタ」6曲が誕生します。また、オルガン用の大規模な「プレリュードとフーガ」2曲(BWV548、544)が作曲されます。
 1729年はライプツィッヒでの音楽活動の一つの転機になります。それは、この年の3月に大学生を中心とした演奏グループ「コレギウム・ムジクム」の指揮者に招かれたことです。この団体は、1704年にテレマンによって創立された団体で、世俗音楽中心の演奏活動を行い、時にはコーヒー店やその庭園で定期的な活動をしていました。バッハは、10年余りに渡ってこの団体の指揮者を務めますが、市当局等とのいざこざが耐えなかった中で、格好の気晴らしになったことでしょう。バッハは過去に作曲した世俗曲も多く演奏したようですが、新たに作曲された曲として、管弦楽組曲第2番(BWV1067)、同第3番(BWV1068)や、一連のチェンバロ協奏曲が挙げられます。チェンバロ協奏曲は既成の各種の協奏曲の編曲が大部分ですが、バッハ自身で、あるいは2〜3台のチェンバロのための協奏曲では、息子達も加えてチェンバロを演奏し、それが大きな呼び物になっていたようです。
 この時期、カンタータの作曲数が少ないと書きましたが、広く教会音楽という観点からは注目すべき作品も生まれています。
 まず、最初にあげるべき作品は、後に「ミサ曲ロ短調」(BWV232)の一部を構成することになった、KyrieとGloriaでしょう。この2曲は1733年に作曲されましたが、その動機は、ドレスデン宮廷のザクセンの新しい選帝侯アウグスト2世に献呈して「宮廷作曲家」の称号を得て、ことある度に対立するライプツィッヒ市当局との交渉を有利に運ぼうとしたというのが一般的な見方です。そして、この2曲は、1733年7月にドレスデンに滞在した際にバッハ自身の指揮で演奏されたと見られています。このような働きかけにも係わらず、ドレスデン宮廷の動きは遅く、3年後に漸く「ザクセン侯宮廷作曲家」の称号を得ています。
 次に忘れることが出来ないのは、1734年に作曲された「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)でしょう。これは、ヘンデルやハイドンのオラトリオとは違って、一貫したストーリーがあるわけではなく、クリスマスから新年の礼拝に歌われるカンタータ6曲の集合体です。既存のカンタータからメロディーを転用している曲も多くありますが、どの曲も喜びに満ちた名曲です。
 また、この時期、「復活祭オラトリオ」(BWV249)、「昇天祭オラトリオ」(BWV11)も書かれていますが、これらの曲もオラトリオといっても少し規模の大きなカンタータという趣の曲です。「復活祭オラトリオ」は1725年に作曲されたカンタータを1735年頃改作したもので、この際にオラトリオの名前が冠されたものです。
 これ以外には、我が国ではあまり演奏される機会がありませんが、4曲のミサ・ブレヴィス(BWV233〜236)があります。ルター派の礼拝の様式に則って“Kyrie”と“Gloria”だけからなる曲で、旋律の多くは過去に作曲されたカンタータからの転用ですが、合唱、ソロともなかなか美しい旋律が多く、もっと評価されても良いのではないかと思います。
 教会音楽以外の声楽曲としては、世俗カンタータの作曲も増えています。この時期、ドレスデンへも何度か出かけ、新しい音楽に触れて世俗カンタータに反映したにものと言われており、「コーヒーカンタータ」(BWV211)や「農民カンタータ」(BWV212)等、今もよく知られた曲が誕生しています。

2.音楽活動(その4)−晩年(1740年頃以降)−
 目処としては1740年頃からがこの時期となります。1750年に亡くなっていますので、最後の10年間くらいということです。この時期もカントールの職にはありますので、教会で音楽を演奏する責任は負っていましたが、新しい曲を書くというよりは、過去の作品に手を加えることが多くなっています。我々が歌っている「ヨハネ受難曲」もこの時期にも改訂が加えられており第4稿が1749年に完成しています。
 新しい曲を書くというよりは、それまでに身に着けてきた音楽の技法の集大成を意図するような大作が書かれるのもこの時期で、器楽曲では「フーガの技法」(BWV1080、1740年代中頃。未完成という見方も)、声楽曲では「ミサ曲ロ短調」(BWV232、これも既存の曲の転用が多いため、完成年の同定が難しい)が挙げられます。
 その他で、この時期に書かれたもので有名なものには、「ゴールドベルグ変奏曲」(BWV988、1741/42年)、「音楽の捧げもの」(BWV1079、1747年)、平均率クラヴィーア曲集第2巻(BWV870〜893、1742年頃)、「シュープラーコラール」(正確には「種々の技法による6つのコラール」(BWV645~650、1748/49年出版))等が挙げられます。
 この時期になるとバッハも体力、身体機能的に衰えが見え始めていたようで、それを自覚してかどうかは判りませんが、自分が身につけた音楽技法を纏めて後世に残したいという気持ちが働いたのではないかとか、次節で詳述しますが、時代に合わなくなった自己を確認するためとか言われています。身体の点では視力が衰えたこと以外に、運動機能にも影響が現れ、自筆楽譜の筆跡が乱れてきているとも言われています。
 そしてバッハの最後の作品は何かということですが、ある時期までは「フーガの技法」だろうとの見方が支配していましたが、研究が進むと共にもっと早い時期の完成であろうとことが定説になり、現在では、「ミサ曲ロ短調」が最後の作品という見方が定着しています。ただ、以前「ミサ曲ロ短調」をレパートリーに取り上げたときにも書きましたが、現在我々が目にするようなまとまった形では、バッハの存命中には演奏されなかったことは確かなようです。
 バッハの死因について明記した資料にはまだ出会っていませんが、視力の回復を願って受けた手術が失敗で、視力が戻らないばかりか、死期を早めたと言われています。なお、この出たら目な眼科医は後にヘンデルにも同じような手術を施し、やはり命を縮めています。

3.ライプツィッヒ時代の変遷を解明する
 前回と今回の2回にわたって、ライプツィッヒ時代のバッハの音楽活動を簡単に紹介しましたが、要約すると、大変な意気込みで教会音楽を次々に生み出した1720年代から、コレギウム・ムジクムの指揮者就任に象徴されるように世俗音楽へ傾倒した30年代、自己の音楽技法の集大成、自己確認が中心となった晩年の40年代と大きく分けることができます。
 この大きな移り変わりが認識されたのは比較的最近です。それまでは、ライプツィッヒ時代の約四半世紀にわたる期間を、一貫して教会音楽家として精励し、コンスタントに新しい曲、特に教会カンタータを書き続けていたと理解されていました。ところが、1957年から58年にかけて、まったく独立して研究していた2人のバッハ研究家が、直筆のカンタータの、楽譜の筆跡、紙の質、写譜者の筆跡と紙の質の分析から、カンタータは最初の3年間に集中的に作曲されており、その後は、折に触れて散発的に作曲されていたことを明らかにしたのです。この発表は、バッハ研究の世界に起きた「地震」と表現する人もあるほど衝撃的なもので、この「地震」の背景、バッハの心境の変遷については学者の間で定説にまでは至っていません。
 筆者のような浅学ではとても自分なりの考えを纏められるものではありませんので、今回は、バッハの個人的な性向から、当時のライプツィッヒ市のおかれた状況、教会と社会との係わりの移り変わり、さらにその背景となった近代へと変化を始めた大きな社会的な潮流にまで考察されている、川端純四郎氏の意見を中心に書いて見たいと思います。

(1) 最初からのボタンの掛け違い
 バッハが着任当初の熱意を失っていった理由の一つとして、再三にわたる市当局との衝突ということが挙げられています。実際に衝突があったことは事実で、幾つかの記録が残っていますし、幼友達に窮状を訴えた手紙や、バッハ自身が状況の改善を市当局に願い出た上申文書も残っています。
 ここで少しその実例を紹介します。
 次回、詳しく紹介しますが、「ヨハネ受難曲」の初演を予定していた1724年の受難日の演奏会場を、順番からはニコライ教会であったのを勝手にトマス教会と決め付けて歌詞台本を作成して配布し、市議会に叱責されて訂正のチラシを作ったところ、その文言も不適切といわれ謝罪文を書かされました。
 1725年に大学と毎週の礼拝への参加を求めましたが拒否されました。これは前任者は参加していたのにバッハは拒否されていました。忙しくはなるのですが増収に繋がるので強く参加を希望したようです。
 1728年、トマス教会の副牧師が日曜日の礼拝用の賛美歌を勝手に選んだことに対して、市議会に上申書を提出して自分の権利を主張しました。結果はわかっていません。
 1730年、トマス教会の新しい校長を任命するに当たっての市議会での審議で、ある議員から「現カントールよりはましであることを期待する。」という発言が出ています。
 同年8月、市議会で、無断で聖歌隊を地方に派遣した、本人が無許可で旅行した、職務怠慢である等の理由で減俸の提案までなされました。
 この頃、「整備された教会音楽のための短い、しかしきわめて緊急の提案」という有名な上申文書を書いて、市議会が音楽の価値を認めず、予算を十分に出さないためにトマス教会における必要な音楽活動が妨害されていると主張しました。
 また、この年の11月には幼馴染のエートルマンに宛てて窮状を訴えた「エートルマン書簡」を送ります。
 この後暫くは、新校長が音楽に理解があったため、あまり大きな揉め事は起きていませんが、その校長が転出した途端に再びいざこざが発生します。
 1736年、バッハが任命したトマス聖歌隊副指揮者に対して、校長が別の生徒を任命します。この校長はトマス学校を音楽学校から普通の学校に転換させたいと考えていたようで、使徒たちはその線にそって音楽の勉強に熱が入らなくなり、バッハの不満が嵩じます。
 1739年には「ヨハネ受難曲」にとっても重要な事件が起こります。この年の聖金曜日にヨハネ受難曲を演奏すべく、楽譜の清書を進めていたのですが、演奏の10日前になって突然演奏の禁止が通告されました。結局、清書は10曲目までで中断されてしまいます。
 この間、バッハはドレスデン宮廷に後に「ミサ曲ロ短調」になった“Kyrie”と“Gloria”を献呈し、時間はかかりましたが結果的に宮廷付き作曲家の称号を得ましたので、このお墨付きが功を奏したのか、露骨な対立は下火になりました。

 このような衝突が起こった根本原因は、そもそも最初から市当局の思惑と、バッハの期待がずれていたのではないか、いわば最初からボタンの掛け違えがあったのではないかというのが一つのポイントです。
 前回のライプツィッヒ着任のところでも書きましたが、トーマス教会のカントールというのは、トーマス教会附属学校の教育者という側面と、トーマス教会、ニコライ教会を始め、主要な4教会及び市の公式行事などの音楽を司る音楽監督としての側面の両方が任務に入っていました。二つの役割がある場合には、そのどちらに重きを置くか、どの辺りでバランスを取るかということが重要になりますし、人それぞれで考え方が違ってくることは良くあることです。バッハは、当初はライプツィッヒ市当局の意中の人ではなく、何人かに断られて、妥協の産物として採用を決めたことは前回御紹介したとおりです。また、この妥協の裏には、ドレスデン宮廷からの圧力があったという見方もあります。話が少し面倒になりますが当時のドイツの統治機構に少し触れておきます。バッハが活躍していたライプツィッヒも神聖ローマ帝国と言われる国に属していましたが、実態は、各地域の領主が群雄割拠している状況で、ライプツィッヒはザクセン選帝侯の支配下にありました。そしてその首都がドレスデンにありましたので、バッハは何かとドレスデンの宮廷に助けを求めたというわけです。「選帝侯」という言葉も単純に考えると神聖ローマ帝国の皇帝に「選定」された領主というように読めてしまいますが、事実はその逆で、神聖ローマ帝国の皇帝を「選定」する地域の領主です。それならこの領主がその地域内にある市に対しても完全な支配をしていたのなら話は簡単なのでですが、ライプツィッヒ程度の規模の市、といっても当時の人口は3万人くらい、になると自治都市的な色彩が強く平常時には市に任されていたようです。ところが、バッハの任命の可否に関してはドレスデンの宮廷がライプツィッヒに対して採用するように圧力をかけたために市当局はしぶしぶ採用したようです。
 その際にも市当局は、従来どおりの決められたことを忠実にこなしてくれれば良い、役割の上では、教育者に重きを置くことを期待したものと思われています。バッハ自身もカントールに期待される二つの役割は十分に認識していたからこそ、カントールの地位に応募するまでに時間がかかったのでしょうが、応募したからにはそれなりに覚悟というか、成算があったのだろうと思われています。その成算とは、二つの役割の両立、いわば「楽長型のカントール」というべきものだったのではないかといわれています。
 このように、雇用する側の市当局と雇用される側のバッハの思いが違ったままにカントールに就任したことがそもそもボタンの掛け違えというべきものだったのかもしれません。

(2) バッハの性向
 ライプツィッヒにたどり着くまでのバッハの作曲の傾向からの分析ですが、ライプツィッヒに至る以前にも一つの音楽の様式を創出すると、その可能性を徹底的に組みつくすまで集中的にその様式に従って作曲し、ほぼ、汲みつくしたと感じるようになるとその様式に沿った作曲をやめてしまう傾向があるというものです。
 こういう見方をすると、ライプツィッヒ着任後の2年目からコラールカンタータという新しい様式に沿って、毎週のように作曲を続け、これが2年間続いたところで、急に作曲ペースが落ち、様式も変ってきたこと符合するとも言えます。

(3) ドイツ語作品への疑問
 ライプツィッヒ着任後、バッハが精力的に作曲したコラールカンタータの歌詞は、その日の祝日に則したものでしたが、聖書そのままの引用ではなく、バッハと同時代の作詞家が書き下ろしていたものです。
 このため、当然、言葉はドイツ語ですし、内容もその時代の影響を受けていることは否めません。ドイツ語は今でもそうですが、日常語としている人口は限られており、内容は時代の変遷と共に陳腐化することも考えられます。ある時、このような限界に気づき、自分の作品が何時の日か忘れ去られてしまうのではないかという危惧を持つようになったために、コラールカンタータのみならず、ドイツ語のカンタータの作曲が急減したのではないかというのが一つの見方です。裏を返して、ラテン語の、しかもミサ典礼文であれば、カトリック教会のみならず、部分的にはルター派の教会でも用いられていましたので、多くの国で、時代を超えて歌い継がれることが期待できました。先にも書きましたように、この時期、後にロ短調ミサ曲として纏められたものの他にも4曲の「ミサ・ブレヴィス」が書かれたことは、このような期待の表れかもしれません。

(4) 時代背景、社会的背景
 いつ頃が大きな転機だったのかという点で、川端さんが興味深い分析をされていますので、紹介しておきます。
 結論から言うと1734年に作曲された「クリスマス・オラトリオ」がその転機の象徴だというものです。「クリスマス・オラトリオ」はコラールカンタータのような様式を持っているのですが、問題はそこで用いられているコラールの歌詞と旋律だということです。
 元々コラールカンタータに用いられているコラールは、当時、広く会衆に知られていた讃美歌から取られているものが大部分で、礼拝の際、会衆が実際に声は出さないまでも、心の中では一緒に歌えた歌であり、また、その一緒に歌っている気持ちになることがルターが大切にした会衆の礼拝への参加の重要な要素でした。
 ところが、「クリスマス・オラトリオ」に用いられているコラールは、ルターの時代に遡れるような古典的な物は無く、18世紀以降に作曲されたもの、或いはバッハ自身の創作になるものだということです。すなわち、この時代にはコラールを一緒に歌うことによって礼拝に参加するという教会のあり方そのものに変化が生じており、バッハは1730年代になるとそのような状況を受け入れざるを得なかったのではないかとされています。因みに、「クリスマス・オラトリオ」第一部には、マタイ受難曲の有名なコラール「血潮滴る」と同じ旋律が用いられていますが、この旋律もバッハが生きた18世紀の世俗曲から取られたものです。
 その背景をもっと掘り下げていくと、18世紀後半というのは、後進地域であったドイツでも啓蒙思想の影響を受けて近代への歩みが始まっていたということです。この頃、周辺の国に目を向けると、イギリスでは責任内閣制が発足して「王は君臨すれども統治せず」という政体が確立し、フランスでは、ルイ15世が最後の華を咲かせて、ルイ16世の時代になるとフランス革命に向かっていく時期です。ドイツでもそれまでの群雄割拠の時代から、北部ではプロイセンが力をつけ、公国から王国に変っていきます。文化面では、「法の精神」を書いたモンテスキューや、後に「社会契約論」を記すルソーなどが活躍を始める時期にさしかかっています。
 このことは広い意味では、中世的身分制社会から近代的市民社会への転換期にあったといえます。このことを教会の世界に置き換えると、それまで市民生活の中心というか、市民生活と一体となっていた教会が、その座を降りて信仰生活と日常生活が別の価値観で営まれるようになったことを意味します。言い換えますと、信仰生活と市民生活が一体となっているということは、音楽活動やその他の職人の仕事もすべて神に奉仕するという一つの価値観の下に統合されているという考え方が崩れ、音楽の拠って立つ基盤が変ってきたということになります。そういう点では、同時代のヘンデルの方が遥かに早くこの転換期に適応し、イタリアからイギリスに渡って、オペラからオラトリオに作曲の中心を移したとはいえ、一貫して市民を聴衆とした音楽生活に馴染んでいったといえましょう。
 そういう意味ではバッハは当時としても旧時代の人間で、それまで想像もしなかった教会生活と市民生活の分離という時代変革に戸惑って、教会での職務は最低限とし、自らを確かめるように「フーガの技法」や「ミサ曲ロ短調」の作曲に向かって行ったのではないかと見られています。


4.あとがき
 今回は、ライプツィッヒ時代後半の音楽活動の概要を御紹介すると共に、ライプツィッヒ時代を通じてのバッハの心境の変化に関する一つの見方を御紹介しました。
 我々が今取り組んでいる「ヨハネ受難曲」はライプツィッヒ時代のごく初期、新しい様式のカンタータの作曲に脂が乗り切っていた時期に書かれたものですので、その後の話を長々と書く必要があるのかと思われる方もあるかもしれませんが、次回以降ご紹介するように「ヨハネ受難曲」はバッハの最晩年に至るまで、生涯に渡って数回改訂が行われており、その改訂を近年になって集大成されたものが、我々が使っている新バッハ全集版になっていますので、少し詳しく書かせてもらいました。
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「J. S. バッハ−時代を超えたカントール」 川端 純四郎著、2006年、日本キリスト教団出版局
  2. 「バッハ事典」 磯山 雅他編 1996年、東京書籍(株)
  3. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅著、1985年、東京書籍(株)

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