メニューバー

トップページ > バッハ研究 > バッハの評判

バッハの評判


 今回も前回に引き続いてバッハの人物像を書いてみたいと思います。
 生存当時どのような評判を得ていたのか、そして、後世の我々が知っている音楽家や文化人がどのような言葉を残しているか、これも脈絡もなく拾ってみたいと思います。

1. 生存中の評判
(1) オルガニストとしてのバッハ
 バッハは生存中は間違いなく演奏家として高い評価を得ていた。特にオルガンに関しては始めの頃はなかなか理解されなかったが、次第にその力量が評価されるようになった。ある時期からは、各地の教会に新しく設置されたオルガンの検定(完成時に発注した側が行なう受け取り試験のようなもの)も依頼されるようになった。
 オルガン奏者バッハの評価の例を示す。
 まず、C.F.シューバルトという人が書いているもの。
 「彼のこぶしは巨人並みだった。たとえば彼の左手は12度(1.5オクターブ)を鷲づかみにし、しかも中間の指で装飾音を奏することができたのである。彼はペダルでの走句を極端なまでの正確さで奏し、また、さまざまな音栓(筆者注:オルガンの音色を調整する為のバルブのようなもの)を目にもとまらぬ早業で出し入れするので、聴き手はこの魔術のような渦に巻き込まれてほとんど茫然自失してしまうのだった。」
 ただし、この文章はバッハの死後30年ほどしてからかかれているので、若干の誇張は含まれていると思われる。
 次はC.べラーマンという人が、1732年にカッセルの聖マルティーン教会で行なった演奏を表したもの。特にペダルの演奏は評判が高かったようである。
 「彼は、気分が乗ってくると、足だけを使って――その場合、手は全く休んでいるか、なにか新しい声部を付け加えるかするのだが――驚くべき迫力と速力をもった多声的かつ和声的なオルガン演奏をやってのけるのであって、その見事さは、他の演奏家達が両方の指を駆使しても到底真似のできないほどのものである。かつて修復なったオルガンの検査の為にバッハをカッセルに招いたヘッセンの侯嗣子フリードリッヒは、まるで翼でも生えているかのようにペダルの上をとびまわり、稲妻に続く雷鳴のような轟音を聴き手たちの耳に鳴り響かせる彼の足の妙技に驚嘆するあまり、宝石をちりばめた指環を抜くと、この強烈な演奏の終わるのをまって、それをこの芸術家に贈ったのだった。」
 しかし、このような評価が定着するまでに石頭の教会首脳との葛藤も数多く会ったようである。その一例として、20歳そこそこの頃、アルンシュタットの教会オルガニスト時代の記録を示す。これは、ブクステフーデのオルガン演奏を聞く為に、4週間の休暇願いを出しでリューベックに出かけたのが、結果として4ヶ月に及んでしまい、かつ、帰任後はブクステフーデの影響を受けた前衛的な演奏、即ち、コラールの伴奏に派手な装飾や不協和音を持ち込み、さらに間奏には目もくらむようなパッセージを持ち込んだこと等が聖職会議で取り上げられた際の議事録である。

Q:先頃これほど長きにわたりどこに滞在していたのか、またそれは誰の許可を得てのことか。
 バッハ:私はリューベックにいました。同地において私の芸術に関しなにがしかのことを得るためです。しかし、あらかじめ教区監督殿に許可を願い出ていました。
 Q:彼は、ただ4週間の許可を願い出たのみであったのに、その4倍もの期間留守にしたのだ。
 バッハ:オルガン演奏のことなら、私が留守の間、代理の人にあらかじめ頼んでおいたわけですから、なんら苦情を言われる筋合いはないはずです。
 Q:あなたがこれまでコラールにおいて多くの珍奇な変奏を行い、多くの奇異な音を混入させて会衆を混乱に陥れたことは、まことに遺憾である。今後、もしトーヌス・ペレグリヌスを持ち込むつもりなら(恐らく遠い調へ転調する、という意味であろう)、それを保持するようにし、あまりにも急速に他のものへと向かったり、ましてやあなたがこれまで常としてきたようにトーヌス・コントラリウス(恐らく不協和的な伴奏和音のことであろう)を弾くことは止めてもらいたい。次に、これまで合唱音楽が全く演奏されてこなかったことは、きわめていぶかいしいことであるが、その原因はあなたにある。」


 さらにこの話には余禄があって、演奏が長すぎることが非難されたことから、極端に短い演奏を繰り広げたといわれている。

(2) 作曲家、カントールとしてのバッハ
 バッハがアルンシュタットを手始めに、ミュールハウゼン、ワイマール、ケーテンそしてライプツィッヒと次々と職を得ていったのは、演奏家としての評価を得ていた点が大きい。  その過程で数多くの曲を書いて行ったわけであるが、作曲家としては同年生まれで同じように北ドイツで活躍していたテレマンの方が遥かに人気を博していた。
 バッハは現在では音楽面で決して保守的ではなかったといわれているが、バロック文化が終焉を迎えていた当時のヨーロッパではバッハの音楽はどちらかといえば時代に取り残されたものという印象をもたれていた。当時は、「音楽の本質は心を揺さぶる旋律にあり、よい旋律とは、平易、明瞭、流麗、優美の4条件を備えているもの」という考えが広まりつつあり、バッハのような手のこんだ対位法とは相容れなくなっていたのである。このような考え方に立ってバッハを強烈に批判した例として、1737年に以前はバッハの弟子であったヨーハン・アードルフ・シャイベ(1708〜76)が書いた有名な論文がある。即ち、
「この偉大な人物は、もし彼がもっと快さを身につけていて、ごてごてした入り組んだものによって曲から自然さを奪うのでなければ、また技巧の過剰によって曲の美を曇らせるのでなければ、すべての国民の感嘆の的となることだろう。彼は自分の指を判断の基準とするので、彼の曲は、きわめて演奏が難しい。なぜなら彼は、歌手と楽器奏者たちに、のどと楽器によって、自分がクラヴィーアで演奏できるのと全く同じことをさせようとするからである。だが、そんなことは、できるはずがない。すべての装飾、すべての小さな装飾音、また演奏者がどう弾くべきか心得ているところまですべて、彼は自分で楽譜に書き表す。これによって曲から和声の美が奪われるばかりでなく、節まわしがまったく聴き取れなくなってしまう。また彼は、すべての声部をともども、同じ難度をもって活用しようとするので、そこではもう、主要声部を判別することができない。要するに彼は、詩人フォン・ローエンシュタイン氏の音楽版とでもいうべき人物である。誇張癖が、二人を自然から技巧へ、崇高から暗闇へと導いていった。たしかに、二人の労をいとわぬ仕事や並々ならぬ骨折りは、簡単に値する。だがそれは、自然に背いているのであるから、実際には何にもならないのである。」
というものである。
 我々がバッハの壮大な合唱曲に取り組む時、ゴシックの大聖堂を思わせる建築美ともいえるよなフーガの構成力に魅せられるのだが、この論文ではそういう点を全面的に否定しているようである。

 また、後半生を送ったライプツィッヒのカントールに就任するに当たっても諸手を挙げて迎えられたわけではない。
 それは、この地位が教会での職務を中心とするカントールの他に市の音楽監督即ちカペルマイスターという役割も持っていたことから賛否両論に分かれたものである。  カントールの役割を重視する人は、市内にある4箇所の教会の礼拝の音楽演奏を間違いなく司る実務家であり、かつ聖トーマス教会付属学校の教師として、生徒を監督・指導することに重きを置き、芸術性を求めたわけではなかった。教師としての役割の中には音楽だけではなく、ラテン語の授業まで含まれていたのである。ただ、バッハはラテン語の授業に関しては金を払って代理者を雇ったとのことである。
 前任者のヨハン・クーナウが亡くなってから、後継者の本命にはテレマンが上げられていたがテレマン自身が就任直前になって辞退したことから人選が難航した。
 候補者としてはバッハを含めて4人の名前が挙がったが、バッハは第4候補で、他の3人が辞退したことから止むを得ず、“バッハでも仕方ないか”ということになって任命されたといわれている。他の3人はカペルマイスターの役割を重視した勢力から推されていたが、その3人が辞退した後を引き受けたバッハはカントールとしての役割も引き受けざるを得なかった。バッハがこのような扱いを受けた理由としては、オルガニストとしての評判は高かったものの教会音楽家としては知名度と量的実績に乏しく、特に、ライプツィッヒにおいては馴染みが薄かったことが挙げられている。

2.後世の音楽家、文化人のバッハ評
 ここでは、我々にも馴染みのある音楽家や文化人がバッハに関して残した言葉を羅列してみたい。同時代人であるテレマンを除くと19世紀以降バッハが見直されるようになってからのものが中心となった。当然のことながら賛辞が多いがベルイオーズとニーチェが辛辣である。

(1) ゲオルク・フィリップ・テレマン
「今は亡きバッハよ!そなたの見事なオルガン演奏はひとりそなたに“偉大”という気高き呼称をもたらせり。そしてまたそなたが筆にしたもの、最高の芸術表現を喜ぶ者あり、はたまた羨望の念もて眺める物ありき。」(1751年、他にかなり長い追悼のソネットがある。)

(2) ローベルト・シューマン
「《平均律クラヴィーア曲集》をあなたの日々の糧にしなさい。あなたが最高の音楽になれることは確かです。」(1848年、『若き音楽家のための訓言』より)
「もろもろの源泉は、長い時が巡るうちに、徐々に互いへと近づけられてきた。例えばべートーヴェンは、モーツァルトが学ばねばならなかったことを、すべて学ぶ必要はなかった。同様にモーツァルトはヘンデルが、ヘンデルは例えばパレストリーナが学ばねばならなかったすべてを、学ばずにすんだのである。なぜなら彼らは、すでに先の者を自分自身の中へと取り込んでいったからだ。ただ、ある一つの源泉からは、あらゆる者が常に新たに汲み取ることができるだろう−J.S.バッハから!」

(3) ヨハネス・ブラームス
ブラームスはベッハ協会の各巻−彼の作品の集成版−の刊行をじりじりして待っていたが、それを手にするやいなや、いっさいの仕事をほうり投げて眼を通した。ブラームスは「老バッハにはいつも驚きがある。わたしはいつもバッハから新しいものを学んでいる」と言った。ところがヘンデルの作品の新しい版が届いたとき、彼はそれを本棚に突込んでこう言った。「これはきっと大いに興味をひくものと思うが、ひまができたら眼を通すことにしよう。」

(4) ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
「わたしはバッハを弾くのは好きだ。すぐれたフーガを弾くのは楽しいからである。しかしわたしは、ほかの大勢の人間たちと同じように、彼を大天才とは思っていない。」。(1886年の日記より)

(5) クロード・ドビュッシー
「音楽家たちが、自らの仕事にかかる前に、凡庸に陥らないために、まず祈らなければならないこの慈愛にあふれる神」。(1913年、パリ、「ラ・ルヴユー・S・I・M」誌。)

(6) アルノルト・シェーンベルク
「わたしは、『バッハは十二音の最初の作曲家だ』とよく言っていたものだ。これはもちろん冗談だったが……。しかしわたしのこの発言の土台になっているものは《平均律クラヴィーア曲集》の第二四番口短調が、すべての十二音が現れるドゥクス一主題一で始まっているということである」。(1950年)

(7) パブロ・カザルス
「バッハの奇蹟は、ほかのどんな芸術にも現れなかったものだ……わたしは、バッハがドイツの巨匠である事実を否定はしない。しかし国家というレッテルを貼ってバッハを限定しようとするのは間違っている。バッハはあらゆる国家、あらゆる時代を超越した、光輝く天才に属している。」(1956年『カザルスとの対話』)

(8) カール・マリア・フォン・ウェーバー
「バッハは芸術の真のゴシツク大伽藍を建てた。おそらくはヘンデルのより古代的偉大さとは対照的に、本質的にロマンティックで、ドイツ的基盤を持った音楽家」。(1818年『百科辞典』の論文)

(9) ローベルト・シューマン
《パッサカリア・ハ短調》を組み入れたリサイタルを批評して、「教会の窓に、夏の夕べが美しく輝いていた。教会の外でさえ、戸外で大勢の人問が、ひとりの巨匠がいまひとりの巨匠をみごとに表現するのを聴くのは無上の喜びであり、これこそが音楽の偉大さであると考えながら、みごとな音に思いをめぐらせたかもしれない。老いたる者にも若き者にも、等しく栄光と名誉のあらんことを!」(1835年、彼が編集する『音楽新報』誌に)

(10) グレン・グールド
「リズムについてバッハの考え方と、二十世紀の考え方は一つに結ばれているが、その橋はポピュラー音楽とジャズが架けたものである。」

(11) エルンスト・ブロツホ
「対象的となるものは、モーツァルトにおいては世俗的、バッバにおいては宗教的な自我である。モーツァルトが波乱に富んだ仕方において、軽快に、自由に、活発に、くつろいで、輝きつつもろもろの感情を鳴り響かせるとすれば、バッハは、より荘厳な仕方において、重厚に、強迫的に、厳格に、仮借のないリズム化をもって、くすんだ色合いにおいて深く、自我とその情動的な資産目録を開示する。」(1918年、《注:ブロッホ;スイス生まれでアメリカに渡ったユダヤ人作曲家。》)

(12) ハンス.ヴェルナー・ヘンツェ
「この音楽においては、それまで音によっては誰も敢えて言わなかったもの、誰にも言えなかった、あるいは言おうと試みることだにしなかったものが論題となっている。そこには、無比のリアリズムをもって、ある簡素な普遍言語が成立している。その助けと仲介によって描き出されるのは−こんにちようやく、われわれはこのような見方、考え方をすることができる−、もはや伝統的なキリスト教的.市民的聴衆のみならず、まさに現代的な、孤独の中で疑いつつ生きる、信仰を失った人問・社会におけるどんな確かな拠り所も知らず、人生の大部分をいわぱ「教会の祝福なしに」過ごさねばならない人間、そういう人間が、その中で自分を会衆として認め得るような、人間的諸感情と諸状況なのである。」(1938年、《注:ヘンツェ;第2次大戦後のドイツを代表する前衛作曲家。代表作に歌劇『若い恋人達へのエレジー』等がある。》)

(13) エクトル・ベルリオーズ
「このこっけいで愚にもっかない讃美歌を再生するために、情熱に燃え、若さみちあふれる三人の賞讃すべき才人が結束する姿をみるのは、まさに胸痛む思いだった」。
(フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、フェルディナント・ヒラーにより演奏されたバッハの《三台のピアノのための協奏曲》を聴いたあとで。)

(14) ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
「私はこのとき、ベルカの優れたオルガニストのことをはっきりと思い出しました。なぜなら、私はそこで初めて、全き心の平安のうちに、外的な何ものにも煩わされず、あなたがたの偉大な大家〔バッハ〕の何たるかを知るようになったからです。私はそれを次のように言い表しました。永遠の調和がそれ自身と談笑しているかのように、言うなれば天地創造の直前に神の胸の内で起こっていたであろうように、そのように私の内奥においてもまた何ものかが揺れ動き、まるで私が耳も、目さえも、さらにその他の何の感覚も持っていないか、または必要としていないかのようにさえ思えたのでした。」(1827年)

(15) フリードリヒ・ニーチェ
「バッハはなまはんかなキリスト教信仰、なまはんかなドイツ精神、なまはんかな伝統的方法論に固執しすぎている。彼は近代ヨーロツパ音楽の入り口に立つてはいるが、しかしつねに中世を振り返っている。」(1878年)

(16) ジャン・ポール・サルトル
「彼は確立した規律の枠の中で、いかにして独創性を発見するかを教えた。実際には、いかにして生きるかを」。(1968年12月27日付『タイム』誌)
(Bass 百々 隆)
参考文献
  1. 「基本はバッハ」 ハーバート・クッファーバーク、1992年、音楽の友社
  2. 「大作曲家バッハ」 マルティン・ゲック、1995年、音楽の友社
  3. 「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」 磯山 雅、1985年、東京書籍
  4. 「クラシック音楽作品名辞典」 井上和男、1985年、三省堂

バッハ研究
家系と家族 生涯概観 参考文献-1 参考文献-2
作品番号 ロ短調ミサ-1 ロ短調ミサ-2 演奏習慣 生活
時代-1 時代-2 その後 人物像 評判
息子達 ミサとミサ曲 CD 礼拝 教会暦と音楽
受難曲の歴史 ライプツィッヒ-1 ライプツィッヒ-2 バッハの受難曲 ローマ史
ヨハネ受難曲の物語      

フォーレ研究 モーツァルト研究 バッハ研究 ヘンデル研究 ブラームス研究
トップページ EnsembleVoceとは これまでの演奏会 練習スケジュール